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東海道・宮宿から吉田宿へ!その2

2006-08-21 23:15:30 | Weblog
≪東海道・宮宿から吉田宿へ!その2≫

 岡崎宿といえば徳川家康公、五街道を制定した本人でもある。松平郷、駿府城、久能山東照宮と訪れ、いろいろ考える機会があった。やはり三英傑の中では一番であり、その後の江戸(徳川)幕府の繁栄をみても実力は明かである。その手の分析は凄い方が多くお出でのようなので止めておくが、私が感じるのは現代でも多くの部分で徳川時代が生き残っているように思う。仏教でいう檀家制度だとか町内会の運営一つも当時のままのような気がする。

 東海道は岡崎城を避けるように北へ迂回している。二十七曲りと言われるように街道は複雑に折れ曲がっていた。これが用心深い家康の指示なのかどうかは知らないが。康生通はその名残りなのだろうか。

 筋違橋跡を渡り、岡崎インターの入口を過ぎて大平一里塚へ至る。塚は一つであるが当時の雰囲気が残っていて、いい感じであった。街道は美合の街中を通り過ぎて更に南東へ向かっていた。

 次の宿は藤川、かなり地元でも保存に力を入れているようで、いろんな案内板が数多く建っていた。無人で無料の資料館へ入り、休憩がてら当時の資料に見入った。その後、あまりの暑さに東棒鼻跡のベンチで昼寝を楽しむことになる。

 本宿を過ぎ、家康ゆかりの法蔵寺を右に見て更に先へ進む。今まで岡崎方向に流れていた川が無くなり、街道沿いの川は豊橋へと向きを変えていた。ということはここが峠、峠とは気が付かないような地形を過ぎると道は下りに入った。ペダルを漕がなくて済むのがあり難い。

 赤坂は大きな宿であったようで、旅籠跡や高札場跡の碑が建ていた。家並みが途切れる辺りより松並木が現れ、御油宿へと入っていった。夏祭りなのか、手筒花火を載せた神輿が道の横に置かれ、行灯を飾ったりする地域の人々が生き生きと準備に動いていた。

 豊川の氾濫原であり、当時は肥沃な水田地帯だったと思われる地形に真っ直ぐ続く道を辿り、高橋というありふれた名前の橋を渡る。やがて豊川の堤防に沿うようになると吉田宿は近い。今の市の名前の由来となった豊橋を渡って市街へと入って行く。

 当初は宮宿から見付宿まで走る予定であったが、余りの暑さにギブアップし、豊橋で打ち止めとした。あまり大きな声(書き込み?)では言えないが、昼間の時間帯はコンビニが出てくるたびに泡の出る麦ジュースを飲み、公園のベンチで昼寝をするという体たらくであった。大人の遊びはのんびりと・・・と言うよりはいいかげんな自転車旅であった。