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中国西安で奮闘する大学教師Mの日々

日本人教員として中国の陝西省西安市の大学生・大学院生に対し、「日本文化・社会」や「卒業論文」などを教えています。

西安生活、最初の一ヶ月

2017年09月24日 23時18分01秒 | 中国での外教職に関わること
西安に来てから一ヶ月弱が過ぎ去りました。

まず、最近はまっている麺専門食堂の麺


大学はガイダンスも終わり、各担当科目は本格的に各内容を教え始めています。
学生たちは全体的に大人しいですが、吸収が早い学生が多くて教えがいがあります。
加えて、西安では良い同僚たち(日本・中国)に恵まれていると感じています。

今学期担当科目は5科目、そのうち3科目は初めて担当するものです。
ですから毎週の大半は、授業資料・PPT作成に追われております。


それに加えて、先週から以下の課外活動も加えることにしました。

1 修士院生、学部四年の有志を集めた自主ゼミナールを毎週一回(言語・経済・文化などのテーマ)
2 主に学部3年生の有志を対象とした個別会話(私対学生2人or1人を各組20-30分)を毎週一回 
 *現状は全員が「参加希望」
3 有志の学生たちと毎週定期的にスポーツ(キャッチボールやバドミントン)



「1」・「3」は前任校からやっている課外活動で、効果が感じられたので継続することに。
「2」は三年生の会話力向上と、かれらとの関係を築くためにも必要だと感じて始めました。
加えて、大学から11月の某コンテスト指導も入っていて、これは毎週二回ほど指導中。

ただ、こうなると研究日は週一日とれればいい方で、場合によっては全くとれません。

ですが今学期は10月、11月、12月と原稿〆切が毎月あり、同時に12月は研究発表のため一時帰国が決定。
正直、この研究課題を現状の仕事量でクリアできるかと考えると、相当厳しいだろうと感じています。
ただ発表依頼が来るのは有り難いことですし、その交通費も相手方負担という好条件でした。

となると、「現状では研究時間の確保が厳しくとも、何とかこの機会を使って発表したい!」と奮起するもの(!?)
それに研究という道を選んだ以上、「寝ても覚めても研究」の生活が出来るのはむしろ光栄なことです。

ということで、ほぼ二つ返事でお引き受けすることにしました。


最後に朗報!

9月23日(土)、河南省で行われた全国高校大学日本語スピーチコンテストで前任校で指導した学生が一等賞に。
これは非日本語専攻の学生を対象にした大会で、今回が第一回目で記念すべき大会でした。
この学生のスピーチ原稿は全面書換を含め、話し合いをしながら10回以上修正をしました。

大会後、学生本人からメールがありました。
「こんばんは。自分は一等賞を獲得致しました。この結果に先生のご指導は不可欠だと思います。本当にありがとうございました!」
(原文ママ)

素直に良かったと思います、おめでとうS君。
正しい努力をすればきちんと成長・結果がついてくる、これが私の持論です。
今回もまさにS君がそれを体現してくれたと思っています。

なお現在の勤務校からも学生を派遣しており、この学生は二等賞を獲得しました。
ということで、昨日は嬉しいニュースが続きました。

先日の日本語スピーチコンテストでの雑感

2017年06月05日 04時51分43秒 | 中国での外教職に関わること
5、6月は中国は各種コンテストの季節。
ということで、私の大学からも作文・スピーチコンテストと立て続けに学生が出場しました。

作文コンクールは日本僑報社・日中交流研究所が主催のもので、我が校からは10名が応募。
スピーチコンテストの方は二人の選手が参加しました。
一つは山東の大学生を対象にした大会、もう一つは中华全国日语演讲大赛という歴史ある大会です。
(なお、日本の某財団主催の大会も9月に予定されており、先日、その指導依頼が大学側から来る)


その内、山東の学生を対象にしたスピーチコンテストで、日本語科の学生が優勝を決めてくれました。

試合後、選手と先生方などとの集合写真。


賞品は5日間日本旅行をプレゼントという立派なもので、資金は山口県側が出してくれたようです。
今年は山東省・山口県の姉妹都市の関係が35周年目という節目で、大会には山口県知事も見えていました。
偶々、巡り合わせの良い年に山東省で日本語スピーチ大会が開催できたということでしょう。

試合後の選手、審査員の集合写真。


大会名は泰山杯济南地区高校日语演讲大赛で、内容はスピーチと即席スピーチの二部構成でした。
前半スピーチは「大きな差はつかない」との予測をしていましたが、上位と下位との間で差があったと感じました。
後半の即席スピーチでは、それがもっと開いていたというのが私の印象です。

特に、即席スピーチのテーマ「車窓からの風景」は、抽象題で学生には難しかったと思われます。
日本語の会話力だけでなく、スピーチの構成力、内容など全ての面で、選手の力を評価する良いテーマでした。
一部の学生を除いて、選手はきちんと発話こそできていましたが、テーマからずれている、構成がバラバラ、
何を言いたいのかがやや分かりにくい、など差が出ているのは見ていて感じました。

ただ我が校の選手は指導内容、助言をよく吸収しており、練習した型を応用した即席スピーチが出来ていました。
文法ミス、発音ミスは結構ありましたが、それでも何とか内容をまとめ上げた結果が今回の賞につながったかもしれません。


その二日後に行われた、中华全国日语演讲大赛でも同じく抽象題が出されていました。
引率して下さった先生の「学生の力を出し切れた」との評価がありながらも、こちらは惜しくも入賞は叶いませんでした。
後で出場した学生からのメールで分かったのですが、即席スピーチが「抽象題で構成を考えられず、失敗」したそうです。

テーマを聞くと、山東で出された抽象題と同類のもので、「あの学生なら何とかならなかったのかな」とも感じました。
ただ中国でも最大規模の大会ということで、レベルも高かったはずで、それに少し飲まれた可能性もあるかもしれません。
指導に少しでも携わった者としては、「もう少し何かできたこともあったかもしれない」と感じ、反省しています。


このように反省もたくさんありますが、その中でも良かったと感じていることは一つだけあります。

それはコンテストの中で、“指導教師の役割分担を明確化したこと”です。

具体的には私が日本語原稿の作成を指導し、発音・アクセントなどの指導をもう一人の先生が指導しました。
時折、両者の意見を交換もしましたが、基本的には相手の指導を尊重し、信頼をして任せてきました。
さらに、日本語科の副主任も時折、意見をくれたり、三人で選手を最終チェックする場面もつくるなど、
去年と比べて非常にやりやすい形で進められました(特に、泰山杯济南地区高校日语演讲大赛の方)。

逆に、中华全国日语演讲大赛の方は校内予選時から情報が直前までこないなど、バタバタしただけでなく、
日本語学科の先生方が情報をきちんと共有できていなかったことなども重なり、
学科全体での連携が十分にとれていない状況があったのは否定できません。
それでも、最後は何とか持ち直していったようにも感じていたのですが…。

当然、出場学生の日々の努力、授業を担当してくれている学科の先生方がいてこそですが、
指導者らの連携力を高めると同時に、役割分担の明確化により、各先生が担当箇所で全力を尽くす環境をつくる、
それが今回の結果につながった面は間違いなくあるだろうと感じています。

やはり何でも「一人ではダメ、皆の力が合せればこそ成功できる」ということなのでしょう。

指導者らの連携がとれていると、指導を受けた学生の結果にも結びつきやすい。
しかし、その逆であれば学生が力があっても結果が出にくい。


これを肌で感じられたのが、今回のスピーチコンテストだったと言えます。
その意味で、今後、コンテストを指導する上でよい経験となりました。

今後に生かしていきたいと思います。

来年度も済南でお世話になります(最後、残り一年)。

2016年07月04日 02時09分22秒 | 中国での外教職に関わること
先月、こちらの大学側と雇用契約を結びました。

今年の契約に至るまで、有難いことに幾つかの「誘い」のお話を頂きました。
毎年にように中国の大学からお誘いを頂くのは大変有難いのですが、雇用条件は決して満足だったわけではありません。

①現状より給与が上るかどうか、他に諸手当がどの程度あるのか、福利厚生の条件はどうか、

②研究・教学の面でより高いレベルで取組める環境(大学の周囲に大型図書館や档案館がある、院生授業を担当可能、など)であるか否か、

③さらに、(将来的に)その大学で専任ポストに就ける可能の有無、


以上の三点全てを満たす大学はなく、結局、現在の済南との契約を延長する形が一番良いとの判断に至りました。
①や②を提示してきた大学は多くあったものの、③の面ではどの大学も約束をできないとのことでした。

特に③が可能になれば、いずれ日本へ帰るにせよ、それまで中国側の科研費申請が可能になるはずで、
それは現在、科研費を獲得することが重要な仕事になっている研究者にとって、魅力的な点となります。

ともかく、結果的には済南にもう一年残る決断をし、大学側にその意思をお伝えしたのが先月頭でした。
済南の教学環境は決して悪くはなく、むしろ、中国の日本人教員の中でも恵まれた環境にあると感じています(毎年昇給、院授業も有り)。
また、私個人は済南の学生たちも教師も大好きなので、結果的にはよかったのだとは思います。

ただ、今後自分が成長をしていくためには、より水準が高い教学・研究を求められる大学へ異動することはやはり必要でしょう。
今は上からも下からもほぼ教学面での要求が出てこない為、自身を相当律していかないと成長が止まってしまうはずです。
研究も同じです、同僚たちと一緒に食事会などをしていても、自身が取り組んでいる研究課題の話しが一向に出てきません。
私は自身の論文が完成後は、同僚などに抜き刷りなどを渡すのですが、逆のケースは皆無で、やはり物足りなさがあります。

そんな時、私はスティーブ・ジョブズ氏がスタンフォード大の卒業式(2005年)で講演した際のある一節を思い出します。

When I was 17, I read a quote that went something like:
“If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right.”
It made an impression on me, and since then,
for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself:
“If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?”
And whenever the answer has been “No” for too many days in a row, I know I need to change something.


この部分はなぜか私の心に残っていて、時折、思い出します。
「本当にしたいこと」を考えた結果、済南との契約にサインをした後、「この年を済南での最後の一年にしよう」と決めました。

済南大との契約書


そして同時に、残り一年、この済南大学のために、そして済南の学生のために出来ることをやり切ろうと、素直に思えました。

例えば以下の活動です。
日本との大学間交流・協定、初の済南市全体での日本語スピーチコンテストの開催、日本へ留学したい学生の指導・支援、
そして、済南日本人教師の活動の持続化・活発化、済南へ日本人研究者を招き、各学術講演会を実施、などです。

その幾つかは既に活動の準備も始めています。

恐らく、来年度はより精力的に行動する一年になることは間違いないでしょう。
だからこそ、数日後に始まる日本での夏季休暇は研究に没頭してきます。

第11回全中国選抜 日本語スピーチコンテストの参加記録(2016年6月4日 in天津)

2016年06月16日 04時23分05秒 | 中国での外教職に関わること
今日は我が校からも参加した、中華全国日本語スピーチコンテスト(華北地区予選)のことを少し書いておきます。
少し時間が経っていますが、一応、教学関係での記録として書いておく必要があると考えましたので。

会場となった天津外国語大学


まず、コンテストの概要などを以下に書きます。

コンテスト概要
本大会の中国語名:“第十一届中华全国日语演讲大赛”华北赛区预赛
日程:2016年6月4日(土) 
会場:天津外国語大学
本年度の出場校:23校(各大学から一名の選手が出場)
大会の共催:中国教育国際交流協会、日本華人教授会議、日本経済新聞社

コンテストの進行状況
①午前は事前に提出した原稿に基づくスピーチ
 二つのテーマから一つを選択してスピーチ(4‐5M) 
 1 「从中日交流谈文化多样性(中日交流から見る文化の多様性)」
 2 「环保小谏言(環境改善策 私の一推し)」

②午後は即席スピーチ(その場でテーマを通知され、10分で準備、発表)
 「我が家の宝物」

評価基準
①一次のスピーチ:発音・アクセント10、文法・表現10、内容20、表現20
②二次のスピーチ:発音・アクセント10、文法・表現10、内容10、表現10

順位の付けられ方
特等賞×2 → 日本での決勝戦へ進める
一等賞×1、二等賞×2、三等賞×3、他の選手は全て優等賞


肝心の結果ですが、本大会華北地区予選では、特等賞に天津外国語大、山西師範大の二名の選手が選ばれました。
私の済南大の選手は惜しくも三等賞という結果でした。

ただ、済南大はこれまで各種コンテストで「入賞」がなかったそうで、その意味では一つの結果を残したと言えるかもしれません。
実際、その結果を自身の微信(ID:yoshiitem1008)に書き込むと、多くの学生や先生が「いいね(赞)」をくれました。

該当する微信の記事



後日、済南大学でもそのことを大学HPに載せて、お祝いをしていました。

確かに、日本語科の先生方、他の学生たち、選手として参加してくれた学生はそれなりに満足している様子に見えました。
しかし、私はそれらの反応とは全く反対の気持で本結果を受け止めており、コンテストの終了後は何ともいえない喪失感に襲われました。
今回の結果に対してだけ不満足だったのでなく、スピーチ指導の在り方、日頃の大学での授業の在り方など、全ての教学面で課題を私に突きつける「結果」だと感じたからです。

実際、コンテストの各選手と我が校の選手を比較して見ても、日本語の総合水準は我が校の選手が上位にあるのは明らかでした。
そうした選手を有しながら結果が出せなかったとすれば、それは明らかに教師側のコーチングにも課題があったと言わざるをえません。

なぜこのような結果になったのか、それを突きつめて考えようと、コンテストの参加記録(その概要と得た情報、気づき、今後の反省など)を作成してみました。
それが本日、ようやく仮完成しました、字数は3000文字程度の資料ですが、今後に活かせるものになればと思っています。
早速、今度の土曜日に開催される済南の日本人教師会で、参加者に配布したいと考えているところです。

今回、その参加記録をネット上に載せてもよいとも考えたのですが、内容が一部公表出来ないものもあるので止めました。
もし興味のある方がいらっしゃれば、私に直接お問い合わせくだされば、お送り致します。

三村達也 連絡先:yoshiitem1008@yahoo.co.jp

もっともどこまで皆さんにとって参考になる物となっているか、非常に心もとないのですが(苦笑)。
それでは。

中国へ戻りました(これまでの生活、今学期の開始)

2016年02月28日 01時20分59秒 | 中国での外教職に関わること
随分更新まで日にちが空きました、24日に中国北京、翌日に済南へ戻りました。

今回、ANAでの往復は実に快適でした。


北京の胡同の風景。


2月上旬から史料調査に富山県へ出かけ、そこで得た知見を基にして新たな研究計画を立てました。
加えて、他に論文執筆に必要な史資料を国会図書館や東大の各図書館で講読・収集してきました。

お蔭で現在の研究をさらに発展させた、次課題の今後の道筋をつけることが出来ました。
まずは遅れている論文の再修正作業を早めに終えて投稿し、その後は中国で収集可能な資料・文献を集める予定です。
その作業を終え次第、今学期中に、新たな論文を少しづつ書き進めていく予定です。

なお、今までは日中間を軸に、現在の研究課題を進めてきました。
しかし、その過程で朝鮮や台湾、さらには東南アジアへ範囲を広げて議論する必要性を感じるようになりました。
中国生活のお蔭で中国語の読み・書きは随分出来る様になったので、今後は英語の再強化と韓国語の習得を目指す予定です。
そして、研究課題の地域を拡大させ、現在の問題意識を広く追及することが可能となるように持っていくつもりです。
そのため、今学期から語学の学習時間を確保し、語学パートナーの協力を得て、学習を進めることにしました。

全ては自分の研究(楽しみ)のため、ということですね。


それから、私が呼びかけ人の某共同プロジェクトの作業が3月以降も続きますので、そちらにもエネルギーを割くことになります。
プロジェクトは完成を見据えた新たな段階へ入っているので、今後はより一層緊密な連携が必要となると考えています。
少なくとも私が中国にいられる間に本プロジェクトを完成させ、少しでも中国で日本語を学ぶ学習者らに貢献したいと思っています。


さてさて、中国の本業(外国人教員)に関してですが、こちらは今学期は四科目、週90×8コマ(第9週から2コマ減少)です。
ただ、この他に他大でネット授業の仕事が学期を通じて続くので、前学期より少し授業が減った程度の印象です。
他に、希望する学生たち(3年生を想定)に対し、毎週ボランティアでゼミ形式の活動を導入できればと考えています。
1年生は別の日本人教員の担当ですし、2年生は毎週2コマ授業があるので課外活動はなくてもいいかなと思ったり、そう思わなかったり…。
1年、2年とも授業以外で何とか関わってあげたいと思いつつ、他の研究業務などとの両立の在り方に正直悩んでいるところです。
(四年は就活などで基本不在)。

後は、定期的な日本語コーナーで中国の縁故を済南に呼び、色々と学生たちと関わる機会を提供していく予定です。
加えて、小規模ながら実施している済南での日本人学習会には、中国の他の地域の日本人教員をお呼びするつもりでいます。
こちらはもう少しきちんと中身のある活動をやっていかないと、今後活動が先細りになると感じているからです。

こちらは全ては日本語学習者のため、ということですね。


なお、本日(27)の済南日本人学習会後にあった送別会がありました。
今年3月で済南を離任されるY先生(日本人教員)・Kさん(県庁職員)と、他の先生方と9人での宴席でした。
写真も撮りましたが、皆さんの許可をもらってはいないので割愛。

最後、私のアパートにおいている観葉植物。
約一カ月留守にしており、その間全く水をあげていなかったのに生命を保っていました。
その力強さに感動し、つい一枚撮ってしまいました(写真は水をあげた後の様子)。

現代中国における日本人教員の公募をめぐるネットワーク

2015年04月17日 23時55分14秒 | 中国での外教職に関わること
久々の更新です。

今日はタイトルに書いたとおり、現代中国では各地で日本人教員の方々が活躍されています。
ちなみに、日本人教員を中国語では「日語外教」や「日籍専家」などと呼びます。
こうした日本人教員は各大学と契約する場合、通常一年の常勤講師という形式で契約が結ばれます。

この場合、一年間は契約を結んだ大学で授業をし、学生交流などの業務に従事することになります。
また、翌年の契約に関しては双方(大学側と日本人教員)の合意があれば延長するのが普通です。

もちろん、「教員側が帰国・異動を希望する」ことや、「大学側が別の教員を採用する」などの理由から契約延長に至らないケースもしばしばです。
そんな時、日本人教員個人にとって重要になってくるのが「次の異動先を探すこと」になりますし、
一方で、大学側にとっては「新しい日本人教員を探すこと」になることは言うまでもありません。
このような日本人教員の公募をめぐる攻防が、中国では毎年かなりの数にのぼります。

私は中国で6年以上この仕事に関わってきたことで、日本人教員の公募をめぐるネットワークを色々と知ることになりました。
今回はその日本人教員を採用する側、採用される側がどのようなネットワークを張り巡らしているのか、御紹介したいと思います。


このネットワークをめぐっては幾つかの大きな流れがあると、私は認識しています。

【採用側=大学】
①同じ市内、或いは同じ地区などに属する各大学の日本語科主任などが相手校の主任と連絡を取りあい、人材を探すケース。

②前任者の出身大学、或いは関係者から、後任者を推薦してもらうというケース。

③中国の大学が日本の各自治体や日本語学校などと友好関係にあり、それら組織を通じて人材を派遣してもらうケース。

④毎回、特定の大学の関係者に声をかけ、その大学から後任者を派遣してもらうケース。

⑤ネット上の各公募サイト(日本語、中国語共に)に公募情報を出し、人材を募るケース。

⑥学会・研究会などで個人的に知り合った日本人教員を一本釣りで直接誘うケース。

採用側を見た時、大体、このネットワークがあると私は思います。

【採用される側=日本人教員】
一方、採用される側ですが、運よく(?)上記の②・③・④で採用されるというケースが考えられるでしょう。
また、⑤で詳しく情報を調べて応募した結果、採用にいたるというケースもあるはずです。
これに加えて、
 
⑦日本人教員同士を通じた情報交換によって公募情報を得る。

というネットワークがあります。
現在、中国各地には日本人教員の組織した教師会があり、大都市になると人数は50人以上などと大きくなります。
そんな教員同士のネットワークから、公募が出る大学の情報などを回し、希望した教員が応募する流れもあるようです。

毎年、後学期が始まる頃になると採用する側、採用される側での公募をめぐるネットワークがフルに発揮され、結果、人材が動きます。
ちなみに、私が以前にいた上海でも新学期ギリギリになってようやく後任が決まったりと、この「公募合戦」はすっと決まらないこともしばしばです。
大都市の上海でそのような状況なのですから、都市部を離れた地域になれば、後任が決まらないまま新学期が始まってしまうケースも稀にあります。

実際、私の知り合いの中国人の日本語科主任は、

「毎年多くの大学の日本語科主任たちは後任探しを心配しています。」
「5月・6月になると、多くの知り合いの主任たちが「日本人教員を紹介してほしい」と私に連絡をしてきます。」

とおっしゃっていました。

採用する側と採用される側の攻防。

これが激しさを増すのはもう少し後の時期ですが、今年もこの激しさは相変わらず同じ状況のようです。
この需要と供給のバランスをうまくバランスをとるために、私自身は公募ネットワークをより単元化することが有効な対策であると考えます。
ただ、何よりも重要なことは、現在のような単年度契約ではなく、複数年契約や任期なしの常勤ポストの拡張、同時に雇用条件の向上をはかることだと考えています。
それは結果的に、毎年こうした公募をめぐって採用側と採用される側のすったもんだを減少させることにつながる、と思うからです。

毎年、日本人教員の公募をめぐる攻防は、究極のところ、現代中国における日本人教員のおかれた雇用条件の課題を突きつけているように私には感じられてなりません。



最後に写真を紹介。

先週の授業での学生発表の様子①(武士の成り立ちを紹介)


先週の授業での学生発表の様子②

上海でお世話になったI先生のこと

2014年12月23日 02時20分27秒 | 中国での外教職に関わること
私は2009年に中国に来ましたが、これまで安徽省に二年、上海三年、現在は山東省の大学で働いています。
その間、本当に数え切れない中国で活躍する日本人教員の方々と縁を得てきました。
そこで今後、このブログを通じて中国で縁を得た日本人教員の方を順次ご紹介させて頂くことにしました。


その第一回目は、上海時代に大変お世話になったI先生です。

私の安徽省時代は日本人教員の仕事が何で、どのような授業をすべきか手探りのまま二年がすぐ過ぎ去りました。
ただ、いい意味で地方の大学であったため、学生はどんな授業でも一生懸命で、こちらに遣り甲斐は感じられました。
そして、自身の研究活動のために選んだ次の勤務地、上海の大学で働いていた時に縁を得たのがI先生でした。
2011年9月当時、I先生は上海外大で日本人教師に着任したばかり、私は華東理工大に着任したばかりでした。

上海へ異動して以降、中国の地方大学とは何もかもが違い、日本語教育素人の私は再び苦労することになりました。
もがき苦しむ時期、私の心の中には二つの相反する感情が何度も出ては消えていきました。

一つは、「俺は博論を完成させる環境を得たくて上海の大学を選択したんだ。授業が下手でも今は無視しろ。研究優先だ

もう一つは、「いやいや、そんなわけにはいかんでしょ。そんな中途半端な仕事じゃ、研究だって大成しない。まずは仕事優先だ

結局、後者の感情を優先し、私は学期期間中は研究を無視し、当面は仕事だけに専念することにしました。

上海に移って暫くしてからは、自分自身の授業力を上げたいと考え、上海の日本人教員が学びあう教師会に参加することにしました。
そして、その上海教師会こそが、I先生と直接知り合うきっかけになった場所でした。
その頃、上海教師会では年に二回ほど開催される定例会に加え、自主的に有志の教師が集まって勉強会を開くようになっていました。
この勉強会の発起人の一人がI先生であり、もう一人がドイツの大学院で日本語教育を学んできたという若手のK先生でした。

この二人の呼びかけに、上海だけでなく、上海周辺の各学校で教える日本人教員が集まり、毎回10-20人ほどの先生が見えていました。
私は特に用事がない時は毎回顔を出し、日本人教員達の実践、経験、様々な思いや考えを、この場で吸収してやろうと考えたものです。
当時、各先生方の発表に対するK先生のご指摘は大変鋭く、「これが専門で勉強してきた人の視点なんだな」と触発されたのを覚えています。
そして、I先生は各先生方の報告をいつも静かにうなずきながらじっと聞いており、時折、穏やかな口調でご質問されるのが印象的でした。

ズバッと本質部分をえぐるK先生と、それを静かに見守るようなI先生というお二人の組み合わせもよいバランスだったのでしょうか。
勉強会はその後も継続され、結局、私が上海を去るまで毎回定期的に開催されていきました。


いつだったか、そんなお二人と一緒に教師会の帰りに喫茶店により、お話しさせていただく機会がありました。
私がI先生に「最近、お忙しいですか」と聞くと、I先生から「はい」という一言が返ってきたのを記憶しています。
後で詳しく聞くと、I先生は週30コマ(45分が1コマ)を超える授業をこなしたと分かり、ただただ驚いたものです。
(※なお、中国の大学では日本人教員の週ごとの授業数に上限規定があり、規定超過分は別途、給与の支給が義務)
普通の日本人教師はその半分か、それ以下ですから、いかに多い授業を担当されていたかが分かると思います。

それら授業に加え、週末も自らが先導となって勉強会をし、大学では日本語コーナーもされていたと言います。
また、日本語スピーチコンテスト常連校の上海外大は頻繁に大会に参加するので、その指導も多いと聞きました。
ですが、いつ会っても穏やかな笑顔と物腰の低い態度で、「大変」などと口に出されることはありませんでした。

ただ今思えば、I先生は勉強会には必ず参加しても、その後の打ち上げはほぼ欠席し、帰宅されていました。
口に出さないだけで、実際には相当お疲れだったのではないかと思います。
私にはとても出来ないことです。


日本語教育の素人である私が、何とか上海の大学で教えることができたのは、あの勉強会の存在が大きかったと思います。
だからこそ、その会を立ち上げ、運営を一手に担ってくださったI先生には大変お世話になりましたし、感謝しています。



そんなI先生は大学でも学生から慕われていたことを、先日、ある記事から知ることが出来ました。

上海外大のHPのある記事
http://culture.shisu.edu.cn/xrlm/2014/2014,xrlm,023600.shtml

記事によれば、I先生が学生達に対して一番おっしゃっていた言葉が“頑張りましょう”(一起加油吧)だったとあります。
学生の閲覧数が他の記事よりも圧倒的に多いこと、また、記事内容からも学生から信頼され、慕われていたことが伝わってきます。
それにしても、学生達はよく教師一人一人を見ているんだなということも、この記事を見て教わりました。

日本へ先にお帰りになったI先生ですが、私が本帰国が決まったその時には、必ず会いに行きたいと思っています。

異動のお知らせ

2014年06月06日 22時58分13秒 | 中国での外教職に関わること
今日は私事ですが、自身の異動のお知らせをさせて頂きます。

2011年8月以来、上海の華東理工大学で勤務して参りましたが、今年7月末を持って新たな赴任地へ赴くこととなりました。
次の赴任先は中国山東省の省都、済南市にある済南大学で、同時に同じ済南市の山東師範大学でも教鞭をとらせて頂くことになっています。
着任は今年9月に始まる新学期からで、現在は済南大学・山東師範大学との契約・担当授業などの交渉を進めている段階です。

なお、これまで中国の大学での私の仕事は、日本人の外国籍教員として大学生のみに授業を行う立場でした。
(大学院生への授業も担当経験があるが、第二専門で日本語を学ぶ院生達だったためレベルは学部生と同じ)

しかし、次の職場では日本語・日本歴史や文化などを専門とする大学院生達を対象にゼミ形式の授業も担当することになります。
また、私自身の専門に近いテーマを研究する大学院生の指導教員という立場で、研究指導もさせてもらえることになっています。
(現在の話では、まず副指導教官として指導をはじめさせてもらう予定)


ちなみに私の場合、将来もずっと中国で外国籍教員(日本語教育そのものに関わる教員)として勤めていく考えはありません。
専門である日本近現代史、近現代日中関係史に関する日本での研究職のポストを得た後に帰国する、これが今も変わらぬ方針です。
やはり研究に関する仕事をしている時が一番の充実感、喜びがあり、私自身にとって一番向いている仕事だと思うからです。
そのゴールに近づこうと考えた時、現在の上海の職場では足りないものが多いと考えるに至りました。

もちろん、当初は研究環境のよい上海市内の他の大学への異動も考えましたし、実際にそうしたお話は幾つかありました。
ですが、上海・北京などでは外国籍教員が大学院授業を担当し、かつ指導教官もできる大学が皆無の状態でした。
むしろ、これらの地域ではレベルの高い大学ほど外国籍教員は学部生授業のみを担当するケースが多いことも、後で知りました。
何より、将来的に語学教員の道を離れる私が、よりレベルの高い語学授業を求められる大学へ着任する意義も見出せませんでした。

それならば、もっと研究職に近い仕事・キャリアを積める大学へ行きたいと考えていた矢先、済南との縁を頂いたというわけです。
上海を離れる時期を決める基準になったのが、上海に来てから進めていた千葉大との全学協定の締結を終えてから、ということでした。
2012年3月の交渉開始から2014年3月の協定締結まで約二年かかりましたが、現在は留学生派遣が可能になり、今年10月から学生が日本へ行きます。
有難いことにそれまで異動のお誘いを数校から頂いたのですが、それらは全てお断りし、千葉大との協定締結を終えた後、異動交渉を始めました。


もっと早く異動するという手もあったのでしょうが、現在の大学に博論執筆時に大変お世話になったせめてものお礼、また、日中双方の学生が関われるような機会をつくることに少しでも貢献できた後に、今回の異動を選択したことは間違っていなかったと思っています。

ともかく、7月末をもって私の上海での教員生活は終わります。
思うことはもちろん色々とありますが、精一杯の力で上海の残りの教員生活を過ごしたいと思います。
それが、次のステージに向かって力強く進むためのエネルギーになることを信じて。


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“二刀流”だからこそ得られるものもある

2014年05月03日 03時13分21秒 | 中国での外教職に関わること
私には現在、仕事が二つあると思っています。
一つは現在の中国の仕事(中国の日本人外教)、もう一つは、研究活動をして論文を書き、学会発表をする研究者としての仕事です。
この二つの仕事をしていて、これまで、そして今でも苦しなと感じることがあります。

それは一言で言えば、“脳ミソの切り替え”でした。

どの仕事にも、脳ミソのある部分はよく使うが、逆に使わない部分もあるのではないかと思います。
…と私は思っています。

外教としての仕事の場合と、研究をする時はまさにそうで、違う脳ミソを使う感覚があります。
二つの仕事でそれぞれどんな部分の脳を使っているか説明することは難しいのですが、相当違うというのが私の印象です。

外教の仕事をしている時、主人公は学生であり、その学生に自分が何ができるか、そして何をしてあげたいのかを考えるようになります。
また、一見すると「非合理的」と思われることもよくやります。
例えば、授業以外での学生との時間をとってよく関わるようにすること、また、ある時には一緒にバカになって遊ぶこともあります。
そこには、学生と自分との距離をより近づけ、日本語・日本に親しみを持ってもらえるような環境作りをしたいとの思いが根底にあるからです。
恐らく、日本の大学ですぐに歴史教員になっていたら、こうした発想は全くないまま教壇に立っていたと思っています。

公立教員をしていた父がよく、

「教育は世間的には無駄と思われる時間、面倒だと感じる仕事が多いが、それに対応していかないといい教育は出来ない。合理的なものではないから。」

と話していたことがありましたが、今、そのことが少し分かる気がします。
(と言うと、父からはまだまだと言われるでしょうが)


一方、研究者としての仕事をする場合、こうした仕事の在り方とは対照的な部分が多いように感じています。
研究対象に主観的に相対することは御法度ですから、客観的、そして論理的な姿勢・思考様式で取り込むことが何よりも求められます。
そして、研究対象と自分との世界に埋没するようになり、世間との距離感をとるのがともすれば難しくなることもあります。
主観を限りなく排し、なるべく対象と距離感をとりながら、事実に迫ろうと研究をしている時、外教の仕事をしている時に使った脳ミソはほぼ使いません。

だからこそ、その切り替えに時間がかかることが多く、その作業が結構苦しいのです。
将来的には、なるべくその切り替えを早めていくことと同時に、どちらでもやっていけるよう能力を高めることが不可欠だと思っています。
もし、どちらでもやっていける人間になれれば、将来、日本の大学で研究者としてポストを得た際にも大いに役立つと思っています。
そのため、毎日葛藤の連続ですが、この二刀流の生活を暫くは続けていこうと思っています。

つい最近も、この脳ミソ切り換えを経験しました。

実は上海で5月9日にある某学会にて発表するので、その準備だけに集中しようと数日前から思ってきました。
しかし、そんな時でも外教としてのオツトメ(授業以外での)はやってきました(笑)
学生達からのお誘いを受け、上海動物園へ行こうということになったのです。



ずっと背を向けて機嫌の悪いパンダ?


動物園から移動し、雲南料理の店で夕食。


学生達の嬉しそうな顔を見ていると「良かった」と思う反面、帰り道は「研究!!!」で頭は一杯でした。
中国に来てからの毎日は、この繰り返しです。


今の私にとっては、このどちらも大事です。
どちらも手は抜けませんし、こういう環境で生活させてもらえているからこそ、成長できるのだと信じています。

ただ、学会発表を前にした今、研究の方がウエイトは大きいので、もう少し本を読んでから寝るつもりです。
それでは今日はこの辺で。


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万歳! 上海市内のスピーチコンテストで初の受賞!!

2013年11月02日 23時01分32秒 | 中国での外教職に関わること
本日は上海市内で日本語を学ぶ大学生達が参加するスピーチコンテストがありました。
今回の場所は上海理工大学で、上海市内の計18校が参加しました。
各大学から一名選ばれた選手たちが参加し、スピーチを競いました。

なお、今回の大会の名前は、上海市大学生日語演講比賽といいます。
毎年上海で開催されている歴史ある大会で、今回で26回目を数えます。
主催は①上海教育国際協会、②京都外国語大学で、その他協賛として各著名企業が10数社ありました。

御存知の通り、上海や北京は中国でも著名な大学が集まる地域で注目度もレベルも高いのが特徴です。
実際、例年の大会では「日本人と変わらないじゃん」と感じさせる中国人学習者も珍しくありません。

このような大会に私の大学も毎年参加してきましたが、これまで優勝はおろか入賞も一度もありませんでした。
もちろん、毎回その度に先生方と学生が頑張ってきたのはもちろんなのですが…
そんな結果を繰り返す中、知らずの間に先生も学生も「我が校の入賞は難しい」との感情が広がってきていたそうです。
また、大会に向けた準備も大学の協力体制は上手に築けておらず、バラバラ感が否めませんでした。

こうした背景が重なり、我が校ではスピーチ大会には出るものの、いつも不完全燃焼が続いていました。


この大学に来て以来、この状態を何とか変えたいと思い、先生方との協力や学生指導の見直しを可能な限り実施してきました。
しかし、着任初年度・次年度はなかなか成果がでないまま時間だけが過ぎ、毎回悔しい思いをしてきたのが事実です。
「一体、どうしたらこの状況を打開できるのだろう」と本気で悩んだこともありました。


今回はスピーチ大会への出場が決まった後、私は以下のことを徹底することにしました。

①原稿から発音指導、質疑応答まで私が全て責任を持って指導すること(バラバラに指導しない)
②原稿を作る際に学生と何度も相談機会を設け、他の先生の御意見も取り入れ、原稿づくりにこだわる
③一回の指導で沢山指示をせず、一回の指導では一番直したいことを一つ確実に直す(確実に成長させる)
④スピーチがある程度上手になってから、よい厳しい意見を他の先生からもらい、再修正して完璧に(自信をなくさせない為)
⑤学生の良いと思ったところ、成長したところをほめて育てることを重視
⑥最後は学生を信じて、思い切り表現できるような言葉をかける
⑦後輩の学年にも積極的に宣伝し試合に足を運んでもらい、刺激を受けてもらう

この二週間はこの指導が一つの仕事で、頭はこのことである意味占領されていました。
何より指導をした学生は本当によく頑張ったと思います。

そして大会当日、同学年、後輩の学生達は休みにも関わらず足を運んでくれました。
中には3時間ほどかけて参加してくれた学生達もいました。

そして、肝心の指導をした学生のスピーチは準備した内容がきちんと反映された成果が出ていました。
その時点で私は「もし結果が思わしくなくても、これは全力で褒めてあげよう」と考えていました。

最後の結果発表、この学生は大会で二位となり、我が校初の入賞者となりました。
(あとで聞いた話では、今年は三名の選手が最優秀賞で、同時優勝者となっていたそうです。11月1日付)
応援に来ていた学生はもちろん、私も同時に「よっしゃ!!」と、つい大声で叫んでしまいました。



ちょうど前にお座りだった他校の先生も「おめでとうございます。私もあの学生はよく出来たと思いました」と声をかけて下さいました。
また、今回の会場には私のブログの「読者」という先生もいらして、声をかけて下さいました。
前回の済南でもそうでしたが、こうした「読者」の方に声をかけていただけると何だか恐縮します(苦笑)


今回の結果はスピーチをした学生はもちろん、会場に来てくれた後輩にも引き継がれていくと思います。
実際、試合の後、二年生の学生は「先生、良い機会を紹介してくれてありがとうございました。私は優勝を目指します!」とメールをくれ、いい刺激を受けた様子が伝わってきました。

今回はあくまでも二位、次の目標はもちろん優勝です。
私はもっとも重要なのは一度勝つことではなく、それを連続することだと思っています。
そのためにも、また新しい課題を見つけ、次の一歩を皆で踏み出すつもりです。