Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

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輪旅・東海道 吉田宿から見付宿へ!

2006-11-20 21:52:32 | Weblog
≪輪旅・東海道 吉田宿から見付宿へ!≫

山路を自転車で走りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、一人で知らない所へ行きたくなる・・・「怪しい草枕」

 やはり自転車旅の醍醐味はソロツーリングにあるようだ。誰にも煩わされることなく、自由な思いのままに自転車を走らせるのは爽快でもある。今回は旧東海道の道筋を吉田宿(豊橋市)から見付宿(磐田市)まで走って来た。

 豊橋の駅前で自転車を組み立て、アーケード街を抜けて旧東海道へ出る。曲尺手門跡を過ぎ、鍛冶町辺りよりは国道1号を行くことになる。歩道の細かい段差に神経を使いながら道路脇に視線を送るが何も旧街道の痕跡は残っていなかった。

 殿田橋のところより国道を離れ、静かな裏道となってほっとする。無人販売所に並べられた柿が美味しそうであった。正面に小高い山が現れ、突き当たって右折すると火打坂の下りとなる。

 坂を下りたところが二川宿、東海道線に沿って1キロあまり続く街並みに所々古い民家が残っていた。ここには当時のままの本陣が現存し、公開されている。東海道では草津宿とここの2箇所だけだそうだ。建物は解体修理がされていて、部分部分は現代の材木が使われているが、十分に当時の本陣の雰囲気を残している。隣接する旅籠の清明屋も見応えがあった。

 宿を外れ、しばらくは長閑なキャベツ畑の中を行くことになる。次の宿は白須賀宿、ここはもともと海岸線にあったものが津波の被害を受けて台地の上に移ったそうだ。潮見坂の上に立つと遠州灘が眼下に眺められた。無料の資料館「おんやど白須賀」は寄って見る価値がある。

 海岸線が台地にぶつかる下を東に進む。その先が新居宿で、今も関所の建物が現存していて一般に公開されていた。厳しい取調べを受けた旅人はこの岸より船に乗って舞坂へ向かった。

 弁天島を過ぎ、舞坂宿へ入る。ここには脇本陣「茗荷屋」が残っており、無料で見学ができた。シルバーボランティアの方が親切に説明をしていただけるのがあり難い。

 舞坂の宿外れには松並木が残り、当時の街道の面影が感じられた。道は更に東へ向かい、単調な走りを強いられる。浜松藩領界石なるものを楽しみにしていたが、ただの標識が建っているのみであった。藤原秀衡にゆかりのある二つ御堂のところで道は北東に向きを変え、浜松宿へと至る。

 家康が天下取りの切っ掛けを掴んだ出世城、浜松城の城下となる町に旧街道の面影は何も無かった。自転車の旅をする者には居心地が悪く、早々に退散することとする。

 天竜川を渡れば見付宿は近い。渡し場の跡を訪れ、単調な景色の中を走って磐田駅へと向かった。

 

峠旅・杉坂峠から御池林道へ!

2006-11-08 21:22:10 | Weblog
≪峠旅・杉坂峠から御池林道へ!≫

 ふと一人で旅に出たくなることがある。旅といっても日帰り程度ではあるが、人の来ない山間の林道を一人で走るのはとても心が落ち着く。あまりにも煩わしい日常、人間関係・・・どっぷりと自然の中に浸かっているとなぜか新しい鋭気が沸いてきて嬉しくなる。

 近江の湖東地方、彦根の東に位置する鈴鹿山系の山裾には多くの廃村が今も存在している。武奈町、男鬼町、霊仙、五僧・・・今回は杉と保月の集落跡を訪れてみた。

 多賀大社の駐車場に車を停め、そこよりスタートする。時計は午前11時を示していた。先ずは芹川に沿って遡り、飛ノ木橋のところで右折して上りに入る。なかなかの急坂で、脚を休める間もなく40分、大汗を掻いて多賀神木の碑が建つ杉坂峠へ辿り着くことができた。

 お多賀さんと呼ばれて親しまれ、江戸時代には「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と俗謡に唄われるように、大変な繁栄を誇ったという。造営に使われた用木がこの杉坂峠辺りより切り出されたのであろうか。

 峠より少し下ったところに杉の集落跡があった。いまだに朽ちかけた数戸の民家が建っている様は哀れでもあり不気味でもある。水田跡一杯に生い茂るススキも侘しげであった。

 道は少し下って平坦となり、紅葉の始まりかけた谷あいを行くことになる。車はまったく通らず静かそのもの。再度、上りに入ってその頂上に大きな三本杉があった。石灰岩の岩盤の上に立つ大杉の樹齢は数百年、思わず手を合わせたくなるような神秘性に包まれていた。

 昭和51年に廃村となった保月の集落は意外と明るかった。戸数にしたら10軒あまり(往時は65軒あったとか)、神社も寺院も健在である。人影もちらほら見え、二軒ほどは人も住んでいるようであった。離村して町に出ても年寄りには活躍の場はないが、山間であれば朝から晩までやることに事欠かない。雪の積もる冬場だけ町に戻るのであろう。

 この道はアサハギ林道と言うらしい。岩場を削ったような崖に猿の集団がたむろしていた。ギャギャと叫ぶ威嚇にこちらもチンカンベルと大声で対抗した。

 降り立ったところが権現谷林道、五僧へ上がる分岐点でもある。今から400年以上も前、関ヶ原の戦いに負けた島津義弘の一行は五僧から保月を通って中山道に抜け、堺の港より薩摩に逃げ帰ったという。

 権現谷林道を南に向かって詰め、峠を越えて国道306号へ出る。その後、大君ヶ畑から佐目へと犬上川北谷に沿って走る。トンネル内で大型ダンプが追い越しざまにクラクションを鳴らす。自転車などという目障りなものは道を走るなとでも言っているかのように。

 県道34号へ左折し、すぐに霜ヶ原への上りに入る。この道が御池林道のようだ。時刻はすでに午後の1時半を過ぎている。漆であろうか、赤く紅葉していた。道は舗装がされていて快適ではあるが、延々とジグザグを繰り返すばかりではかどらない。眼下には彦根の町と琵琶湖が霞んで見えた。

 宗教団体の建物とログハウスが出てきた辺りが峠かと思えば、道は一旦下ってまた上りとなった。蛭谷越えとでも呼ぼうか、ススキの生い茂る峠からは鈴鹿山系の御池岳(1247m)が前方に見えた。時刻は午後3時、日の短い時期だけに先を急ぐ。御池川に沿った道は水平に近い傾斜で、自転車は思ったようには走ってくれない。

 君ヶ畑まで来ると心に余裕が出てきた。この集落はまだ健在で人影も多く見られる。そそくさと写真を撮り、先を急ぐ。ここ君ヶ畑が木地師発祥の地であることはあまり知られていない。今から1150年ほど前、惟喬親王が隠棲の地として君ヶ畑を選び、ここより木地師が全国に広がっていったという。

 再び県道34号に出、右折して筒井峠へ上がる。結構な急坂ではあるが、以前にも通った道であり安心感がある。惟喬親王御陵なる神社が峠にあった。

 峠を下りた所が百済寺甲、この先にも百済寺丁とか百済寺乙、百済寺丙、百済寺戊という地名も見られる。昔の寺領を示すものであろうか。県道188号に沿った百済寺甲も廃村の憂き目なのか、石垣の跡が多く残っていた。

 最後の力を振り絞って角井峠を越える。上りはだらだらとした感じであったが、向こう側は急激に落ちていた。百済寺の門前を通り過ぎ、国道307号を北に向かって金剛輪寺、西明寺と右に見て多賀大社へと戻った。時刻は夕暮れ前の5時丁度であった。

 思い付いての日帰り自転車旅ではあったが、中身の濃い充実した一日であった。どんな些細なことにでも興味を持ち、少し掘り下げて調べてみれば面白いことは沢山あるように思う。好奇心、これからも大切にしてゆきたいものである。