ネットで熊森批判をしているとこういう発言にも出くわすことがあります。たとえばこんな売り言葉。
以下引用
ツイッター内で色々と意見を交わされているけど、実際のところフィールドに出てツキノワグマに調査や観察をしたり身近にツキノワグマが生息している環境にいる人は、どのくらいいるんだろう・・・本で読んだ知識や机上の考えなら誰でも言える・・。
引用終わり
うん、そうか。あなたはそう考えるんですね。じゃあ、あなたにやってもらいましょう。質としては僕が現在やっているもの以上が最低ラインということで。本で読んだ知識や机上の考えならだれでも言えるというお考えですから、僕程度の文章を書くくらい鼻歌交じりで出来るのでしょう。これだけ言っているのだからできないわけがないですよね。ネットでいろいろやってる身としては、言葉の是非はともかくこう言われるとピリッときますね。たとえて言うなら、ニコ動のゲームのタイムアタック動画などにつくコメントに「これくらいオレでもできる」というのがたまにあります。それに対して「じゃあ、お前が動画あげろ」、「名人様はお帰りください」と返されることが多々あります。ま、この人は自称名人様や自意識過剰でないことを祈りますが。
一方、こちらは買わなくてもいいものを買ってしまった事例。
ツキノワグマ実験プロジェクトのドングリ受け入れします
いやいや、そんなことしなくていいでしょ。なんでわざわざやる必要があるのかと。まぁ、確かに一部の人にはこうでもしないと届かないかもしれませんが、だからといって植生や他の生物のことを無視していいという道理もないでしょう。というか、熊森に取り込まれた人間なら、やり方が間違ってるとか幾らでも自分が納得しないための理屈をひねり出すでしょうけど。何のためにやるの?対象としているものが分かるようで分かりませんね。
どうしてもやりたければ近くの山のドングリを使ってやってくださいとしか。個人的にはジョークにしても性質の悪いものと思います。
これを本気でやるつもりならば、残念ですが宮崎氏も熊森と同レベルの自然観しかお持ちでないのだなと判断せざるを得ません。ただ立ち位置が違うだけで。
上記の2人に共通するのは“体験”や“経験”というものを重視し、文献などの記述されたものへの無関心ないし軽視があげられますね。体験や経験の必要性は否定しません。そういうものがあった方が話が通じる場合もありますからね。ただ、体験にしろ文献の知識にしろどちらか片方を偏重してもう一方を軽んずるようになったらそれは危険な兆候でしょう。
以下引用
ツイッター内で色々と意見を交わされているけど、実際のところフィールドに出てツキノワグマに調査や観察をしたり身近にツキノワグマが生息している環境にいる人は、どのくらいいるんだろう・・・本で読んだ知識や机上の考えなら誰でも言える・・。
引用終わり
うん、そうか。あなたはそう考えるんですね。じゃあ、あなたにやってもらいましょう。質としては僕が現在やっているもの以上が最低ラインということで。本で読んだ知識や机上の考えならだれでも言えるというお考えですから、僕程度の文章を書くくらい鼻歌交じりで出来るのでしょう。これだけ言っているのだからできないわけがないですよね。ネットでいろいろやってる身としては、言葉の是非はともかくこう言われるとピリッときますね。たとえて言うなら、ニコ動のゲームのタイムアタック動画などにつくコメントに「これくらいオレでもできる」というのがたまにあります。それに対して「じゃあ、お前が動画あげろ」、「名人様はお帰りください」と返されることが多々あります。ま、この人は自称名人様や自意識過剰でないことを祈りますが。
一方、こちらは買わなくてもいいものを買ってしまった事例。
ツキノワグマ実験プロジェクトのドングリ受け入れします
いやいや、そんなことしなくていいでしょ。なんでわざわざやる必要があるのかと。まぁ、確かに一部の人にはこうでもしないと届かないかもしれませんが、だからといって植生や他の生物のことを無視していいという道理もないでしょう。というか、熊森に取り込まれた人間なら、やり方が間違ってるとか幾らでも自分が納得しないための理屈をひねり出すでしょうけど。何のためにやるの?対象としているものが分かるようで分かりませんね。
どうしてもやりたければ近くの山のドングリを使ってやってくださいとしか。個人的にはジョークにしても性質の悪いものと思います。
これを本気でやるつもりならば、残念ですが宮崎氏も熊森と同レベルの自然観しかお持ちでないのだなと判断せざるを得ません。ただ立ち位置が違うだけで。
上記の2人に共通するのは“体験”や“経験”というものを重視し、文献などの記述されたものへの無関心ないし軽視があげられますね。体験や経験の必要性は否定しません。そういうものがあった方が話が通じる場合もありますからね。ただ、体験にしろ文献の知識にしろどちらか片方を偏重してもう一方を軽んずるようになったらそれは危険な兆候でしょう。