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Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

自転車、登山、テレマークスキー、カヌー・・・そんな情報が満載ですよ!!

輪旅 飛騨古川祭りへ!!

2008-05-27 22:18:36 | Weblog
《輪旅 飛騨古川祭りへ!!》

 飛騨の祭りといえば高山祭りが有名である。しかし、もうひとつ凄い祭りがあることはあまり知られていない。高山祭りが「静」とすれば古川祭りは「動」、その勇壮な祭りは、長い冬に耐えた飛騨人が待ちかねた春にエネルギーを爆発さえるかのようにパワーに満ち溢れている。

 「起し太鼓」その名の語源は、本祭りが始まるのを町の人を起こして歩くところから来ているとか。その歴史は300年あまり、一度は見てみたい郷土の祭りである。

 桜が満開の宮川緑地公園よりスタートする。外人客でにぎわう朝市の中を抜け、陣屋前でA氏と合流。彼の先祖は飛騨国府町の出身とかで、今回はそのルーツを辿る旅だそうだ。

 観光客でごった返す三之町筋を避け、高山市内を見下ろすのに絶好の展望台となる北山公園(桜山)へ上る。ここは飛騨山脈の乗鞍岳も遠望できるお奨めスポットでもある。

 旧の丹生川村を抜け、恵比寿峠へ向かう。10分も走れば飛騨の田舎風景が広がり、観光では訪れることのできない旅気分を存分に味わう。高原野菜の栽培が盛んなようで、ビニールハウスが点在していた。

 小さな峠を越えれば折敷地の集落へと入ってゆく。その寒村は荒城(あらき)郷と呼ばれ、今も自然とともにゆっくりと時間が過ぎているようであった。

 国府町へ下り、安国寺の前より十三墓(大坂)峠の上りに入る。十三墓という地名の由来は戦国時代、ここであった戦いに敗れた武将13名が葬られたところから来ているとか・・・峠の向こうには座禅草の咲く湿原があった。

 石仏岩のところで左折し、巣山林道へ入る。この道は越中東街道といい、赤坂峠を越えて越中のブリや塩が飛騨高山へ運ばれたという。

 流葉で国道41号に出会い、数河峠を越えて今日の宿へ入る。民宿・池田荘のご子息はスキーの国体選手だそうで、トロフィーや賞状が多数飾ってあった。

 豪勢な夕食の後は古川祭り見学へ。大型バスでの無料送迎が嬉しい。

 先ずは古川の町並み観光へ。情緒ある瀬戸川沿いの小道をそぞろ歩く。満開の桜はライトアップされ、老舗の料理旅館を冷やかす。「八ツ三館」「蕪水亭」いずれも明治初期の創業とか。

 明日の祭りの山車を準備する人たちを会話を交わす。江戸期に造られた山車は、飛騨の匠(左甚五郎が有名)が精魂込めたもので、時価にすれば3億円以上とか。

 瀬戸川沿いに鯉の遊泳を楽しみながらメイン会場へと出る。下穿きに晒しを巻いた若衆が続々と集まってきた。

 祭りといえばお酒、古川の造り酒屋、蒲酒造場の「白真弓」と渡辺酒造店の「蓬莱」の樽酒が振舞われていた。木の香りがしみ込んだ樽酒は独特な香りと美味しさがある。

 いよいよ起し太鼓の始まりである。その勇壮さはライブで見たものだけは感じることができる。太鼓の上で二人の若衆が晒しでぐるぐる巻きにされ、一体となった。

 この祭りの見応えは、起し太鼓が街中を練り歩くのに対し、街角で付け太鼓の若者がぶつかっていく迫力が凄い。その祭りが延々と午前1時過ぎまで続くそうだ。

 翌日も快晴。宿の前に立つと、南西方向に白い山々が見えた。それは白山連峰で、意外と近いことがわかる。

 国道を古川に向かって下り始める。途中、袖峠越えのグループと別れ旧河合村の角川を目指す。袖峠にはまだ雪が残り、自転車を押す羽目となった。

 河合村・・・あの有名な小説「あゝ野麦峠」の主人公、政井みねの出身地でもある。富国強兵、殖産興業の名の下、飛騨の多くの娘たちが諏訪・岡谷の製糸工場へと送られた。

 角川を過ぎ、稲越川に沿って湯峰峠へ向かう。宮川の堤防道路を走れば古川の街は近い。岐阜市内より一ヶ月は遅い桜が満開であった。桜トンネルの下で記念写真を撮る。

 街中に入ると、ちょうど本楽祭の屋台巡行であった。動く陽明門といわれる9台の屋台が揃った様は絢爛豪華の一言であった。

 古川で食事といえば「キャビング」お勧めのきゃびんぐ定食やビーフカレーを味わった。

 ♯祭りの後の寂しさは♭・・・明日からの現実に帰るべく、飛騨高山へ自転車を走らせ、帰路に着いた。

アバウトなコースマップ
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=631884795a5a0d81ac9590dacf9432c0




輪旅 御嶽・開田合宿へ!!

2008-05-24 17:32:45 | Weblog
《輪旅 御嶽・開田合宿へ!!》

 今から35年も前のこと。当時、愛読していたニューサイクリングという雑誌に地蔵峠の紀行文が載っていた。それは秋の頃であろうか、地蔵峠から眺める雪を被った御嶽は、まさしく霊峰といえる存在感があった。

 その紀行文に誘われ、単独でサイクリングに出掛けた。その時の宿は木曽福島の旅情庵ユース・ホステルだったと記憶している。

 今回、所属するクラブのプランで再び地蔵峠を訪れることが出来た。スタートは木曽福島。今では旧の木曽福島町、開田村、三岳村、日義村との町村合併で「木曽町」になっている。

 余談だが、「日義村」とは、朝日将軍木曽義仲が平家討伐の旗挙を行った地であることから木曽義仲にちなんでと命名されたという凄い村名だったのである。

 街中を抜け、行人橋を渡って山村代官屋敷前を通り過ぎる。木曽山林高校のところより左折し、黒川の上流に向かって谷間を上って行く。この地区には多くの道祖神が奉られ、信仰心の厚さを感じる。

 渡合の農協前で左折。そのまま直進すればトンネルで開田へ至るが、それでは自転車旅の面白みがない。当然のごとく、旧道で地蔵峠を目指すことになる。

 木曽の厳しい自然に耐える低い屋根の民家が点在してる。中には昔のままの板葺き屋根に石を載せた家も残っていた。

 二本木温泉あたりより、道の斜度は増してくる。初めての宿泊を伴う峠越えにチャレンジする女性軍は緊張気味で、「宿に着いたら美味しいビールが飲めるよ!」と励ましながら自転車を進める。

 やがて唐沢の滝へ出会う。マイナスイオンを感じながら記念写真撮影となる。これから上がる滝の上の道のことは内緒にしたかったのだが・・・

 新緑のトンネルの下、あるものは旧飛騨街道に沿って。あるものはペダルを漕ぐのを止め、二本の足で木曽の自然を味わっていた。やがてひっそりと地蔵様が待つ峠へと至る。

 何年振りかで見る地蔵様は昔のまま、優しいお顔をされていた。雪に覆われた乗鞍岳の景色も昔のままだった。

 少し下ったところが御嶽の展望台。そこからの眺めは言葉を失うほどの絶景、峠の上りの辛さは吹っ飛んでしまう。信仰の対象としての御嶽、信者でなくても手を合わせたくなる景色であった。

 豪快なダウンヒルを楽しみ、末川の集落へ下り立つ。ここでしばしの観光タイム、コーンソフトを味わい、木曽馬の里で癒しの時間を楽しむ。

 宿まではもう少し、左前方に御嶽の雄姿を眺めながら、国道361のアップダウンを快走する。シングルトラックの鬼、hiro氏だけは旧飛騨街道を経て、西野峠、城山へのルートを採る。

 九蔵峠、今日最後のサプライズ?に一喜一憂、だまされたと思うか、最後の大展望を楽しめたと思うかはそれぞれの思い次第であった。

 今日の宿は、土橋の「民宿・いづみ」さん。以前、クラブのイベント「御嶽一周ラン」でお世話になった宿である。おばあちゃんが優しく出迎えてくれた。

 今回の参加者は12名。名古屋から自走で、治部坂峠~権兵衛峠~地藏峠と250kmを走ってくる人。信州白馬から、松本~塩尻~伊那~権兵衛峠~地蔵峠と走ってくる人。下呂~小坂~濁河峠~長峰峠を越えてくる人と、それぞれが自由なプラン、コースで参加できるのが今回の合宿の特徴でもある。

 6時半、全員が宿に集まり、盛大な宴会となる。テーブルが隠れるほどのご馳走の数々、ビールが何本も並んだことは言うまでも無い。これから11時過ぎまで、延々と自転車談義が続いたのには驚きを隠せなかった。

 翌日、今日も快晴で、5時には起き出して城山登山へと向かう。まるで疲れ知らず、これも御嶽さんがくれるパワーかと感心してしまう。

 かつて烽火場でもあった城山は最高の展望地であった。誰かが担ぎ上げたランドナーを中心に、皆の記念写真を撮る。

 朝食も豪勢、サイクリストは大食いで、三杯のお代わりをする人も。これが走るエネルギーになるようである。

 今日もそれぞれが自由なコースプランで帰宅。長峰峠~濁河峠~下呂を経て名古屋へ帰る人。長峰峠~野麦峠~松本を経て白馬へ蛙(帰る?)人。地蔵峠から権兵衛峠を目指す人と、まさしく奥美濃流の超バラバラプランであった。

 スタンダードプラン組は、旧の三岳村経由で木曽福島へと戻った。フィニッシュはやはり信州、蕎麦で今回の合宿を締めくくった。お土産は木曽の銘酒「七笑」、また家に帰って飲もうというところが奥美濃らしいようである。

参加者:ginnan、亀三郎、pinehill、無事蛙、こまわり、はなしま、hiro、ちね輪、ビアンカ、リミド、wajin、(特別ゲスト)ムーラン




輪旅 飛鳥、葛城古道、竹内街道を行く! 

2008-01-26 20:52:14 | Weblog
《輪旅 飛鳥、葛城古道、竹内街道を行く!》

今、一番興味のある旅は天皇陵巡り・・・かなり地味なプランではあるが、125代、二千六百年以上続く日本の天皇家の陵墓(陵:みささぎ)を訪ねるたびは、天皇家が日本の歴史の背骨となっていて、とても興味深い。全ての歴史上の出来事には、歴代の天皇がかかわっていることは事実である。

藤原京跡・・・藤原京は、690年(持統4)に着工され、694年(持統8)に完成した日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な中国風都城・・・とある資料には書いてあった。その広大な跡地に立つと、1,300年前の歴史がよみがえってくる。

第1代神武(じんむ)天皇:在位は(紀元前660年~585年)、父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊で、陵墓名は畝傍山東北陵。即位したとされる2月11日は日本国が建国された日とされ、以前は紀元節、戦後は建国記念の日となっている。

畝傍山の麓に造られた陵墓は威厳がある。隣の橿原神宮は神武天皇を祀り、明治223年に造営された。

第2代綏靖(すいぜい)天皇:在位は(紀元前581年~549年)、父は神武天皇で、陵墓名は桃花鳥田丘上陵。神武天皇陵の北に位置し、規模はそれほど大きくはない。

第3代安寧(あんねい)天皇:在位は(紀元前549年~511年)、父は綏靖天皇で、陵墓名は畝傍山西南御陰井上陵。畝傍山の真西に位置し、静かな森に囲まれていた。

第4代懿徳(いとく)天皇:在位は(紀元前510年~477年)、父は安寧天皇で、陵墓名は畝傍山南繊沙渓上陵。畝傍山の南西に位置し、住宅地の中にあった。

第28代宣化(せんか)天皇:在位は(535年~ 539年)、父は継体天皇で、陵墓名は身狭桃花鳥坂上陵。このころより蘇我氏が勢力を持ち始める。高台に位置する陵墓からの眺めは良い。池の後ろにはひなびた飛鳥の風景が素敵であった。

橿原神宮前駅の構内を抜け、孝元天皇陵を目指す。

第8代孝元(こうげん)天皇:在位は(紀元前214年~158年)、父は孝霊天皇で、陵墓名は剣池嶋上陵。剣池の真ん中に突き出したような半島の上に陵墓はあった。

第29代欽明(きんめい)天皇:在位は539年~ 571年。父は継体天皇で、陵墓名は檜隈坂合陵。堀に囲まれた陵墓は飛鳥に似合っていた。隣にある猿石は異様な形をしていた。

第40代天武(てんむ)天皇:在位は673年~686年。父は舒明天皇で、陵墓名は桧隈大内陵。在位中の偉業は
天皇号の創始
陰陽寮・占星台(天文台)の設置
「古事記」「日本書紀」の編纂勅命
践祚大嘗祭の制定
宮都の選定と設計
八色の姓の制定
飛鳥浄御原令の制定
三種の神器の制定
伊勢の遷宮の制定・開始
などだそうだ。

第41代持統(じとう)天皇:在位は673年~686年。父は天智天皇で、陵墓名は桧隈大内陵。飛鳥の里の高台に位置する陵墓は自然に溶け込んでいた。道教や陰陽道に傾倒していた事でも有名だそうだ。

第42代文武(もんむ)天皇:在位は697年~707年。父は草壁皇子で、陵墓名は檜隈安古岡上陵。在位中の大宝年間に元号制度が整った。







輪旅 クラブラリー in 南木曽!

2007-11-15 22:16:48 | Weblog
《輪旅 クラブラリー in 南木曽!》

 年に一度、東西のクラブサイクリストが集まるイベントがある。クラブの数は20あまり、150名近い参加者が一同に会する催しは貴重な存在でもある。

 今年は埼玉のクラブさんの主幹で、信州の南木曽で開催された。

 集合はJR中央線中津川駅、生憎の雨模様の中をスタートする。先ずは中山道を忠実に走り、落合宿を目指す。

 落合宿は中山道44番目の宿場で、今も本陣や脇本陣が残っている。宿外れの常夜灯が立派であった。

 坂を下り、小さな小川を越えると急坂が始まる。十曲峠といい、延々と石畳が続く難所でもある。SPDのクリートは雨で滑りやすいため、難儀をして歩く。

 馬籠宿・・・観光地となった現代の宿場に情緒は感じられない。大型バスで乗りつけ、どどどと歩いて、だだだと五平餅を食らう。400年前の中山道を思い浮かべる人は少ないであろう。

 雨の中、黙々と馬籠峠を目指す。仲間がひたすらペダルを漕ぐ姿は、往時の旅人の労苦に似ていると思った。峠の茶屋で笹餅を頂く。

 雨合羽ならぬポンチョに身を包んで坂を下ってゆく。晴れていれば快適なダウンヒルが楽しめるところであるが、今日はひたすら我慢のブレーキングで下っていった。

 今日の宿は南木曽温泉「ホテル木曽路」、宿よし、お湯よし、食事よし・・・今までの人生?で一番良い宿だったかもしれない。地ビール飲み放題、樽酒の「七笑」は最高の味であった。

 翌日は台風一過?の秋晴・・・大阪のYクラブさんと同行をさせていただく。発見は、南木曽の中腹に残る森林鉄道の軌道跡。自転車に程よい道幅と勾配は最高のサイクリング・ロードである。木曽の王滝など、林鉄跡は多く残っているそうだ。

 ちょっと上がった小高い丘に残る城跡よりは、雪を被った木曽山脈(中央アルプス)が遠望できた。

 その後、妻籠宿を訪れ、木曽川沿いに落合まで走って帰途に着いた。

峠旅 奥飛騨・駒鼻峠から杉越峠、牛形峠、赤坂峠へ!

2007-11-02 22:25:28 | Weblog
《峠旅 奥飛騨・駒鼻峠から杉越峠、牛形峠、赤坂峠へ!》

 奥飛騨には気になる峠が数々ある。紹介し尽された信州の峠よりは秘境的な色合いが濃く、そこを訪ねる自転車旅は興味深い。

 今回は、飛騨の国府から上宝へ駒鼻(こまがはな)峠を越え、神岡に位置するマイナーな峠群を訪れてみた。

 スタートは国府の荒城神社から。この神社の境内にはどんびき蛙の石像があり、とてもユーモラスであった。荒城川に沿って東進すると旧の丹生川村へと入る。ここは飛騨牛の産地らしく、牛舎が多く点在していた。

 三之瀬の橋より北の方角へ向かう。右折をすれば荒城郷へと至る。森部、それはとても奥飛騨らしいひなびた集落であった。農家の横には牛舎があり、牛が窓より顔を出している風景はとてものどかであった。分校跡の校舎の造りが懐かしい。

 森部より先は谷の中を行く狭い道となる。紅葉もぼちぼちと始まり、日差しを透かしてみる木々はとても明るい。地蔵さんがポツンと土手に奉られていた。

 小広いところに出ると、そこは呂瀬の集落。前方の山の斜面にはスキー場跡がはっきりと見取れる。標高900mはありそうで、冬の生活の大変さが想像できる。

 スキー場跡に出ると一本松という場所があり、そこには播隆街道と記されていた。播隆上人は江戸時代の僧侶で、槍ヶ岳の開山や、笠ヶ岳の再興をした人だという。当時、高山よりこの道を通って上宝へ越えたのであろう。

 ほとんどクルマの通らない道をひたすら上がってゆく。紅葉も鮮やかな色になって目を楽しませてくれる。大きな朴葉を拾ってカメラに収めた。

 切通しになったところが駒鼻峠(1160m)であった。いよいよ上宝へと入る。谷戸谷沿いの道は狭くて急であった。雨水を道脇に逃がすためのゴム板が結構怖い。自転車が通り過ぎるには堅いため、ハンドルを大きく取られる。

 もう一つの障害は、同じく道を横切って掘られた溝。幅は10cm以上はありそうで、進入の角度を間違えれば転倒する羽目となる。途中、木々の間より笠ヶ岳が大きく望めた。

 下りきったところが上宝本郷、結構な町である。高原川に沿った県道477号を神岡に向かって走る。とても静かなコースで、ノンビリと自転車を走らせる。

 廃線となった神岡鉄道の「奥飛騨温泉口駅」に立ち寄る。外観はすっかり変わってしまい、昔の情緒は無くなっていた。レールの上をMTBで走るシステムが導入されていたが開店休業のようであった。

 駅の先より坂を上がり、吉田川に沿って西進する。山の中腹にある常蓮寺は由緒のある寺らしく、山門も立派であった。聖徳太子と関連があるようで、太子踊りという祭りがあるという。

 トンネルの右横に入って旧道を上がることにする。道は右に左に折れて高度を上げてゆく。ここは北アルプスの展望台のようで、双六岳から三俣蓮華岳、薬師岳への稜線が遠望できた。眼下には神岡の町が小さく見えた。

 杉越(すぎこし)峠はひなびていた。小さな祠の前で記念撮影をする。ここで地蜂採りの方と会話を楽しんだ。その巣は結構な値段で売れるらしく、分のいいアルバイトになるそうだ。ヘボめしは旨いとのことであった。

 峠を越えたところが山田の集落、板蔵という小屋のたたずまいが素敵であった。さらに牛形峠(935m)を越える。道は最近開削されたようで情緒には乏しかった。

 県道76号へ出、国府見座線を少し走って石仏岩へと立ち寄る。その先より越中東街道となる赤坂峠(940m)へと上がる。峠はすぐであった。

 巣山から柏原へと走り、桐谷・下り谷林道へと入る。ここの紅葉もなかなかのもので、得をした気分になる。峠には峰越の碑があった。

 気分のよいダウンヒルを楽しみ、再び荒城神社へと戻った。国府から古川辺りは飛騨の情緒が色濃く残り、自転車旅の好きな方にはたまらないエリアかと思う。

 今日は飛騨古川の宿に泊まる予定である。

コースマップ
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=8066137965a3191433cf4a0097d509d6

フォトアルバム(期間限定)
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=8066137965a3191433cf4a0097d509d6