きっかけは産経新聞のこの記事。
世界遺産とトンデモ科学
・・・・・・わけがわからないよ。小笠原と同じく大陸から離れた海洋の島であるガラパゴスでダーウィンが進化論のヒントを得たのは有名な話ですが(ほかにも育種学などからもヒントは得ている)。これくらいは進化生物学の初歩的な教科書に書いてあることなんですが・・・・・・。
僕自身が常々考えていることに「何か問題に取り組むなら、まずその分野の大学1年レベルの教科書を読め」というのがあります。特に科学的なことなら、誰もが論文を読める必要はなくて、大概の事は教科書にある基本を押さえておけばなんとかなります。僕の経験も含めた身近な例を挙げれば熊森や池田、武田に代表される疑似専門家たちの言うことは基礎を抑えておけば最低限、違和感くらいは得られます。
無論、教科書を読んでなお、おかしな方に向かう人もいますので、基準としては目の粗いところはあります。とはいえ、教科書も読まずにおかしな情報に嵌る人の方が多いので、教科書で基礎を抑える時点でかなりのアドバンテージになります。
逆に言えば、教科書を読もうとするかはあなたのやる気を可視化する方法となります。
ここで一つ問題があります。それは「あなたの妥当性は誰が保証するんですか?」ということです。自分で自分のことを妥当と思っていても、それ単体ではどうしようもないですよね。妥当な考えと自分で思っていても、他人からは妄想にしか見えないかもしれない。他者からテスト(評価)されることで初めて集団(社会)内での位置づけが決まりますよね。
僕にしてもブログに何か書くというのは自分の発言の確からしさを読者にチェックしてもらおうとしているわけで(たとえばこの前のGMO記事とか)。その結果としてここがおかしいんじゃないのと言われることもありますが、逆にそういう評価(否定にしろ肯定にしろ)をされないとテストの意味がありません。
科学なんてテストの連続で生き残った仮説が現状の主流なわけで。テスト(論文、実験を含む行動に対する妥当性、説明能力の評価)をするってのは科学の根幹ではないでしょうか?
教科書を読まずにテストに挑むと引用した記事のようになるわけで、悲惨な結果になりたくなければ教科書を読んだ方がいくらかましな見込みがありますね。
・・・・・・ここに書いたことって誰もが学生時代にやることやん。
世界遺産とトンデモ科学
「生物の同一種が同じ形態になるのは、形態形成場に時空を超えた共鳴現象が起きることによる」
十数年前に英国の生物学者ルパード・シェルドレイクが提唱した「形態形成場仮説」だ。外部の集団と教えあったり真似(まね)しあったりしなくても、どこかでいったん「形の場」ができあがれば、他の同一種は時間や空間を超えた「形の共鳴」というプロセスで導かれていくという仮説である。
例えばロンドンの実験室でラットの集団にある行動パターンを学習させると、まったく交流のないニューヨークの別のラットはもっと短い期間で身につけるという。これは進化には科学の力をもってしても解き明かすことができぬ、何やら大きな力が働いているというオカルト風な発想であり、このためシェルドレイクの著作は科学誌から「焚書(ふんしょ)もの」と糾弾された。しかしこの仮説、小笠原の固有種をみるとあながちホラ話と決め付けられないような気もする。
・・・・・・わけがわからないよ。小笠原と同じく大陸から離れた海洋の島であるガラパゴスでダーウィンが進化論のヒントを得たのは有名な話ですが(ほかにも育種学などからもヒントは得ている)。これくらいは進化生物学の初歩的な教科書に書いてあることなんですが・・・・・・。
僕自身が常々考えていることに「何か問題に取り組むなら、まずその分野の大学1年レベルの教科書を読め」というのがあります。特に科学的なことなら、誰もが論文を読める必要はなくて、大概の事は教科書にある基本を押さえておけばなんとかなります。僕の経験も含めた身近な例を挙げれば熊森や池田、武田に代表される疑似専門家たちの言うことは基礎を抑えておけば最低限、違和感くらいは得られます。
無論、教科書を読んでなお、おかしな方に向かう人もいますので、基準としては目の粗いところはあります。とはいえ、教科書も読まずにおかしな情報に嵌る人の方が多いので、教科書で基礎を抑える時点でかなりのアドバンテージになります。
逆に言えば、教科書を読もうとするかはあなたのやる気を可視化する方法となります。
ここで一つ問題があります。それは「あなたの妥当性は誰が保証するんですか?」ということです。自分で自分のことを妥当と思っていても、それ単体ではどうしようもないですよね。妥当な考えと自分で思っていても、他人からは妄想にしか見えないかもしれない。他者からテスト(評価)されることで初めて集団(社会)内での位置づけが決まりますよね。
僕にしてもブログに何か書くというのは自分の発言の確からしさを読者にチェックしてもらおうとしているわけで(たとえばこの前のGMO記事とか)。その結果としてここがおかしいんじゃないのと言われることもありますが、逆にそういう評価(否定にしろ肯定にしろ)をされないとテストの意味がありません。
科学なんてテストの連続で生き残った仮説が現状の主流なわけで。テスト(論文、実験を含む行動に対する妥当性、説明能力の評価)をするってのは科学の根幹ではないでしょうか?
教科書を読まずにテストに挑むと引用した記事のようになるわけで、悲惨な結果になりたくなければ教科書を読んだ方がいくらかましな見込みがありますね。
・・・・・・ここに書いたことって誰もが学生時代にやることやん。