Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

自転車、登山、テレマークスキー、カヌー・・・そんな情報が満載ですよ!!

街並み探訪 竹原・矢掛・足守!!

2011-02-23 22:20:19 | 旅行
《街並み探訪 竹原・矢掛・足守!!》
 歴史を重ねてきた古い街並みは日本の宝・・・そんな場所を見つけたときは、なぜか幸せな気分に浸れる。心がなごむ・・・それは幼いころに見た町の風景をそこに感じるからだろうか。

 気ままな一人旅はいい・・・誰に気兼ねも無く、思いつくままに興味の沸く場所を訪ねることができるから。宿も取らないほうがいい・・・予約をすれば、場所や時間にしばられ、自由な行動が出来なくなるから。結果、車中泊・・・ワンボックスカーのシートはフラットになり、冬用の羽毛シュラフがあれば真冬でも快適!??それでも寒ければシュラフを二重に・・・カイロを使うのも効果的。食事・・・早朝や深夜の食事は不自由・・・山用のコンロとコッフェルさえあれば心強い。夕方のスーパーで買出し・・・黄色い見切り?シールを狙えば、豪勢な刺身も味わうことが出来る。それにアルコールがあればこれ以上の贅沢はない。

 今回、朝、コッフェルに残っていた水が凍り付いていたのには驚いたが・・・


(竹原 伝統的建造物群保存地区)
 まるで歴史から取り残されたように竹原の街並みはあった。多分、戦災にはあっていない・・・江戸から明治にかけての立派なお屋敷が当時のままに残っていた。こんな町を訪ねるのには自転車が一番・・・気に入った場所に停め、カメラを向ける。地元の方がいれば話しかけてみる。安心感からか、とてもホットな話題を聞けることが多い。

 日本のウィスキーの父といえば竹鶴政孝・・・ニッカウヰスキーの創業者である。スコットランドでウィスキー造りを学び、北海道の余市にディスティラリー(蒸留所)を立ち上げた。本家筋の竹鶴酒造が今も美味しい日本酒を造っていた。


(山陽道 矢掛宿)
 石井家住宅は、山陽道第18番目の宿場町となる矢掛宿。その本陣として、国の重要文化財に指定されている石井家住宅は、今もその堂々たる屋敷を維持している。

 本陣は参勤交代で江戸と国もとを行き来する大名や公家、幕府役人の宿として、機能し、建物は、当時の建築の粋をこらしており、見るものに感動を与えてくれる。


(足守侍屋敷)
 岡山県指定重要文化財・・・この侍屋敷は、江戸時代に備中国(現在の岡山県西半)の南東部で、2万5千石を領有した足守藩の国家老を勤めた杉原家の居宅です。家老屋敷のたたずまいをほぼ完全に近い形で伝えていて、この種の武家屋敷としては県下唯一の貴重なもの・・・だそうだ。

 伝統的建造物群保存地区・・・また旅の楽しみができてしまった。次回は新潟へ・・・村上、新発田、出雲崎へ。

国国宮めぐり 美作・播磨へ!!

2011-02-17 22:35:07 | 国国宮めぐり
《国国宮めぐり 美作・播磨へ!!》
なぜ国国宮めぐりなのか・・・今も当たり前に使われている旧国名・・・尾張名古屋、飛騨高山、越前海岸、三河弁、近江米・・・でも、案外そのルーツは知らないことが多いようです。

令制国(りょうせいこく)とは、律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位であった・・・令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。国府は府中と呼ばれることもあった・・・とあるサイトより

奈良時代の旧国名は65ほどあったらしい。淡路島、佐渡島、隠岐島、壱岐島、対馬なども独立した国であったようです。

そんな場所に立て、1300年前を偲んでみるのも旅の面白さかと思い、暇を見ては国府、国分寺(尼寺)、一宮を訪ねています。2月現在、一宮でカウントしたところ、49の国を訪れることができたようです。

国分寺・・・国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)は、741年(天平13年)、聖武天皇が国情不安を鎮撫するため、各国に建立を命じた寺院。壱岐や対馬には「島分寺」(とうぶんじ)が建てられた。正式名称は、国分寺(総国分寺は東大寺)が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺(総国分尼寺は法華寺)が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である・・・とあるサイトより

一宮・・・一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。一宮の選定基準を規定した文献資料はないとされるが、準公的な一種の社格として機能した。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ・・・とあるサイトより


(美作国府)
美作をみまさかと読める人は少ないかもしれない。津山市内より県道68号を北上し、坂の上の高台に国衙跡の碑が建ち、現在はお寺さんになっていました。


(美作国分寺)
津山市内を東に抜け、加茂川を南に渡った高台に国分寺跡がありました。現在の国分寺は新しく、奈良時代の跡はこれから発掘がされるようで、民家や水田になっている場所は用地買収がされ、いづれは公園化されるようであった。


(美作国一宮)
国府跡を過ぎ、川沿いを上流に遡ったところに美作国一宮「中山神社」はあった。鳥居の前には樹齢〇年の木があり、歴史の古さを物語っていました。なぜか境内の木々が伐採?されていて、殺風景なのが気になりました。


(播磨国一宮)
津山インターより中国自動車道に乗り、兵庫県の山崎インターにて降りる。揖保川に沿って北上し、播磨国一宮の「伊和神社」に辿り着く。町名も一宮町・・・地元の方にも親しまれている神社のようで、社殿の前では新車のお払いをしてる最中でした。

廃線紀行 井笠鉄道を訪ねる!!

2011-02-15 22:39:38 | 鉄道
《廃線紀行 井笠鉄道を訪ねる!!》

 井笠鉄道の鉄道線のうち、最後まで残った本線も1971年(昭和46年)3月31日を限りに運行を取り止めたが、井笠鉄道は数ある軽便鉄道の中でも遅くまで残ったため、車両が多く保存されていた。井笠鉄道の前身である井原笠岡軽便鉄道が創立されてから70周年に当たる1981年を期して、旧新山駅舎を流用した「井笠鉄道記念館」を設置し、残っている車両も保存することとなった。

 廃止後40年以上経過する現在でも保存状態は極めて良好である。元新山駅駅長とその家族が管理をしている。2002年には記念館が産業考古学会の推薦産業遺産に指定され、また2009年には館長も産業考古学会の保存功労賞に選ばれた・・・以上、とあるサイトより

 北恵那鉄道、尾小屋鉄道、有田鉄道・・・鉄道マニアといえるほどの者ではありませんが、サイクリングネタの一環として地方の私鉄ローカル鉄道跡を訪れています。日本の高度成長期を支え、人を、産業を運び続けた鉄道も時代の流れで役目を終え、廃線に・・・もう要らないから消えてくれ!・・・そんな薄情な気がしてなりません。効果、効率だけを追い求める現代社会、成果がなければいけないのかと。鉄道廃線跡を訪ねるたびにそんな叫びがレール跡から聞こえてきます。「お前ら、俺が一生懸命運んでやったんだぞ!」と・・・

 廃線から30年以上・・・意味合いは違いますがまさしくビンテージな世界、熟成をし、芳醇?な空気が漂っていました。・・・草むらに没した築堤、レンガ造りの隧道跡、赤く錆びた鉄製の橋梁、石造りの橋脚・・・ふと、街並みの中にかつてのプラットホーム跡を見つけたときは、複雑な感動を覚えます。


(かつての新山駅・現在は記念館に!)
 井笠鉄道の名は、井原と笠岡を結んでいたからでしょうか。ナローゲージ(軌間762mm )の軽便鉄道が昭和46年まで走っていたのも凄いことですが。(現在も近鉄内部・八王子線、三岐鉄道北勢線は稼動)


(井笠鉄道沿線図)
 場所が分からず、交差点に止まって訪ねようと思ったらそこが記念館でした。かつての新山駅舎をそのままにして、内部には当時の鉄道グッズが・・・隣りには可愛い蒸気機関車と客車が保存されていました。懐かしい沿線図もたまらない・・・


(スチーム・ロコモーティブ!?)
 イギリスあたりから輸入されたものでしょうか(正解はドイツでした)、まるで新橋-横浜間といった風情。こんな小さな蒸気機関車が頑張ってくれていたのですね。今も動輪には油が注され、いつでも現役復帰という感じでした。

 1号機関車 1913年、オーレンシュタイン・ウント・コッペル-アルトゥール・コッペル社(ドイツ)製の蒸気機関車。鉄道線全廃翌々年の1973年から5年間、西武山口線で「おとぎ列車」の牽引に使用されていた・・・とあるサイトより


(懐かしの出札窓口)
 「笠岡まで大人一枚!」そんな声が聞えてきそうです。切符を持って改札へ・・・変?なハサミでパチンと切り掛け?が・・・とても懐かしいです。


(雄姿!)
 もう写真でしか当時の姿を見ることはできません。その線路跡に県道48号が作られたのでしょうか。まるで当時の軌道跡が残っていないのがちょっと寂しかったです。

 現在、その一部は井原鉄道として存続していましたが、オール・コンクリートの近代的な鉄道になっていました。

 願わくば、井笠鉄道記念館の館長さん(駅長さん)が健在なうちに訪ね、当時のお話を聞きたいものです。


国国宮めぐり 備中・備前へ!!

2011-02-14 11:41:44 | 国国宮めぐり
《国国宮めぐり 備中・備前へ!!》

国分寺に興味のない方でも、吉備路から眺める備中国分寺の五重塔の風景はご存知かと思う。その優美な塔は、1300年前の奈良時代そのままの風情があるように感じる。


(備中国府)
何度も迷い、ようやく国庁跡に・・・本格的な発掘調査はされていないようで、あくまでも言い伝えの場所のようであった。


(備中国分寺)
吉備路を旅する人は、その姿に圧倒される。奈良時代のものではないにしても、優美な五重塔は、そののどかな風景の中に溶け込んでいた。信仰心がなくても心が洗われる気分であった。


(備中一宮)
吉備津神社・・・三備一宮とある。備前、備中、備後を統括?する神社なのであろうか。その建物がまた素晴らしい・・・

備前国府・・・現在の岡山の市街からはずい分離れていた。広島同様、水害にあわないよう土地の高いところに国庁を造ったようで、今は住宅地の中の空き地となっていた。


(備前国分寺)
この国分寺は国府よりずい分離れていた。結構な山奥で、当時のお参りも大変だったようである。現在、塔の礎石が新しく設置され、公園化をするようであった。



(備前一宮)
吉備津彦神社・・・備前焼で出来た狛犬が待ち構えていた。

城郭めぐり 山陽路を辿る!!

2011-02-08 21:23:22 | 城郭めぐり
《城郭めぐり 山陽路を辿る!!》
城跡を巡る方は多いと聞く。明治以前の武家社会では、各藩の権力の象徴として城郭が築かれた。しかし、明治の廃藩置県で不要となった城の多くが破却されてしまったという。残っていれば、その多くは国宝級といっても過言ではない。

城の魅力・・・正直、コンクリートで復元された天守閣には魅力を感じない。今も残る石垣であったり、堀には当時の縄張り(設計)の妙があって面白い。街並み(城下町)から眺める城跡も味があり、また、天守台から見下ろす城下も当時の殿様気分で心地よい。


(広島城)
1600年、関ヶ原の戦いで功績のあった福島正則が毛利輝元に変わって50万石で入城。しかし、16年後、洪水によって崩れた石垣を幕府の許可(武家諸法度)なく修繕したため、信州川中島・高井野藩へと左遷(4万5千石)させられた。徳川にすれば、加藤清正とともに豊臣家恩顧の家臣を処分したかったようである。

広島の原爆投下・・・それまで国宝の広島城があったが、原子爆弾投下の際には、爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風の衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊、間もなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱したという


(三原城)
1567年、小早川隆景によって築城。水軍の影響もあり、堀へは瀬戸内海より直接に入れたとも。現在、山陽新幹線が城内をぶった切り、悲惨?な状況に・・・城跡へは駅の構内からしか入れないらしい。


(福山城)
ここも新幹線の駅が横にあり、多くの堀や石垣がなくなったようである。復元された五層の天守閣はなかなか立派・・・伏見城から移築された伏見櫓と筋鉄御門は重文だそうだ。平城ながらなかなかの威厳があってよい。


(鬼ノ城)
実は今回の旅のメインディッシュ?でもありました。鬼ノ城はきのじょうと読む。岡山県総社市にあり、山の標高は397m・・・ちょっとした登山の覚悟がいる。結果、ちょっと期待しすぎた感じ・・・和田山の竹田城のほうが感動・・・飛鳥時代の山城とも、桃太郎伝説の舞台とも・・・案外、お城ではなく、宗教的な儀式をする場所であったかとも推測!??


(備中高松城)
羽柴秀吉による水攻めで有名な城跡・・・今も11日間で造られた堤防跡の一部が残っていて、基礎の部分が復元されていた。城主・清水宗治は家臣の命と引き換えに自害したという。「中国の大返し」その後、秀吉は明智光秀と山崎の天王山で一戦を交え、やがて天下を取った。

(参考)鳥取城の兵糧攻め・・・何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し、人肉を食らう者まで現れた。信長公記にはこう記されている。「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。」、吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城、自害した。・・・秀吉は恐ろしい!??


(津山城)
この城跡は凄い・・・その見事な石垣を見るだけでも感動を覚える。往時の櫓の数は、広島城76、姫路城61に次ぐ数(60)を誇ったという。1603年、森忠政が18万6千石で入封。彼は美濃兼山城の城主、森可成の六男で、森蘭丸の弟でもあった。何か岐阜と津山は縁があって親近感が湧いた。

2005年、備中櫓が復元された。