ならなしとり

外来生物問題を主に扱います。ときどきその他のことも。このブログでは基本的に名無しさんは相手にしませんのであしからず。

教科書を読んでテストに挑め

2011-09-28 21:15:53 | 議論
 きっかけは産経新聞のこの記事。

世界遺産とトンデモ科学


「生物の同一種が同じ形態になるのは、形態形成場に時空を超えた共鳴現象が起きることによる」
十数年前に英国の生物学者ルパード・シェルドレイクが提唱した「形態形成場仮説」だ。外部の集団と教えあったり真似(まね)しあったりしなくても、どこかでいったん「形の場」ができあがれば、他の同一種は時間や空間を超えた「形の共鳴」というプロセスで導かれていくという仮説である。

 例えばロンドンの実験室でラットの集団にある行動パターンを学習させると、まったく交流のないニューヨークの別のラットはもっと短い期間で身につけるという。これは進化には科学の力をもってしても解き明かすことができぬ、何やら大きな力が働いているというオカルト風な発想であり、このためシェルドレイクの著作は科学誌から「焚書(ふんしょ)もの」と糾弾された。しかしこの仮説、小笠原の固有種をみるとあながちホラ話と決め付けられないような気もする。


・・・・・・わけがわからないよ。小笠原と同じく大陸から離れた海洋の島であるガラパゴスでダーウィンが進化論のヒントを得たのは有名な話ですが(ほかにも育種学などからもヒントは得ている)。これくらいは進化生物学の初歩的な教科書に書いてあることなんですが・・・・・・。
 僕自身が常々考えていることに「何か問題に取り組むなら、まずその分野の大学1年レベルの教科書を読め」というのがあります。特に科学的なことなら、誰もが論文を読める必要はなくて、大概の事は教科書にある基本を押さえておけばなんとかなります。僕の経験も含めた身近な例を挙げれば熊森や池田、武田に代表される疑似専門家たちの言うことは基礎を抑えておけば最低限、違和感くらいは得られます。
無論、教科書を読んでなお、おかしな方に向かう人もいますので、基準としては目の粗いところはあります。とはいえ、教科書も読まずにおかしな情報に嵌る人の方が多いので、教科書で基礎を抑える時点でかなりのアドバンテージになります。
逆に言えば、教科書を読もうとするかはあなたのやる気を可視化する方法となります。
 ここで一つ問題があります。それは「あなたの妥当性は誰が保証するんですか?」ということです。自分で自分のことを妥当と思っていても、それ単体ではどうしようもないですよね。妥当な考えと自分で思っていても、他人からは妄想にしか見えないかもしれない。他者からテスト(評価)されることで初めて集団(社会)内での位置づけが決まりますよね。
僕にしてもブログに何か書くというのは自分の発言の確からしさを読者にチェックしてもらおうとしているわけで(たとえばこの前のGMO記事とか)。その結果としてここがおかしいんじゃないのと言われることもありますが、逆にそういう評価(否定にしろ肯定にしろ)をされないとテストの意味がありません。
科学なんてテストの連続で生き残った仮説が現状の主流なわけで。テスト(論文、実験を含む行動に対する妥当性、説明能力の評価)をするってのは科学の根幹ではないでしょうか?
教科書を読まずにテストに挑むと引用した記事のようになるわけで、悲惨な結果になりたくなければ教科書を読んだ方がいくらかましな見込みがありますね。




・・・・・・ここに書いたことって誰もが学生時代にやることやん。

遺伝子組換え反対理由に遺伝子汚染を持ち出す疑問

2011-09-21 20:48:41 | 遺伝的多様性
 ひさびさに記事を書く気がしますし、なにか大切なことを忘れている気がしますが置いておいてと・・・(いいのか?)。
 「もうダマされないための「科学」講義」という本を読んで考えたことです。この本は、震災以降の科学と人との関係を考えていこうという趣旨で、執筆陣も(約1名除き)非常に豪華です。僕が今回書くのは、著者の一人である松永氏の遺伝子組換え植物反対に対する見解を読んで考えたことです。
さすがに鵜呑みもどうだろうと思い、反対派の見解も探して読んでみたのですが、やっぱり片手落ちの印象を受けました。
それは、“遺伝子汚染”を問題にしているのに“遺伝子組換え作物との交雑のみ”問題にしているからです。
ここを見ている人には今更かもしれませんが、遺伝子汚染について簡単に説明しておきます。遺伝子汚染というのは交配可能な種、亜種が人間によって持ち込まれることで起きる外来生物問題の一種。ちなみに“同種でも生息地が隔離されて交配が無い場合”に人間が別々の生息地の個体を持ち込んで交配しても遺伝子汚染。
次に、遺伝子汚染がなぜ問題か。僕が重要度が高いと考えているのが、生物種の歴史を攪乱するからです。生物多様性というのは進化の歴史の中でできたもので、人間の世界で例えるなら、奈良の大仏やキトラ古墳みたいなものです。なくなったら取り返しのつかないものです。観念的なものを省いて、もっと具体的に言えば、遺伝子汚染で生物は絶滅します。たとえばニホンバラタナゴとタイリクバラタナゴなどのように。
では、遺伝子汚染に対して、本文中で松永氏が言うように「種や個体群の存続に影響を与えなければ影響するとは言えない(梨の意訳)」というのはもっともではありますが、難しい。影響が出るまで何世代あるいは環境が変化して初めて影響が出るということも考えられるので、すぐに目に見える形で現れるとは限らない。そもそも影響が確認されるころには手遅れと言えるほどに危機的な状況に置かれることが多々ありますから、原則的には、遺伝子汚染を起こさないか、早期に駆除なり隔離なりの対応をした方が絶滅につながる不可逆的な影響を抑えられます。
そして、遺伝子組換え反対の理由に遺伝子攪乱を用いることについてです。僕からすると、遺伝子汚染を問題にするなら“組換えのみ”をターゲットにする理由がよくわかりません。
遺伝子汚染が問題にされるのはその種(個体群)の固有性や歴史性が攪乱されるからで、攪乱の源が遺伝子組換えであろうがなかろうが関係ありません。事実、外来生物問題の多くでは遺伝子組換えでない生物による遺伝子汚染もまた問題になっています。
遺伝子汚染を問題とするならば、非組換えで起きる交雑についても問題としなければ片手落ちでしょう。よく持ち出されるアブラナにしても、アブラナ科の植物は別種間でも容易に交雑します。容易に組換え作物と交雑してしまう環境では、品種などの異なる非組換え作物とも容易に交雑してしまうでしょう。
本当に在来種(品種)の保全をする気があるのか、そもそも“何を何のために守りたい”のかも遺伝子汚染を持ち出す人からは読み取ることができません。 

・言いたいことを3行でまとめてみた
遺伝子汚染に対して、組換え、非組換えで対応を変える論理的な理由はない
組換えのみに絞るのは問題を矮小化させてしまうのではないか?
何を何のために守りたいのか?という部分が曖昧になっている

参考文献
「もうダマされないための「科学」講義」
広がる遺伝子汚染 誰が保証できる「非遺伝子組換え」