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中国西安で奮闘する大学教師Mの日々

日本人教員として中国の陝西省西安市の大学生・大学院生に対し、「日本文化・社会」や「卒業論文」などを教えています。

もう一人の日本人教員が・・・

2011年09月30日 00時46分15秒 | とりあえず日記
本日は講義がなく、仕事といえば、夜からの三年生の学生達との日本語交流のみ。
そして、明日も講義はなくて四年の学生達との交流のみがある状態でした。
さらに、今週土日からは国慶節の大型連休(10月1日~7日)が始まります!

そんなわけで少々気持ちがのんびりしてしまい、だらだらと過ごしてしまいました。
ようやく午後から、大学院へ提出予定の学位論文関連書類を書き始めました。
しかし、何だか集中できずにネットでニュースなどを見始めてしまう始末…。

大型連休を前にすると、普段の緊張感が抜け、こうも怠惰になるのは私だけでしょうか??

ネットで色々と「調べもの」をしているうちに、先日、私の大学で会ったある教員のことを急に思い出しました。
その方は、日本人の大学教員で社会公共管理学部に籍(職位:教授)を置き、専門は社会学というS先生(女性)でした。
偶々、日本語科主任のH先生から紹介され初めて会ったのですが、その時、どこかで聞いた名前だと感じていました。

聞くと、こちらの大学に来る前は南京大学で准教授として勤めていたとか。
専門が社会学と聞いたので、別に私の研究とはさほど関係がないと決めつけていました。


・・・しかし、違いました。
私の研究と関係が大有りだったのです。
(今日、ネットで調べて判明)

というのも、S先生の指導教官は早川和男氏、つまり、私の研究対象の西山夘三の弟子だったのです。
しかも、S先生は社会学が専門ですが、テーマが日本と中国の住宅の居住環境、また両国の住宅調査が主テーマだったのです。
要するに、社会学的な検討を軸にし、日中の住宅を様々な観点から考えるのが主眼にあり、私の現在のテーマとかぶります。
 
さらに、学生時代から中国への留学経験があり中国語は堪能、かつ、中国で住宅研究をするノウハウについても熟知されているとか。
もっと言えば、日本だけでなく、長年の中国生活から中国での研究者との縁故も広いということでした。
(日本語科主任のH先生の話)

初めてお会いした際、どこかで聞いた名前と感じた理由は、以前から彼女の論文を読んだことがあるからでした。
(研究分野が重なるので、先行研究として引用などをしていた為)

中国に身を置きながら、西山に関わる住宅史研究を進めていく私にとって大きな頼るべき存在が表れたという感覚でした。
早速、主任のH先生にお願いしてもう一度お会いする時間を取って頂き、色々とお話を聞きたいと思っています。


こうした研究者の方と日本で会うならともかく、海外の、かつ、広い中国で同じ大学にこうした縁故の方がいたのには大変驚きました。
思えば、私はこのような人の縁故に助けられることが本当に多いような気がします。

偶々といえばそれまですが、こうした縁が自分の身近にあったことに今は喜んでいます。
そして、こうした研究者の方とより多く知り合って、自分の研究をどんどん進めて成果を出していきたいです。


大型連休を前に緩んでいた気持ちも、お蔭で何だか締まったような気持ちがしました。
それにしても、人の縁とは不思議なものです。

中国の大学における「一斉移動」

2011年09月28日 00時41分32秒 | 中国の大学、大学生
<午後の授業が終わった時の、大学構内の様子。学生が一斉に校舎から飛び出すので、かなり混雑します。>

中国の大学では、基本的に生活リズムがルーティンで日本のような大学生活の多様性が少ないのが特徴です。
それは何と言っても、学生がほぼ100%大学構内で寮生活をしていること、大学の学習量が多いことが大きく関係しています。

寮で共同生活をして、かつ、自由な時間は勉強に費やすことが多いために彼らの生活は大体似たりよったりです。


例えば、一日の講義は各学年の各班でそれぞれ大学から決められた時間帯に受けます。
なかには選択科目もありますが、それは少なくほぼ班のメンバーと一緒の受講となります。

そして、講義後は夕食をほぼ全員が学食でとります。
翌日講義がない学生は、時々外で外食をすることもあるようです。

その後は、講義で出された宿題や、自分の資格や試験勉強にあてているようです。
夜9時から、遅い学生は11時頃まで勉強しています。
その後、自分の寮へ帰り、寝るまでの時間でシャワーやネット、読書などをしています。

そうした彼らのプライベート時間は、主に講義のない土日です。
自宅が近い学生は、金曜日の夕方から自宅へ帰ってオフの時間を楽しんでいます。

ですので、彼らの生活リズムをある程度は把握することが教師側は可能です。
そうしたルーティンの大学生活は、中国の大学生活の特徴の一つです。


良く言えばシンプルで目的がはっきりした生活ですが、日本人からみれば少々枠にはめられる感覚があるかも。
こうした決まった生活を大学生全体が送る為に、大学では一つの問題が発生します。

それがタイトルにも書いた、「一斉移動」による混雑なのです。
特に、午前と午後の講義が終わった瞬間の時間帯は校舎外に学生があふれます。
彼らは一斉に食堂を目指すので、食堂も圧倒間に学生だらけになります。

そして、たちまち学食がなくなり、食事を終えて学生達は一斉に引き揚げます。
その様は今でも慣れずに、いつも圧倒されている私です。

もし、早く食堂に行かないと食べる食事がどんどんなくなっていくので、まさに「プチ戦争」です。
(すくなくとも私はそう思っている)
幸い、教師の食堂は別に幾つか設けられているので慌てる必要はないのですが・・・


日本の大学では、学生によってそれぞれ大学での行動が全く異なるのでこうした混雑は比較的少ないように思います。
また、学食のお昼や夕食も時間をずらしても基本的にしっかりと残っているものですし。


日本ではのんびりと構えていた私ですが、こちらに来たお蔭で「一斉移動」の時間帯にかなり敏感になりました。
中国社会では春節の時期の「一斉移動」に代表されるように、こうした現象はある意味で社会的なものです。

この数ある中国社会の「一斉移動」に乗り遅れず、かつ、負けないように、と徐々に逞しくなっていく自分を感じるこの頃です。

AKB48が上海へやってきました。

2011年09月26日 17時57分47秒 | 現代の中国社会
<先日、旧フランス租界があった衡山路沿いのアラブ料理店へ。その後、バーへ足をのばしました。店長は日本語ペラペラでした。>

先週24日のこと、上海にAKB48がやって来ました。
…といっても、私はどうも「アイドル」とされるタイプの方々に昔から関心がありません。

が、こうした日本のアイドルに中国では関心が高いのです。
こちらで、「日本」に関わることを全て教える私としては知っておく必要がありました。

ですから、学生を通じて、また、ネットから情報を色々と集めてみました。


まず、コンサートのあった上海外国語大学へ実際に行った学生の話です。
(私の大学の日本語科3年だけで、10人近くが行ったとのこと)
それによれば、会場はかなりの盛り上がりだったそうです。
それを見て、彼女達もAKB48の人気を改めて感じたとのことでした。

ネットニュースによれば、1300人を超える人々が大学ホールに詰めかけたそうです。
もっとも、本当はもっと見たい人もいたようですがチケット制限がありました。
会場の外にも多くの観客が詰め寄っていたそうで、その熱気はかなりのものだったと予想されます。

また、このイベントは上海の大学生を中心に、結構話題となっていたようです。
コンサートが無料で観られるとあれば、それに火がつくのは当然でしょうが。


では、上海の大学生以外の人々にとって、このイベントへの関心はどうだったのか??
私は上海在住の知人にこのイベントについて質問してみました。
彼はイベントのあった上海松江区に住んでいますので、当然知っていると考えていました。

しかし、彼はそのイベントがあることを全く知らなかったのです。
先日、北京でスマップのコンサートがありましたが、その際は大々的にその事が報じられていました。
ですから、そのイベントも上海の学生はほとんど知っているようでした。

が、今回のAKB48のイベントは宣伝があまり積極的になされていなかったようです。
テレビでのCMはなかったと思いますし、特に他のメディアが大きく取り上げている様子もありませんでした。

ですから、イベントの開催は上海の大学生(特に、日本語科)を中心に広まっていたようです。
大きく宣伝すると人が集まりすぎて混乱を招くと、上海の公安などが懸念して宣伝を制限した可能性もありますが。
細かいところは私に知る由もありません。


本日の四年生の講義(卒論指導)の際、そのことを話題にしてみました。
すると、学生達はそのイベントは知っていましたが、AKB48の個々の名前は知らないようでした。
私はそんなこともあろうかと事前に調べていたので、写真と名前を簡単に紹介しておきました。

卒論とは全く関係のない「余計な話」だったのは間違いありませんが、そこが一番盛り上がりました(苦笑)
要するに、それだけ関心が高いということでしょう。

スマップの全メンバーの名前を知っている学生が多いですが、AKB48はまだそこまでいっていない模様でした。
やはりスマップの人気は中国でも恐るべし! ですね。

特に、メンバーの木村さんの知名度は格上のようです。

「誕生日」に対する日中間の相違

2011年09月23日 00時14分23秒 | 現代の中国社会
<新校舎内の外国語学部棟から見た構内の風景。上海にも関わらず、目の前一面に広がる広大なキャンパスは圧巻です。>

本日は講義がないので、来週以降の講義準備をしていました。

午前自宅の電話が鳴りました。
出ると、相手は日本語科のS先生でした。
要件は、今度我々の大学出版社が出す某教材の監修(というより原稿チェック)、音声の録音協力でした。
今までは上海外国語大学の外教が担当していた仕事だったそうですが、今年は多忙で出来ないそうです。
そこで、私にお鉢が回ってきたという流れの様でした。

正直、色々な経験を積むのは嬉しいですが、私にも自身の仕事・研究が待っています。
ですから、今回は丁重にお断りしました。


夕方、毎週実施している学生達との交流会へ出かけるため、新校舎行きのスクールバスへ乗りました。
最近は上海も涼しくなり、中には気温の変化で軽く風邪を引いた学生も出てきました。
(なお、私は全く風邪をひかずに元気そのもの)

本日の交流会では、対象は大学三年生達のみでした。
(一年はまだ実施せず、二年・四年は別の曜日に実施)
この会はこちらに来てすぐに始めたので、今週で既に三週目になります。
ですから、学生達とも徐々に打ち解けてきて、お互い雰囲気が自然体になってきました。
その中で、ある女子学生が言いました。

「そういえば、先生はもうすぐ誕生日でしょう。その時、お母さんには電話しますか。」

と。私は、

「そうだね。誕生日といっても、もう子供じゃないからわざわざ電話はしないかもしれないな。」

と返しました。
すると、その女子学生や話を聞いていた他の学生達も、

「どうしてですか??」

と不思議そうにその理由を詳しく教えてほしいという表情をみせました。
ですから私は、

・誕生日といっても、ある程度の時期まで祝ってもらうが、この歳になると家族で祝うムードも弱くなること
・特に、男性だと家族から誕生日を祝ってもらうのも照れくさい感じがすること

などの理由を話しました。
すると、その学生はこう言ったのです。

「先生違いますよ。私の言っているのは、先生のことをお腹を痛めて生んだお母さんに感謝を言わないんですか、ということです。」

と。
つまり、彼らが不思議に感じたのは、どうして私が電話口で母への感謝を言わないのかということだったのです。

………僕は一瞬時間が止まったような感覚に襲われました。

恥ずかしながら、私はこの歳まで誕生日は自分が祝ってもらう日とばかり思い込んでいたからです。
日本にいるときは、常に誕生日とは自分が主役で、祝ってもらう立場からしか捉えていませんでした。
その背景には、日本社会の中にそうした雰囲気が少なからずあったからだと思います。

しかし、中国ではそうした考え方をしないようです。
今日、交流会に参加した学生達は一様にお母さんへの感謝を伝えると答えました。

彼らの主張は全くその通りで、今まで自分は誕生日という年一回のイベントを一方的な見方しかしていなかったことをしみじみ感じました。
それと同時に、「俺は親への感謝がまだまだ足りないんだな」と感じさせられました…。

学生に教えに行っているつもりでしたが、今日は全くその反対に彼らから何か大切なことを教わった日となりました。
帰りのスクールバスに揺られながら、私は少し胸が暖かくなるような感覚を感じ、何だか非常に心地よかったのでした。

大阪府立大学一行が我が大学を訪れました。

2011年09月20日 22時24分14秒 | 中国の大学、大学生
<写真は、本日夕方から実施した日本語交流会での一コマ。この後、私も歌を歌う羽目に…>

本日、大阪府立大学の教員・学生の一行(約30名)が、我が大学を訪れました。
何でも両校には協定が結ばれていて、去年からこうした交流が始まったようです。
既に、今年7月の時点で話が決まっていて、本日を迎えたというわけです。

海外との大学との協定が多い大学は、こうした交流機会が多く素晴らしいと改めて感じた次第です。
ですので、学生達には、こうしたチャンスをどんどん活かしてもらいたいと事前に話しました。
上海は環境に恵まれているせいか、ハングリーな面を見せる学生が少ないからです。

その交流の一つとして、大阪府大の学生達が私の講義に参加することになっていました。
講義といっても、実際は、日本側と中国側の学生たちが事前準備した発表をし、質疑応答を行う形式です。
ですので、私は何かあった時の助け舟として参加したようなものです。 

この発表は学生が夏休みを使って準備し、それを私に見せてくれ、手直しをしていました。
主に手直しした点は、

「ただ報告するのではなく、相手に質疑応答を求める形式」

を導入させたことでした。
ただ、発表だけでは聞いている相手は退屈という理由も勿論ありました。
それ以上に、せっかくの交流機会なので、会話させる機会を増やしたかった事が大きかったです。

彼らの発表テーマは、

1、中国の中秋節に関する紹介(中に、歌を披露する場面も)
2、最近、中国で流行っている言葉の紹介(その後、日本側の流行語を質問)
3、中国でおすすめの観光スポットを紹介(上海含む)

ただ報告せずに、なるべく聞き手との「交流」、または訴えかける内容にしてくれたので、盛り上がりました。
特に、「2」の報告では報告者の女子学生が、積極的に日本人男子学生に質問をしていき笑いを誘いました。
さらに、答えた男子学生もジェスチャーを交えて答えるなど、なかなか雰囲気は良かったです。


中国側の報告後は、日本側が同じく三グループに分かれて報告を行いました。
内容は、日本のオタク文化、大阪の名所を音楽と共に紹介、日本の地理気候を紹介、の三つでした。
彼らの発音は大阪訛りで、中国人学生がどのくらい聞き取れたのか気になりますが、工夫されていました。
それぞれ大学生らしく硬くない、馴染みやすい内容で楽しめるものばかりでした。

講義の後は、日中の学生達が交じり合い、日本語(時には英語、中国語)で会話をしながら昼食をとりました。
中には、連絡先を積極的に交換している姿もみられました。
どんどんこうした縁故を作り、自分の日本語やその関連知識を伸ばすだけでなく、視野を広げる機会にしてほしいです。


ですから、お互いの学生にとってこうした交流機会が今後の将来につながっていくことを期待します。
今日の機会を通じて、私は普段教室でやっている講義が何だか非常に小さく、つまらないものに感じてしまいました。

そんなわけで教室での一回一回の講義にも、もっと魂を込めて行わないといけないと再認識する機会にもなりました。
まだまだ未熟ですが、今後はさらに少しでも「前へ」と向かっていこうと思います。

2011年CASIO杯 in 上海外国語大学

2011年09月17日 22時11分14秒 | とりあえず日記
<本日は、私の大学の四年生が予選を勝ち抜き、タイトルにある日本語スピーチコンテスト決勝に参加しました。会場にはカメラも!>

中国では英語はもちろん、日本語を学ぶ学生が増加傾向にあります。
その関係から、日本語専攻の学生を対象にしたスピーチの試合が毎年数回開催されています。
開催場所は各大学での場合もありますが、全国規模での大会も数多く実施されています。
そのような場合、開催場所は主に上海や北京などの大都市が多いようです。

そうした全国規模でのスピーチコンテストの一つが本日開催されました。
その名は、

第四回 上海外国語大学・CASIO杯 中国日語専業本科生・研究生演講弁論大会

と、非常に長い…(苦笑)
実質的な大会主催は上海外国語大学であり、そのスポンサーが電子辞書なので有名なCASIOです。
その他、協賛として、日本の上海領事館や中国日語教学研究会(学会)なども協力していました。

全国規模の大会なので参加者は中国全土から集まってきますが、都市部が多い印象でした。
この大会では、まず予選ブロックがあり、その合格者のみが本日開催の決勝戦に進むことができます。

私の大学からも、予選に参加した学生がいて、見事予選を突破していました。
そして、私がこちらに着任後すぐにそのことを聞き、昨日までほぼ毎晩練習を重ねてきました。
私は全国規模の大会に出場する学生の指導は、全く初めての経験でした。
ですから、現在の仕事をしていて、また別の新たな経験を踏む機会を与えてもらったと感謝しています。


指導をしていて感じたのは、何より学生の吸収力の速さと、真面目に一生懸命に取り組む姿勢でした。
私が言ったことは、次回の指導時にはしっかりとほぼ完ぺきに修正してくるので、関心していました。
その反面で、自分のスピーチを如何にPRし、また、聴衆に訴えるか、という点で劣っているのを感じました。
さらに言えば、スピーチ内容もやや幼く感じられ、テーマに対する知識がやや弱い印象も受けました。

それらをなるべく強化したつもりですが、時間的な制限もあり、十分に修正できないまま試合当日を迎えました。
特に、知識の面を短期間にどうにかするには限界があることを改めて感じました。


そして、本番当日。
会場には上海だけでなく、中国各地の著名な語学大学の学生達や教員が集いました。
そして、CASIOの社長(上海支社)や上海市の日本総領事も審査員として参加していました。
試合内容は、午前中の事前に与えられたテーマに対するスピーチ、そして、午後はスピーチに対する選手同士の質疑応答でした。

ここで、結果的に大きな反省点となったのが、午後の質疑応答でした。
というのも、試合直前まで私はスピーチのみが試合内容だと考えていて、質疑応答の対策をしていなかったのです。
(学生から、質疑応答があると聞かされたのが試合直前だったため)
そのため、十分な準備をせずに試合を迎えてしまい、結果的にその部分で学生はコケタ形になってしまいました。

しかし、事前にそれなりに練習したスピーチは練習した中でも会心の出来で私も感動しました。
その証拠に試合後の懇親会では、各先生方がその学生のスピーチを覚えてくれていて褒めて下さいました。
(なお、懇親会では、中国の様々な大学教員と知り合いになれた為、貴重な機会でした)

集まった学生は、いずれもレベルが高く、中には日本人かと感じる学生もいました。
ちなみに、その彼女は北京第二外国語学院の学生で、周囲の予想通り優勝しました。
しかし、個人的には上海師範大学の大学院生の方の質疑応答や、スピーチ内容の独自の観点にもっとも関心させられました。
他にも、論理的整合性がしっかりした学生や、ユーモアで観客をひきつけた選手もいて興味深い大会でした。

残念ながら、私の学生は賞をもらうことはできませんでしたが、質疑応答を何とかすれば賞の可能性もあったはずです。
(ま、主観的といわれるのが落ちですのでこれ以上は言いません)
この経験を次に活かして、次回は全国規模の大会決勝で賞をとってほしいと思います。
また、今回の経験を他の学生たちにも伝え、新しい「卵」が彼らから出てほしいです。

そうした雰囲気が高まっていけば、彼らは必ず将来的に、広い中国の全国大会でも賞をとれると信じます。
その意味で今回の大会は、今後の可能性を十分に感じることのできるものであったととらえています。

安田浩先生のこと

2011年09月14日 23時41分37秒 | とりあえず日記
(以下の記事は、既に東京新聞などで公にされていること、と確認した上で書いています)

9月10日、私の指導教官の一人である千葉大学安田浩先生の訃報が入ってきた。
その連絡は、主指導教官の三宅明正先生からであった。

私が2009年に中国行きが決まった際、先生は既に癌手術を終え、仕事復帰しておられた。
しかし、その後も御体調が安定せず、結局、ほぼ大学にはいらっしゃれなかったようである。
(このように書くのは、この間、私が中国にいて詳しい事情を把握していない為)
だから、先生の御体調がすぐれないことは承知していた。

しかし、それにしても、今回の安田先生の訃報はあまりにも急であった。
実際、知らせを受けた10日から5日経った今でも信じられないのである。
要するに、自分の気持ちを未だに上手く整理できていない。


安田先生とは、千葉大学文学部史学科に三年時編入で入ってから、縁を得た。
思えば、安田先生は埼玉大学から千葉大学へ移られ、私もその数年後、埼玉大学から千葉大学への編入していた。
これは単なる偶然であるが、実は埼玉大学時代から安田先生との縁があったのかもしれないなどと思う。
そして、私が大学院修士・博士課程と進学する過程で、ずっと私の指導教官の一人だった。

恥を忍んで書けば、先生の講義、というよりゼミでは怒られた記憶の方が多い。
しかし、それらはいずれも的を得たものばかりであり、私の研究の糧になっている。

先生の研究指導には、いくつかの強い研究者としての信念があったと私は思っている。
それらは主に、

(1)史資料分析が不十分で実証的でなく、自身の考え(仮説)を先行させるような研究、または、その姿勢への痛烈な批判
(2)研究対象に、とにかく「しつこく」向かい合い、考えに考え抜くという姿勢を徹底されていたこと
(3)研究の方法論・先行研究などにとらわれ、自身の研究テーマを小さく「蛸壺化」させる、または、そうした姿勢を忌避

であったのではないか。
ゼミでは、常に張りつめた緊張感があり、その度に身が引き締まったのを覚えている。
また、そうした雰囲気こそが、研究を行うことの「厳しさ」を叩き込んでくれた。


そんな安田先生と、一度だけ千葉から埼玉県の大宮まで帰りが一緒になったことがあった。
ちょうど私が、中国で働き出して半年経ち、一時帰国していたころである。
ゼミの飲み会で少し気分の良くなっていた私は、恐れもせず、色々と研究課題を先生に伺った。
その時、先生もお酒が入り、やや赤らんだお顔で、にこにこしながら丁寧に教えて下さったのが忘れられない。
その後、話題は私が働く中国の社会や政治体制にも及び、細かく覚えていないが、何だか大変盛り上がった。

それを表すかのように、大宮で終電を気にした私に先生が、

「電車がないなら、私の家に泊まっていきなさい。」

と、お誘い下さったのだった。
終電もある時間だったので丁重にお断りしたのだが、少々残念なことをしたと今でも思っている。


中国で現在の仕事をして、既に三年目である。
その間、職場は安徽省から上海へと移り、自身の博士論文を出す時期も目前に迫っていた。
博士論文を書き上げたら、本来、それを読んで頂く一人は安田先生であったに違いない。
そして、博士論文に対する的確な評価(良い、悪いを含め)を与えてくれたに違いない。

が、それはもう叶わなぬこととなった。

先生の訃報を聞いた時、通夜か告別式だけでも都合つけて参列できないかと考えた。
しかし、今年8月下旬より新たに勤めている上海の大学を離れることは難しかった。
何より、そうした行動を安田先生は喜ばないだろうと私には思えた。

「今は、君の与えられた仕事に力を尽くし、博論の研究も頑張りなさい。」

と、先生ならおっしゃっるのではないか。
そう思った。

だから、同じく中国で奮闘するH先輩と連絡をとり、「今、我々は「ここ」で頑張りましょう」と決めた。
あとは自分自身が頑張り、来年の一時帰国の際、先生に良い報告が出来るよう頑張るだけである。
そう思っている。

中国では本日が教師節(2011年の)

2011年09月10日 23時47分32秒 | とりあえず日記
<今晩は、以前から約束していた学生との食事会へ行きました。その後は、カラオケへ!ま、あまり上手に歌えませんでしたが…>

本日は、中国では教師節として教師に対する尊敬の念や、日頃の感謝を伝える日です。
こちらの大学に来て間もないので、正直学生たちの顔と名前が一致していない状態です(汗)
さらに、上海では安徽省のように教師が学生に携帯電話を簡単には教えません。
こちらでは、ややプライバシーの意識が強いためです。
(日本のそれとは比にならないと思いますが・・・)

ですから、安徽省の時の様には交流の設定は容易ではありません。
具体的には、事前に予定を決めておく必要があります。
そうしないと、急にはなかなか上手く決めることが出来ません。

こうしたこともあって、まだまだ学生と私との交流は「距離感」があるように思います。
(あくまでも、前任校との状況を比較すればの話です)


さて、今朝は目覚まし時計でなく、メールの着信音で目が覚めました。
メールはいずれも、本日の教師節を祝うものばかりでした。
加えて、送ってきた学生の大半は、以前の勤務していた大学の学生達でした。

上海の大学の学生達からのメールもありましたが、ごくわずかでした。
(ちなみに、上海の学生はPCにも日本語のメールをくれましたが)
そもそも、働き始めて一か月弱でこうしたメールをくれるだけ感謝ですが。

思えば、こちらの大学では教師節の日でも、普段とあまり変わらない印象を受けました。
ですから、そもそも教師節の日を特別視する感覚自体が弱いのかもしれません。
今度、それとなく学生達に聞いてみたいと思います。


ともかく、教師というだけで、こうした尊敬の念や日頃の感謝をされるのは嬉しいです。
今後も仕事を頑張ろうという気持ちにさせられますね!

今日メールをくれた上海、そして安徽省阜陽の学生は本当にありがとう。
私はみんなに仕事のエネルギーをもらっています。

今度の大学では、いわゆる研究室があります。

2011年09月09日 00時51分51秒 | 中国の大学、大学生
<先日頂いた大学の外教研究室の中から廊下をみる。左横に見える折り畳みタイプの椅子は、疲れた時の仮眠用だそうです(笑)>

現在、勤務している上海の大学では上海南駅近くの旧校舎と、そこからスクールバスで40分ほど離れた場所の新校舎があります。
さらに、その近くにもう一つのキャンパスがあるそうなのですが、私はそこで講義がありません。

私の住む家は旧校舎の方にあり、そちらのキャンパスでは大学四年生の講義があります。
家から外国語学部の校舎まで歩いて5分ですので、非常に便利です。
その校舎の中に、日本語科の教員全体の研究室があり、各教員のデスクがあります。
ここでパソコンで資料を作成したり、ネットで調べ物をしたり、プリント・コピーもとれます。

ただ、実際はこの研究室に教員が来ることはめったにありません。
それは、先に書いたように、この校舎では四年生のみの講義があるからです。


1~3年生の講義は新校舎であるので、教員の大半はこちらで仕事をします。
そして、こちらのキャンパス内の外国語学部校舎内にも日本語科研究室があります。
室内は行ったことがないので知りませんが、恐らく、旧校舎とほぼ同じだと思います。

そして、この大学は、その同じフロアーに外教専用の研究室があります。

ちなみに、現在所属する外教は日本語・英語・ドイツ語学科の三人です。
しかも、ドイツ人の外教は別の大学所属の外教で、私の大学は兼任だそうです。
ですから、ほぼ大学で会うことはありません。

アメリカ人の外教も、講義が多くて疲れるらしく講義後はすぐ帰宅しています。
「講義以外で学生達との交流は予定していない」と言っていましたし。

そんなわけで、三人で使用する研究室ですが、現在は私が独占状態です。
空調の聞いた20畳程度の室内に、三つのデスクがあり、パソコンが設置されています。
室内にコピー機はないですが、同じフロアーの機械で無料で自由にできます。
また、丁寧に仮眠用の折り畳み椅子も完備してあります(笑)

今後は本棚が入るそうですが、これは、まだ入っていません。

この部屋は主に、講義準備や、学生たちの交流に使っています。
ちなみに、今日は大学三年生の10人程度の学生達と一緒に二時間ほど交流しました。
やはり、講義以外の時は学生たちの自然な表情や性格が出るのでいいです。

研究に時々使うかも知れませんが、やはりこれは自宅の方が落ち着いてできます。
(大学の研究室で研究が集中出来ないという先生方の気持ちが今は理解できます)


以前の大学では、こうした研究室とは無縁でした。
教員控室(職員室)はありましたが、他の学科と日本語科の共用だったので全く使いませんでした。
ですから、研究や仕事を進めるうえでの環境が整い、心より感謝しています。

こうした環境を上手に活かしていきたいものです。

中国上海市の「スタンダード」

2011年09月08日 00時02分51秒 | 現代の中国社会
<先日、学生たちと一緒に行った大学近くにある下町風情漂う食堂。予約なしでは入れないほどの人気店だそうです。>

中国に住んで、既に三年目に突入していますが、上海での生活はまだ一か月弱です。
その大半は、安徽省で送ったのですが、上海との雰囲気は色々と違いが多かったです。

特に、中国安徽省に来てから、私が一番感じていたことがありました。
それは、中国社会(主に安徽省の)における社会的基準が多様で、なかなか掴みにくいことでした。

ある場所では「基準」とされていたことが、少し移動すると全然異なるという経験がよくありました。
特に、安徽省から時々、研究調査等で上海や北京へ行ったときは、その「基準」の相違に驚いたものです。
それまでの「基準」が大きく揺さぶられ、新たにその場所での「基準」に照準を合わせることの連続でした。


こうした背景の一つには、社会的格差がかなり開き、同じ中国人とはいえ、生活レベル・文化レベルの開きが関係していると思います。
また、多様な民族、広大な国土を抱える中国では、伝統的にそうした文化的な「基準」が様々存在してきたことも大きいでしょう。

つまり、社会的階層、地域空間的にそれぞれの「基準」があって、同時にそれらが共存しているのだと私は考えています。

なお、中国の社会的特質の一つは、まさにこうした部分にあります。
すなわち、中国では様々な「基準」が緩やかに共存していて、変に均質化していないのです。


そして、ここにこそ、中国社会の一つの魅力があるのだと私個人は考えています。
(冒頭にも書いたように、時々、そういう社会に)
逆に、日本の社会では「基準」とされるものが決まると、それのみが存在すべきだというような雰囲気が生まれがちです。
また、その「基準」を国民みんなが順守するということが一般的です。

ですから、中国社会と日本社会はこの点に大きな差異があると予てから考えてきました。
こうした多様な価値観が入り混じり、それに寛容な中国社会に暮らすと、何か気持ちが楽です。
変に肩に力を入れずに、より自然体で生活が送れるという感覚があるからです。


安徽省から上海へ来て強く感じたことは、これに関わる事でした。
具体的には、上海では安徽省より圧倒的に「基準」の範囲が狭くなっているということでした。
国際都市として、多くの人種、また価値観や考えが交錯する場なので、多様な空気感が存在するといえばそうかもしれません。

ですが、そうした空気感があると同時に、所謂、一つの国際的「基準」というものに上海全体が急速に向かっている印象を受けます。
より世界的に支持されている価値観・考え方などを、自らも積極的に取り入れようというような姿勢がこちらでは感じられます。
(もちろん大学生たちだけでなく、私の大学付近で暮らす上海の人々からも)

逆に、そうした「基準」を取り入れることができないと、上海の社会空間から排除されていくような社会的性格があるように思います。

ですから、先ほど私が書いた、

「中国では様々な「基準」が緩やかに共存していて、変に均質化していない」

という認識も、ここ上海においては改める必要があるかもしれないと考え始めています。


…とこのように書いたものの、私の生活している感覚では、日本の東京などより遥かに異質なものに寛容です。
ですから、やはり上海では肩に力が入ることは日本よりも少なく、私は比較的伸び伸びと暮らせています。


ま、今後、上海がどうなっていくのかという点に注目ですね。
個人的には、変に社会が均質化せず、多様な「基準」が共存できるような雰囲気が存在し続けてほしいと願います。