今日は生憎の雨でしたが、午後から大学院の大学院時代所属していたゼミに参加してきました。
ちなみに先週は同じゼミにて、私の研究報告(といっても未完成の)をさせていただきました。
本日のゼミでは院生が研究発表するのではなく、ゼミ主催のM先生による海外出張の報告でした。
今年の初め頃から5月頃までインドのデリー大学に仕事で長期滞在していたため、その「インド報告」が本日であったというわけです。
その報告内容が幾つか印象深かったので、ここにも書いておこうと思います。
報告は主に、インドの大学・そこでの研究事情、そして現在のインド社会事情などでした。
まず、先生はデリー大学のEast Asian Studiesで仕事をされていたそうです。

ここは大学の一学部で、東アジア研究、その教育を担っているとのこと。
日本・中国・朝鮮にまたがる範囲を東アジアとして設定し、それぞれの地域の専門家がいるようです。
なお、デリー大学におけるEast Asian Studiesの以前の名称は、China Japan Studiesでした。
1970-1990年代半ばまで、海外においては日本研究の人気は高く、いわゆる「花形」でした。
しかし現在、中国研究が「花形」であり、日本研究は勢いを落としているのが実態です。
そうした中で、日本研究が東アジア研究に組み込まれてしまっているという、やや悲観的な見方を私はしていました。
しかしM先生は、こうした状況は「東アジアの中から日本を見ることのできる契機」ともなるはずで、決して悲観的にのみ捉える現象ではないとの認識を示していらっしゃいました。
また、デリー大学で文学専攻というある院生は、文学研究を通じて「東アジアにおける近代」の特質を考察する課題に関心を持っていて、それがなかなか面白かったというお話もありました。
具体的にこの学生は、
・東アジアにおける近代化とは、かなり似通っているとの前提に立っている
・そして、東アジアにおけるそれぞれの国家が高度経済成長をし、都市人口がある一定の比率を超える時、どの大都市でも共通性のある、幾つかの社会現象が起こるのではないか、との仮説を持っている。
・例えば、村上春樹や吉本ばななのような作家(かなり人気のあるそれ)の作品が売れ始める時期、それぞれの東アジア地域において共通する社会状況が存在しているはずで、この学生はその背景を考察することで、東アジアの近代化の共通性を明らかにしようとしている
とまあ、下手くそなまとめなのですが、大体このような内容でした。
こうした観点はこれまでの文学作品自体の研究、あるいは、地域を固定化したりして文学作品との関連性を研究してきた流れと異なるもので、今後の文学研究の一つの方向性を示唆するという印象を私は持ちました。
時代の流れとともに、学術分野自体の再編が起こり、各学術分野の問題関心は変わっていくのは当然のことだと思います。
そうした大きな流れの中に文学研究も組み込まれていて、そうした動き出しが確実に世界では起こっているということです。
なお、今回の報告においてはあまり話題になりませんでしたが、やはり海外に研究をいかに発信するかというのも益々大きな課題となってきていると思いました。
また発信するだけでなく、こちら側が世界で出された諸々の研究成果に直接触れていくためには、それなりに自身で英語や他の外国語を読みこなす必要があります。
ですから、どの分野を研究している日本人の学者であってもやはり日本語だけではだめで、英語、あるいは別の言語を修得することが不可欠である時代となっています。
ちなみに先週は同じゼミにて、私の研究報告(といっても未完成の)をさせていただきました。
本日のゼミでは院生が研究発表するのではなく、ゼミ主催のM先生による海外出張の報告でした。
今年の初め頃から5月頃までインドのデリー大学に仕事で長期滞在していたため、その「インド報告」が本日であったというわけです。
その報告内容が幾つか印象深かったので、ここにも書いておこうと思います。
報告は主に、インドの大学・そこでの研究事情、そして現在のインド社会事情などでした。
まず、先生はデリー大学のEast Asian Studiesで仕事をされていたそうです。

ここは大学の一学部で、東アジア研究、その教育を担っているとのこと。
日本・中国・朝鮮にまたがる範囲を東アジアとして設定し、それぞれの地域の専門家がいるようです。
なお、デリー大学におけるEast Asian Studiesの以前の名称は、China Japan Studiesでした。
1970-1990年代半ばまで、海外においては日本研究の人気は高く、いわゆる「花形」でした。
しかし現在、中国研究が「花形」であり、日本研究は勢いを落としているのが実態です。
そうした中で、日本研究が東アジア研究に組み込まれてしまっているという、やや悲観的な見方を私はしていました。
しかしM先生は、こうした状況は「東アジアの中から日本を見ることのできる契機」ともなるはずで、決して悲観的にのみ捉える現象ではないとの認識を示していらっしゃいました。
また、デリー大学で文学専攻というある院生は、文学研究を通じて「東アジアにおける近代」の特質を考察する課題に関心を持っていて、それがなかなか面白かったというお話もありました。
具体的にこの学生は、
・東アジアにおける近代化とは、かなり似通っているとの前提に立っている
・そして、東アジアにおけるそれぞれの国家が高度経済成長をし、都市人口がある一定の比率を超える時、どの大都市でも共通性のある、幾つかの社会現象が起こるのではないか、との仮説を持っている。
・例えば、村上春樹や吉本ばななのような作家(かなり人気のあるそれ)の作品が売れ始める時期、それぞれの東アジア地域において共通する社会状況が存在しているはずで、この学生はその背景を考察することで、東アジアの近代化の共通性を明らかにしようとしている
とまあ、下手くそなまとめなのですが、大体このような内容でした。
こうした観点はこれまでの文学作品自体の研究、あるいは、地域を固定化したりして文学作品との関連性を研究してきた流れと異なるもので、今後の文学研究の一つの方向性を示唆するという印象を私は持ちました。
時代の流れとともに、学術分野自体の再編が起こり、各学術分野の問題関心は変わっていくのは当然のことだと思います。
そうした大きな流れの中に文学研究も組み込まれていて、そうした動き出しが確実に世界では起こっているということです。
なお、今回の報告においてはあまり話題になりませんでしたが、やはり海外に研究をいかに発信するかというのも益々大きな課題となってきていると思いました。
また発信するだけでなく、こちら側が世界で出された諸々の研究成果に直接触れていくためには、それなりに自身で英語や他の外国語を読みこなす必要があります。
ですから、どの分野を研究している日本人の学者であってもやはり日本語だけではだめで、英語、あるいは別の言語を修得することが不可欠である時代となっています。