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生活保護を

2012-03-31 21:32:13 | Weblog

 生活保護を受けている人のことを批判する人達がネットでは大勢いるが。理由は、生活保護を受給していることではなくて。生活保護を受けているにも関わらず、『金額が少ない』という人が大勢いるから、普通に働いている人達は文句言うのだと思う。『生活保護を受けられてなんてありがたいのだろう』という態度だったら、多分、その人達のことを批判する人は少なくなると思う。

 働いている人達は思うのだよね。『働かないで、収入を得るなんて、なんて、恵まれた環境にいるのか、と言うことを自覚しなさい』と。でも、生活保護を無職のまま長期間受け取っている人達にはそれが分からない。で、『生活保護は金額が少ない』と言って文句を言う。で、普通に働いている人達は、それに対して、怒りを感じるということで。生活保護を受給している事実にではなく、生活保護を受給しているにも関わらず、不平不満を言う態度に対して。

 障害者でも、生活保護を受給している人に対して怒っている人がいるものね。『生活保護を受給している人達は、「お金がない。お金がない」と言って、少ない給料ながらに働いている私に対して、言ってくる。そして、結局、私が彼らにおごる羽目になる。だからもう、生活保護を受給している人達とは付き合わない』と言って。

 保護が必要な人達はいる。しかし、感謝の心を忘れては人間としてはダメだと思う。でも、長期的に無職のまま生活保護を受けていると、その感謝の念が消えていく。それが問題だと思う。

 何で、不平不満の人がいるのだろう。そういう人達には、『世界にはもっと不幸な人達がいる』という言葉は届かない。『戦争がない国に生まれただけ、幸せだと思わないと』という言葉は届かない。大したことではないのに。重要な不幸な目にあっているかのように言う人達がいる。本当は幸福を数え上げればきりがない。『お父さんが生きてくれてありがとう』『今まで、育ててくれてありがとう』と。

 誰だって、自分一人の力で、大人になった人はいないと思う。でも、なぜか、人からの願いを聞くことを嫌がる人がいる。誰も一人の力では、生まれてこられなかったし、多分、一人の力でも死ねない。一人で、孤独死すると、結局、警察等に迷惑が掛かるだけ。結局、自分の生も、自分の死も、自分のみでは始末が付けられない。

 どんなに知識があっても。その知識の元に生きることが出来なければ、その知識は単なるガラクタと同じである。知識は、その知識の元に生きることによって、人生において、その知識を得た価値があるのだと思う。引きこもって、知識だけ増えても、その知識は本当にその人が実感する知識なのかは疑わしいと思う。

 10年ほど引きこもっている人達の問題は。昔した、親がその人にした悪いことについて、ずっと、思い続けていることだと思う。社会に出ている人達は、その人の親がとても悪い人であったとしても、どんどん新しい情報が入ってくるから、10年ほど前の親に関する悪い行為は、自分の中で、下の方に消えてってしまう。でも、引きこもっている人達は、新しい情報が上書きされていかないから、いつまでも、10年ほど前にした親の悪い行為について、ずっと覚えていて、それに対して、怒りを感じてしまう。

 生活保護も本来、長期的に受け続けるということは、本人にとっては、不幸である。情報が上書きされていかないから。

 経験にはお金に変えられない価値があると思うけれどもね。

 生活保護受給者で、生活保護を抜け出したい人は、『生活保護を抜け出すために、生活保護受給額以上の賃金をくれる正社員の仕事がしたい』と希望する。で、そのまま、5年経ってしまった人とかがいる。そういう場合は、生活保護から抜け出せなくても、アルバイトした方が良いと思うのだが。しかし、その人にはそういう考えが浮かばないでいるようであるということで。本当は、社会と接触を持つことは、お金に変えられない価値があるのに。

 『損得だけで、生活保護を受けるのは、止めた方が良い。一見すると、生活保護を受けた方が生活レベルは上がる人でも。長期的に見れば、生活は苦しくなる(水準は下がる)』と警告している人がいる。

 結局、問題は、価値観が世間とずれていってしまうことにあると思う。人間金だけじゃないのだよ。お金はあっても、本当は働けるなら、働いた方がずっと良い。社会と繋がることには、お金では計れない価値があると思う。「お金は単なる道具だから」。

 関係のない話だが。サザエさんの漫画が誕生した頃は、定年は55歳で。平均寿命は58歳だったそうである。初めて年金制度というものが生まれた、1940年より少し前(正確には忘れたが)の年金制度は、平均寿命+3歳以上にならないと年金がもらえなかったそうである。その情報を書いているその本の作者の人は書いています。『この年金制度は今の基準では年金制度には値しない』と。しかし、本来、年金制度とはそうあるべきではないか、と私は思う。働けるうちに、『はい、あなたは定年です』とか言って、年金を配るのはおかしいと思う。“働けない年齢になってから”年金を配るべきではないかと。本来的には。そして、将来的には、(平均寿命が、125歳以上になるかも知れない近未来においては)多分、そうならざるを得ないのではないか、と。まあ、そういう時代においては、『仕事をしたい人だけ仕事をすれば良い』という時代になっているかも知れないが。『好きなことを仕事にしなさい』というのは、本来そういう意味だと思う。『働けるまで、働きたいという仕事に就きなさい』というのが、その言葉の目的とすることだと思う。1発屋で、『3億宝くじで当てたら、もう仕事を辞める』という仕事は、本来その人が就くべき仕事ではないと思う。『働けるうちは、働きたい』と考えてしまう仕事に就くのが、本来人類が目指すべき道だと思う。そう考えると、『3億宝くじで当てたら』の人がいかに多いかということについて、考えざるを得ないが。

 

 うーん。結局、こういうことって説明するのが、難しいのだよな。

 生活保護受給者の人は、今、10万円生活保護費もらっているのに。5万稼ぐために、働くことは、負けだと思う心情がある。まあ、特に、勤労世代で、健康で、仕事が決まらなくて、生活保護受けている人達なんかは。多分、仕事で辛い思い出があるだろうから。でも、本当は、その辛い思いをすることに価値があるのだよ。『誰かから怒られる』というのは、自分と違う他者がいるという証である。長期的にうつ病で、一人で、生活保護を受けている人の中には、「酔って、人に迷惑をかけない」ということすら、分からなくなる人がいるらしい、と。自分に対する批判者が全くいないのは不幸なことである。人間関係には、もちろん、不利益と利益その両方が存在する。人間関係が切れるということは、批判もない限りに、愛もない。それが最大の問題である。あなたに対して怒ってくる人がいたとして。その怒りに、全く愛がないなんて事はありえない。マザー・テレサは、『愛の対義語は無関心である』と言っている。そして、『先進国では無関心という孤独のため人が死にます』と言っている。あなたに対して怒ってくる相手がいたとしても。その怒りに全く愛情が含まれていないということはあり得ないのである。何の人間関係もなしに、一人きりで生活保護を受けるということは、怒りを向けられることはないかも知れないが、愛をも受け取ることもないのである。それが問題である。人間の生きる原動力は愛だから。

 

 小学校時代のある先生は確か、『大人になったら、誰も怒ってくれないから、子どものうちに怒られておきなさい』と言っていたが。その当時も変な言葉だと思ったが。今でもそう思うが。妻からいつも怒られていても、幸福感を感じて生きている夫は、大勢いる。自分に対して怒ってくる人が、自分に対して、愛を感じていないのだ、と言うことはない。怒られて、愛情を感じる人は大勢いる。

 『批判者を大事にしなさい』と思う。結局、批判者は、自分に対して、何らかの関心を寄せているという証なのだから。

 “いつも怒られてばかりいる”のは、幸福な事である。何の期待も寄せず、何の関心もなければ、誰もあなたに対して、怒ってくるようなことはないであろうから。

 

 ちなみに。以前、『批判者を歓迎する世の中でなければならない』という題の文章を書いた気がするが。個人の場合においても、批判を避ける事は出来ないのだろうな。「すべての人から、称賛される人は誰もいない」と。この当たり前の真実が分からない人もいるようであるが。『光の中にいた光が言った。「神よ闇とはどんなものですか」と。そして光は、闇の中に行った。光は言った。「神よ、どうして私を見捨てたのですか」と。神は言う。「あなた方が神の恩寵を失った事など一度もないよ」』と。

 批判者がいなければ、自分がどういう考えを持っているか分からない。批判者とは他者の事でもある。他者がいなければ、自己も分からない。他者との関係性、比較の中に自己がいる。『他者がいなければ、自己も無だと言う事を覚えておきなさい』と。『神との対話』の神は言う。

 

 『同居している家族の面倒を見るのがしんどい』って。「自分の事で精いっぱいなぐらい状態が悪いのか?」って。

 結局、人生とは、他者との関係性の中にしかないであろう。事件・事故、自分の身に降りかかってくる事はたくさんあるであろう。でも、「あなたなんか、家を出て行って、一人で生活保護を受けろ。葬式があっても、帰ってくるな」とか言われた方が、人生何のために生きているか分からない。

 

 生活保護って何なのだろうと思う。一人で生活保護を受けたら、楽で良い。でも、それは、生活保護を受ける前の段階だから思う事で。受けてみたら、全然楽しくない。いや、本人は楽しいと思っているかも知れないけれども。生活保護費から、月2万円のソーシャルゲームにお金を払うって。馬鹿げている。それについて批判する人達は、「生活保護費から、その2万円引け」というけれども。ある所にお金を使っているということは、ある所に使うべきお金を削っているということである。結局、恐らく、確実にこの人は、食費を削っているであろう。外食費を削るのは問題ないが。食材費を削るのは、どう考えても、将来のためには良くない。本人の為にならない。

 

 発展途上国に対するNGO支援も、生活保護制度も結局、問題点は一緒の気がする。「命だけ助けている」。生活保護の社会的意義は、「餓死を無くす」とか、「自殺をさせない」とかそんな所だと思う。でも、NGO支援も永遠にし続けなければいけないし。生活保護も、本人の自立する意欲を奪っている。大体、一人きりで、生活保護を受けて、何の為の人生なのか。

 

 10万円生活保護費もらっていても、生活保護から抜け出せるだけの給料をもらえる仕事が出来そうもなかったら。月5万円の仕事でもする事を勧めるが。生活保護受給者はそれをしない。「働いたら負け」だと思っている。その考えこそが、自分が不幸になる最大の原因であると気がつかずに。結局、「働いたら負け」の心情には、「苦労して働くのが嫌だ」という心情があり、結局の所は、「人から、批判されるのが嫌だ」という心情がある。生きていく上では批判は避けて通る事が出来ないのに。その批判が受けいれられないのだよね。一人で生活保護を受けている人達には。

 

 しかし、いわゆる、“一般常識”というのも、知識の集大成ではないか、と思う。「常識を知らない」のは、単純に「非常識だ」というだけではなく、結局の所は、「新聞を読まない」からであり、社会の事に対して、関心がないからだと思う。有名大学に行っていても、“一般常識”を知らない人達がいる。それは、結局の所、“一般常識”も、知識の集大成だからだと思う。数学だけ興味があって、社会の事に対して無関心なら、学校の成績は良くても、“一般常識”を知らない。そういう人がいるのだね、という感じ。

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