中国西安で奮闘する大学教師Mの日々

日本人教員として中国の陝西省西安市の大学生・大学院生に対し、「日本文化・社会」や「卒業論文」などを教えています。

“二刀流”だからこそ得られるものもある

2014年05月03日 03時13分21秒 | 中国での外教職に関わること
私には現在、仕事が二つあると思っています。
一つは現在の中国の仕事(中国の日本人外教)、もう一つは、研究活動をして論文を書き、学会発表をする研究者としての仕事です。
この二つの仕事をしていて、これまで、そして今でも苦しなと感じることがあります。

それは一言で言えば、“脳ミソの切り替え”でした。

どの仕事にも、脳ミソのある部分はよく使うが、逆に使わない部分もあるのではないかと思います。
…と私は思っています。

外教としての仕事の場合と、研究をする時はまさにそうで、違う脳ミソを使う感覚があります。
二つの仕事でそれぞれどんな部分の脳を使っているか説明することは難しいのですが、相当違うというのが私の印象です。

外教の仕事をしている時、主人公は学生であり、その学生に自分が何ができるか、そして何をしてあげたいのかを考えるようになります。
また、一見すると「非合理的」と思われることもよくやります。
例えば、授業以外での学生との時間をとってよく関わるようにすること、また、ある時には一緒にバカになって遊ぶこともあります。
そこには、学生と自分との距離をより近づけ、日本語・日本に親しみを持ってもらえるような環境作りをしたいとの思いが根底にあるからです。
恐らく、日本の大学ですぐに歴史教員になっていたら、こうした発想は全くないまま教壇に立っていたと思っています。

公立教員をしていた父がよく、

「教育は世間的には無駄と思われる時間、面倒だと感じる仕事が多いが、それに対応していかないといい教育は出来ない。合理的なものではないから。」

と話していたことがありましたが、今、そのことが少し分かる気がします。
(と言うと、父からはまだまだと言われるでしょうが)


一方、研究者としての仕事をする場合、こうした仕事の在り方とは対照的な部分が多いように感じています。
研究対象に主観的に相対することは御法度ですから、客観的、そして論理的な姿勢・思考様式で取り込むことが何よりも求められます。
そして、研究対象と自分との世界に埋没するようになり、世間との距離感をとるのがともすれば難しくなることもあります。
主観を限りなく排し、なるべく対象と距離感をとりながら、事実に迫ろうと研究をしている時、外教の仕事をしている時に使った脳ミソはほぼ使いません。

だからこそ、その切り替えに時間がかかることが多く、その作業が結構苦しいのです。
将来的には、なるべくその切り替えを早めていくことと同時に、どちらでもやっていけるよう能力を高めることが不可欠だと思っています。
もし、どちらでもやっていける人間になれれば、将来、日本の大学で研究者としてポストを得た際にも大いに役立つと思っています。
そのため、毎日葛藤の連続ですが、この二刀流の生活を暫くは続けていこうと思っています。

つい最近も、この脳ミソ切り換えを経験しました。

実は上海で5月9日にある某学会にて発表するので、その準備だけに集中しようと数日前から思ってきました。
しかし、そんな時でも外教としてのオツトメ(授業以外での)はやってきました(笑)
学生達からのお誘いを受け、上海動物園へ行こうということになったのです。



ずっと背を向けて機嫌の悪いパンダ?


動物園から移動し、雲南料理の店で夕食。


学生達の嬉しそうな顔を見ていると「良かった」と思う反面、帰り道は「研究!!!」で頭は一杯でした。
中国に来てからの毎日は、この繰り返しです。


今の私にとっては、このどちらも大事です。
どちらも手は抜けませんし、こういう環境で生活させてもらえているからこそ、成長できるのだと信じています。

ただ、学会発表を前にした今、研究の方がウエイトは大きいので、もう少し本を読んでから寝るつもりです。
それでは今日はこの辺で。


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