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中国西安で奮闘する大学教師Mの日々

日本人教員として中国の陝西省西安市の大学生・大学院生に対し、「日本文化・社会」や「卒業論文」などを教えています。

久々に研究に専念するため、北京へ

2015年04月30日 02時00分53秒 | Mの研究活動や成果
私の大学は29日、30日が校内運動会で授業が休講。
加えて、5月1日から3日までは中国の労働節休暇でお休みということで計5日の連休になりました。

私はこの期間を利用し、今日(30日)から2日まで北京に滞在し、自身の研究だけに専念することにしました。
北京の国家図書館に缶詰になり、そこで5月末に投稿する書評の大部分を書き上げようと思っています。
また、歴史学研究や歴史評論などに掲載された論文を一通りチェックし、関連文献を必要なら購入か、コピーして帰る予定です。

ホテルは国家図書館隣にある民族大に知り合いの教員がいらっしゃるので、大学のホテルに泊めてもらうことにしました。
国家図書館まで徒歩10分弱、加えて、北京外大の日本学研究センターにも徒歩でいける範囲と最高の場所です。

北京でのことは、後日またブログで書こうと思います。


この写真は、先日一年生たちと金曜午後、校内で一緒に日本語を使って遊んだ時のもの。
私は一年生の授業を担当していないので、かれらの名前を早く覚えないといけません。



現代中国における日本人教員の公募をめぐるネットワーク

2015年04月17日 23時55分14秒 | 中国での外教職に関わること
久々の更新です。

今日はタイトルに書いたとおり、現代中国では各地で日本人教員の方々が活躍されています。
ちなみに、日本人教員を中国語では「日語外教」や「日籍専家」などと呼びます。
こうした日本人教員は各大学と契約する場合、通常一年の常勤講師という形式で契約が結ばれます。

この場合、一年間は契約を結んだ大学で授業をし、学生交流などの業務に従事することになります。
また、翌年の契約に関しては双方(大学側と日本人教員)の合意があれば延長するのが普通です。

もちろん、「教員側が帰国・異動を希望する」ことや、「大学側が別の教員を採用する」などの理由から契約延長に至らないケースもしばしばです。
そんな時、日本人教員個人にとって重要になってくるのが「次の異動先を探すこと」になりますし、
一方で、大学側にとっては「新しい日本人教員を探すこと」になることは言うまでもありません。
このような日本人教員の公募をめぐる攻防が、中国では毎年かなりの数にのぼります。

私は中国で6年以上この仕事に関わってきたことで、日本人教員の公募をめぐるネットワークを色々と知ることになりました。
今回はその日本人教員を採用する側、採用される側がどのようなネットワークを張り巡らしているのか、御紹介したいと思います。


このネットワークをめぐっては幾つかの大きな流れがあると、私は認識しています。

【採用側=大学】
①同じ市内、或いは同じ地区などに属する各大学の日本語科主任などが相手校の主任と連絡を取りあい、人材を探すケース。

②前任者の出身大学、或いは関係者から、後任者を推薦してもらうというケース。

③中国の大学が日本の各自治体や日本語学校などと友好関係にあり、それら組織を通じて人材を派遣してもらうケース。

④毎回、特定の大学の関係者に声をかけ、その大学から後任者を派遣してもらうケース。

⑤ネット上の各公募サイト(日本語、中国語共に)に公募情報を出し、人材を募るケース。

⑥学会・研究会などで個人的に知り合った日本人教員を一本釣りで直接誘うケース。

採用側を見た時、大体、このネットワークがあると私は思います。

【採用される側=日本人教員】
一方、採用される側ですが、運よく(?)上記の②・③・④で採用されるというケースが考えられるでしょう。
また、⑤で詳しく情報を調べて応募した結果、採用にいたるというケースもあるはずです。
これに加えて、
 
⑦日本人教員同士を通じた情報交換によって公募情報を得る。

というネットワークがあります。
現在、中国各地には日本人教員の組織した教師会があり、大都市になると人数は50人以上などと大きくなります。
そんな教員同士のネットワークから、公募が出る大学の情報などを回し、希望した教員が応募する流れもあるようです。

毎年、後学期が始まる頃になると採用する側、採用される側での公募をめぐるネットワークがフルに発揮され、結果、人材が動きます。
ちなみに、私が以前にいた上海でも新学期ギリギリになってようやく後任が決まったりと、この「公募合戦」はすっと決まらないこともしばしばです。
大都市の上海でそのような状況なのですから、都市部を離れた地域になれば、後任が決まらないまま新学期が始まってしまうケースも稀にあります。

実際、私の知り合いの中国人の日本語科主任は、

「毎年多くの大学の日本語科主任たちは後任探しを心配しています。」
「5月・6月になると、多くの知り合いの主任たちが「日本人教員を紹介してほしい」と私に連絡をしてきます。」

とおっしゃっていました。

採用する側と採用される側の攻防。

これが激しさを増すのはもう少し後の時期ですが、今年もこの激しさは相変わらず同じ状況のようです。
この需要と供給のバランスをうまくバランスをとるために、私自身は公募ネットワークをより単元化することが有効な対策であると考えます。
ただ、何よりも重要なことは、現在のような単年度契約ではなく、複数年契約や任期なしの常勤ポストの拡張、同時に雇用条件の向上をはかることだと考えています。
それは結果的に、毎年こうした公募をめぐって採用側と採用される側のすったもんだを減少させることにつながる、と思うからです。

毎年、日本人教員の公募をめぐる攻防は、究極のところ、現代中国における日本人教員のおかれた雇用条件の課題を突きつけているように私には感じられてなりません。



最後に写真を紹介。

先週の授業での学生発表の様子①(武士の成り立ちを紹介)


先週の授業での学生発表の様子②

山東省の農村を旅する(調査半分、休暇半分)

2015年04月07日 12時28分34秒 | 現代の中国社会
4月4日から6日まで、中国は清明節で三連休でした。
私はこの間、自身の関心もあって山東省済南市の大学を離れ、同じ山東省にある農村を訪れてきました。

その理由は二つ。
一つは、研究課題の一つで戦時中に中国に設置された華北産業科学研究所に関する現地調査でした。
もう一つは、この休暇を使って農村出身の学生宅を訪問し、その様子を見聞するということでした。

華北産業科学研究所は、戦時中に日本政府が中国国内の農業や畜産面の研究、並びに、その生産量向上を目指して設置した研究機関です。
よって、帝国日本の侵略政策の一環として建設された研究機関なのですが、そこには当時、日本の農業研究者や技術者のトップエリート達が派遣されていたことは見逃せない史実です。
それはすなわち、同研究所での研究成果が少なくない影響を持った可能性が高く、戦後への連続性としての側面も検討する余地が大いに残されていると考えられるからです。

具体的な問題関心はここでは省きますが、それらの問題を総合的に検討し、戦中戦後の日中間の農業技術交流をめぐる連続性を解明していこうと考えています。
その調査の第一弾として、実際に研究所支場があったとされる近隣農村の畑作状況を、実際に自分の目で見てこようと思って出かけてきたというわけです。
というのも、日本で収集した資料より、研究所に派遣された日本人研究者の一人が、当時の中国山東省済南市の畑作のあり方を調査した結果、

「日本は稲作に関しては進んでいるが、畑作に関しては未熟な点が多く、この点は中国から学ぶことは大いにある」

と認識し、実際に戦後日本に戻って、中国で得た畑作に関する知見を基に、東北に農事試験場を設計した史実を得ていたからです。
長い歴史の中で経験的に蓄積されてきた、中国の畑作(特に小麦)の実態を、自分もこの目で見てみたいと思ったのです。


山東省の枣庄のある農村1(麦畑)


山東省の枣庄のある農村2(麦畑)


泊めて頂いた学生の親戚宅


学生のお母さんが我々が来る前日に町まで買い物に出かけて、準備してくれた昼ごはん


小高い丘から見た農村と集落


一緒に行った学生たち(二列目のもっとも左が招いてくれた学生)



色々と見学して一番思ったことは、中国山東省の農村に関しては、農業を行う際、かなり農業用水の問題が厳しい環境にあるということでした。
これは日本で収集した資料(産業科学研究所の研究者の回顧録)の中にも出てきていましたが、やはりそうなのだと実感しました。
現に、シャワーが当たり前にあるという生活環境でないため、近所には公共浴場があったり、ここの地域では生活用水もかなり大切に使っていました。
よって、農業用水は川から引く以外は、自然の雨にまかせるということで、そうした環境でも農作物がきちんと育つような工夫、しかけがあることも分かりました。

これは長い経験からの知恵が結集したたまものだと言えるでしょう。
こうした中国の農民たちの畑作の知恵・技術を戦時中の日本の農業研究者や技術者達は学び、或いは、強い影響を受けた者もいたというわけです。

そう考えると、現在の歴史研究では、特に近代以降、日本から中国への農業技術の移入ばかりが強調されがちですが、このような流れを見直すことも必要であることに気づきます。
戦時中から戦後の日中関係において、農業技術を軸にしてみた時、色々な切り口で新しい知見を生み出すことが可能であると、今回の旅行を通じて再認識しました。



最後になりますが、今回出かけた山東省枣庄は台児荘の戦いがあった場所でもあり、立派な抗日戦争記念館や史跡が複数立てられていました。
徐州作戦のきっかけになったともされるこの戦いは、中国側の「抗日戦争以来の初の大勝利」とされ、歴史教科書には欠かせない歴史事実の一つとなっています。
一方、日本の歴史教科書では、恐らくこの戦いが出てくることはありません。

実際、夜学生の自宅で妹さん(中学生)が学ぶ歴史教科書を見せてもらいましたが、そこにはこの戦いがかなり詳しく紹介されていました。
近代以降の日中両国が関わる歴史をどの側面から見るのか、歴史叙述の多様さと難しさを再確認した次第です。

3月22日-3月31日のこと(中国での日誌として)

2015年04月01日 20時42分19秒 | とりあえず日記
今日は久々の更新。
ここまでの日々を日記形式で更新。

3月22日(日)
この日は山東師範大学(長清キャンパス)へ。
師範大と国際交流基金が関わる桜の植樹式に参加するため。
基金の日中交流センター所長、阿南惟茂氏も参加されていた。
阿南氏といえば、元駐中国大使として著名であり、外務省のチャイナスクールの代表的人物。
昼食も偶々同じ部屋に招いて頂き、名刺交換し、暫し歓談することができた。
午後は阿南氏の講演と、日本人と中国人学生との交流会。
学生たちは講演会より、こうした交流会が好きである。

夜は自宅に戻って、翌日以降の授業準備など。


3月23日(月)
この日は3コマ(90分)の授業。
・・・の予定だったが、午後の授業は急用で休講とし、山東師範大学(本部キャンパス)へ。
途中、北京外大の院生になった元教え子から連絡が入る。
北京の外交部档案館の現状がどうなっているのか、その様子を北京の学生に代理で聞いてもらっていたのが、
やはり以前と同様、「システムの調整中」で、閲覧可能な資料は限定されているとのこと。
「公開がいつかは未定」という返事も以前と同じ。

そのまま夕方になり、夜は夢三郎で夕食。
そこのバイトの女子学生は山東大学日本語科の学生たちで、帰り際に少し日本語で話す。
明るくて素直そうな学生たち。


3月24日(火)
この日は午後に2コマ。
午前は研究論文を読み進める。
三年生の小論文と、二年生の日本社会と文化の授業。
三年生は去年授業を持っておらず、かれらとなかなか関わっていなかったので、授業後なども私と日本語で話したい学生を集め、
一緒に次の授業までの20分ほどを費やすようにしている。
話して感じるのは、学生たちはコミュニケーションはとれるのだが、敬語や丁寧語が十分に使えていないという点。

今後の課題である。
夜は自宅で仕事の続き。


3月25日(水)
この日は午前だけ2コマの授業。
本来、3コマ授業の日だったが、午後の授業を青空授業とし、学生達と一緒に桜を実際に見に行く計画を立てた(それを27日に実施)。
なお、この大学では外国人教員の場合、時折外で授業を行うことが認められるなど、融通が利くのがよい。
ちょうど授業で桜・梅・桃の違いを調べさせていたところだったので、よい機会と考えて計画した。

空いた午後の時間は仕事や論文購読で費やす。


3月26日(木)
外部出講の日。
ある課題に対して学生発表をさせたのが、全体的には結構きちんと準備しているなという印象。
また、発表内容の構成もそれなりに順序立てられていたので、聞きやすい内容だった。
もちろん、授業直前になって準備したような発表もあったが、それはどの大学でもそう(苦笑)

授業後は家に戻って、早速、来週以降の授業準備。
今学期もどんどん授業準備をしていかないと追いつかない。


3月27日(金)
一日オフの日だが、朝から二年生達と一緒に桜を見に市内へ(25日の代講)。
水曜日午後の授業の代講という位置づけなのだが、本来90分の授業が約6時間にも及んだ。
市内の泉城公園の桜はちょうど満開で、目で見て梅や桃と識別させる良い機会になった。
もっとも、学生たちは自分撮りに夢中になっていて、授業の趣旨を忘れている者も・・・。

帰りに和谐広場で夕食をとり、帰宅してからは仕事。


3月28日(土)
一日自宅にこもって、午前は授業準備。
そして、午後は研究論文・関係資料を読む。
夕方から学校の日本語コーナーに顔を出す。
帰宅後は仕事の続き。


3月29日(日)
午前はずっと、第二専門で日本語を学ぶ学生を対象にした授業。
受講生は日本語科以外の学生達だが、かれらはまだ初級から中級前なので日本語を聞き取ることはできない。
前学期は通訳する学生に来てもらって授業を進めていたが、今学期は基本的に一人で授業を進めることに。
中国語(60%)と日本語(40%)を使い分けながら、基礎的な文法を教えていく。
授業では前半は文法を教え、休憩を挟んだ後半はそれを実際に使いこなして会話、作文をさせるようにしている。
日曜にも関わらず、毎回、学生達は結構一生懸命やっている。

昼を学生達と一緒に近所の韓国料理店で済ませてから、帰宅して仕事の続き。
夜は家族とスカイプ。


3月30日(月)
これ以降は、先週と同じようなサイクルなので大半を省略。
授業3コマ(90分)の日。


3月31日(火)
授業2コマの日。


4月1日(水)
授業3コマの日。