ならなしとり

外来生物問題を主に扱います。ときどきその他のことも。このブログでは基本的に名無しさんは相手にしませんのであしからず。

ならなしとり止めます

2012-03-31 13:29:11 | Weblog
 突然ですが。このブログを閉めます。去年の8月からモチベーションが低下していたのもありますし、ネットに疲れたのもありますが、身内が倒れて要介護になったもので。
まだ、対熊森用の資料価値はあるようですし、ブログそのものは残しますが、gooで新しい記事は書かないでしょうね。このブログで広がった人脈もあるので無駄ではなかったです。始めるとしたらどこか別の場所で落ちついたころに始めます。
4年のご愛顧ありがとうございました。

20年近く青写真無し

2012-03-30 09:24:34 | 再導入
 先月末に長野県でオオカミ再導入に関して答弁がありました。オオカミ再導入に関われという質問に対して知事の答えはシンプルでした。

「オオカミの一つの群れが、生息に必要な面積は県の10分の1に当たる広さ。現実として難しい」
(毎日新聞 阿部知事「オオカミ導入困難」より引用)


知事の対応は僕から見てもシンプルで隙のない回答でした。これに対して案の定、オオカミ協会は噛みつきました。

長野県議会一般質問で「オオカミ再導入」

 知事の回答は、型どおりの反対論です。


噛みつくのもその手筋も僕の想定の範囲内。というか想定よりレベルが低かった。
知事のシンプルな回答に対して型どおりの反論とレッテルを貼って何一つまともな反論ができないのは逆に言えばオオカミ協会の勉強会など型どおりの反論程度で片付く代物であったということ。やってることの自己否定。そもそも1993年に日本オオカミ協会が発足してかれこれ20年近く経ちますが、その間に存続可能な個体数の確保や再導入にかかる資金の目算などの具体的な数字が出てこないのはどういうことですか?行政や企業が重大な課題としていることについて20年近く先送りにしていたら批判を免れないでしょうね。多くの人を巻き込むのに具体的な筋道が何一つないというのは巻き込む人たちに対して失礼ではないのかな。
はっきり言って批判側が論点整理して導入条件煮詰めてるとか明らかにおかしいだろ。
まぁ構わんよ。存分に吠えなさい。具体的なことが言えずに吠えてるうちはまだ可愛いから。可愛いワンコでいてください。

ニセ科学批判界隈が気持ち悪い

2012-03-20 12:43:14 | Weblog
 思ったことをぶつけてる文です。読みにくいと思ったら戻ればいいと思うよ。

o(^-^o)(o^-^)o 武田邦彦が教えるステルスマーケティング O(≧▽≦)O

これを見て、証拠が示されているわけでもないのに武田邦彦が教えるステマと断じているのが酷く醜く見えた。これって宣伝してるのが武田邦彦と強い関わりがある人たちって証拠があるのかね?ここのブクマで乗っかっていい気になってるニセ科学批判界隈の人をいくらか見たけど、「お前ら裏取りはどうした?」。これをたとえば菊池氏の本を良いよと薦めている人がいたとしてそれも菊池氏のステマなのかな?このまとめの理路ならば。よく言っても看板に偽りありだし、そうでなければ自分たちが批判しているものと同レベルに堕ちた下衆なやり方だけれど。

もう1月近くもやもやしているもの。

専門家と素人のあいだに


この梨さんによる素晴らしい反論も、赤字で示した部分に見られる非専門家のどらねこが見ても理解しやすい表現には、植物や生物が意志を持って進化したかのような、目的的なニュアンスを抱きかねない表現にも見えるのだ。


知るかよ。これくらい初歩的な専門用語だググれ。
いまにして思えば、なんでこんなものに頷いていたのかわからない。
僕としては事実関係の指摘ならまぁ受け入れるのだけど、教科書レベルの内容にまで文句つけられたら出る幕無いや。一粒で何もかも摂取できるサプリメントを求められているようなものと書けば伝わるのかね。僕としてはたびたび言ってるけど、学ぶのに投資もしないのにわかりやすくしろなんていう人の要求には応えられないです。無償でそれをやれとかモンスター読者だよ。
もう一件。

ハッシュタグ「熊森協会改善案」をめぐる議論

ここで僕はしつこいくらい実効性や具体案について聞いてみた。勝ち筋がないのに他人を巻き込むのは失礼だと思ったから。
で、こういうコメントをされた。

「ニセ科学批判などどうでもいい。別に止めはしないが失敗している。」←最初にこう言う事を言ってきた人で、その後何か有効な批判なり手法なりを提示できた人がいるのだろうか?私は知らない。

これ最初に見たときほんとに愕然としたね。この人は僕のやってきたことを何一つ見てこなかったのだろうと。本人からはこの後、誤解だと逆ギレされましたが。

@MITUDON 僕が感じた違和感もそこです、有意義でないと思うなら参加しない自由もあるし、参加して有意義な方向に舵をとる自由もある、しかし発言はそのどちらとも思えませんでした。

この人もこの人で事実関係はスルーするくせに個人の価値判断に喰い付くあたり排除したい理由に飢えていたのかなとも。うざかったんでしょうね。
で、いまだに僕は彼らが何か成果を上げたとか聞かないんだけど、具体論に踏み込んで話してた人を村八分にして追い出してまで理想を求めたんだから何か成果は上げたんだよね?具体論まとめるとか。そうでなければ善行自慰と嗤うが。他人が公の場で自慰してるの見ると無性に腹が立つんだが。当時の僕の中で価値がある人たちだったからあえて関わってたけど、おせっかいはお気に召さなかったらしい。よくよく見なおせば議論のための議論と言う一番無価値なモノに関わる僕の見る目もなかったということだけどね。
こういうことが積み重なって、僕は仄めかしてなにかを言う人とは相性が最悪だと悟りました。こういう人の相手は疲れます。本人たちがわかってるかどうか知らんが関わっているとどんどんやる気が削がれる。はっきり言ってニセ科学批判は事実関係に厳密かと議論のルールを守ってるかどうかくらいで線引きしときゃいいとは思うけど、ずいぶん前から批判対象に寄り添うことを言外に強いるようになって息苦しくなりました。あそこら辺の同調圧にはもうついていけないです。

追記3/22
リンク先が間違っていたのを訂正

「福岡伸一の~」についてはいま読み返しても、当時どころか今なおあれ以上のものが書けるとは思えないです。そもそも福岡伸一に騙されるような人間があれより堅い文に興味を示すとも思えない。最新の論文ではなく教科書レベルの表現で誤解を招くと言われたところで理不尽しか感じません。

徒労

2012-03-16 10:42:38 | 議論
 この前の記事にこういう反応が返ってきました。ご丁寧にはてなidコールの呼び出し付きで。

誰が「正しく怖がれ」といったのかという問題

誠意

これだけでもコメント欄を含め相当長いので読むには根気が要ります。時間をどぶに捨てる覚悟のある方だけどうぞ。

id:salmo氏はわかりにくい比喩と評しているが、むしろ比喩だからこそ現実の何を置きかえたものか理解を要求されるため、わかりにくく感じているのではないかと思う。


そもそも、わかりにくいないし誤読されまくる比喩ってなんの価値があるのでしょうね?端的に比喩として失敗ということでしょうに。わかりにくいだけならまだしも現実にあてはめようとすると具体的にどこを指すのか玉虫色の解釈ができるようではモノサシとして役に立たないんじゃないですかね。 僕の指摘のキモは「その言葉の指す範囲が不明瞭で現実のどこに対応しているのか分からない」に尽きます。誤読だなんだの言ってる割にはあの文章からは現実におけるこの範囲であることが厳密に示されているとか論証するわけでもなくひたすら比喩としては面白いだのいったい何がしたいのか。


たとえば「正しく怖がる」の発案者が菊池教授ではないこと、原義の御用学者が多用する表現と菊池教授自身が語っていたこと、それぞれ改変ジョークそのものとは別個に指摘できることです。前者は「正しく怖がれ」を肯定しつつDr-Seton氏を批判した言説が「正しく怖がれ」の用法を一部領域のそれでしか知らなかった証拠ですし、後者は「正しく怖がれ」が御用視されやすい背景があることを一人の科学者が認めたということです。
つまり「正しく怖がれ」という発言者のモデルを菊池教授と特定することは早計にすぎるだろうし、菊池教授個人の態度で「正しく怖がれ」論全般を擁護するのは無理筋ではないか、ということです。

そして雑誌記事の例を示し、改変ジョーク以上に戯画的で見当違いな要求をつきつける「正しく怖がれ」論者が存在することや、その論者が一定の影響力を持っているだろうことも、私は指摘できたつもりです。


ああ、うん。つもりでしかないですね。
説明するまでもないかもしれないけど、DHMOってニセ科学批判とかで有名な逸話。元の記事からしてDHMOネタを持ち出しておいて、その批判対象にニセ科学批判界隈やそこの有名人を連想しない方がよほど文脈読めてないでしょうね。他の人の事例を挙げてはいますが、それで?としか言いようがないです。むしろ発端となった記事の切り分けが好意的に見ても大雑把な証拠にしかならないでしょう。「正しく怖がる」というワードだけで切り取ればいろいろな立場がごちゃ混ぜになるのですから。


間違いが厳然としてある場合、批判してはならないとはいえませんよね。せいぜい、その間違った論者を特定できるように記述するべき、つまり批判を一部にとどめるべき、といえる程度です。
そして、不明瞭という問題はあったとしても現実の一部を切り取った表現であるということは、改変ジョークに風刺として一定の意味があることを示し、私が前回エントリで書いた「一面しか切り取っていないこと自体は何も悪くない。もともと寓話とはそういうものだし、究極的には全ての表現がそういうものだ」という主張に直結し、さらには過去に書いてきたドキュメンタリー感想などのエントリとも繋がっています。


その切り取り方が問題なんですけどね。どこまで当てはまるのか分からないのようなものを持ち出されても合意形成ができるとは思えない。


つまるところ私がしていることは、過去にも下記のような放射能にまつわる寓話を書いた一人としての、徹頭徹尾ポジショントークというやつです。
(中略)
>法華狼さんはシートンさんのエントリを理解できているので反論可能ってことなんですかね?

もちろん私自身の意図、ポジションとしてはそうなります。私の方が正確に改変ジョークの問題点を洗い出せる、と。むろん客観的にそうかはわかりません。


ハァ・・・・・・・。だったらあなたで一人でやってくださいな。貴方のポジショントークにこっちが付き合う義理なんてない。ポジショントークのダシに他人を使った挙句、わざわざ呼びつけてまで自己顕示するというのはよくわからないですね。正直、そんなものに他人を巻き込むなんていい迷惑だなと思います。「誠意は伝わらない」なんて言ってますけど、他人をダシにするような人間がなにおかいわんや。仮にそれを抜いても、こっちは具体論に踏み込んで論を述べているのに、一人だけのらりくらりと躱す状況でどこが“誠意”なんですかね?加えて言っておくと、徹頭徹尾、元の記事が現実のどこら辺を具体的にカバーしているのかには触れようともしないようですし、僕の最も重要な論点である「指の入ったラーメンとは何か?」は他の人に質問されても無視を貫くと。読めているというならさっさと開陳すればいいのに。
僕としてもこれ以上、この人は相手にしません。やってることがかまってちゃんと何ら変わらない。こうして返答の記事を書くこと自体、相手の自己顕示欲を満たしてやってるようなものでしょうし。今後はidコールされても無視します。この人からのコールが僕にとって有益と思えませんから。むしろ嫌がらせ。ああ、そうそう。昔、熊森関係で噛みついたのは軽率でした。そこはこちらの落ち度として謝っておきます。
ここまでグダグダ書いてきましたが、あの人たちに抱いている疑問を1行で言うと「なんでシンプルに具体例に切り込まないの?」に尽きます。
・・・・・・正直「現実をうまく切り取ってないからあれ使えないね」で済む話がなんでここまでこじれてんのかわけわかんない。

比喩なのにわかりにくい 訂正あり

2012-03-04 11:33:50 | 議論
 2月末にこのような記事が反響を呼びました。

「正しく怖れよ」な人には水を引っかけちゃいな

この記事の比喩に対して不適切という声が多数ありましたが、僕が気になったのはそこじゃないんですね。比喩というのは、“わかりやすく”するために出すもので、適切かどうかはさほど重要でない。
それよりも問題なのは“比喩なのにわかりにくい”ということ。まず「指の入ったラーメンを出した店員」は現実において誰なのか?ということ。放射性物質をまき散らしたのは国と東電に責任があることはいまさら議論の必要があるとは思えません。そういう意味では店員=国や東電であるならば一応理解できます。しかし、正しく怖がれと言っている人は国や東電ではないですよね?僕が記憶している中では、「正しく怖がれ」というフレーズを使いだしたのは菊池誠氏あたりが去年の夏ごろから使い始めたと記憶しています。しかし、菊池氏は原発推進に加担していたわけでもないし(だからエア御用なんて言われる)、被災地への補償はちゃんとやれと言っています。

つまり、言及先で水をぶっかけろというのは、実際にいるかいないかよくわからない領域(←追記にて訂正)の人であるわけですよ。それ以外の「正しく怖がれと言っている人」に対してまで水をかけろ(うちのこの記事では非難しろ、まともに取り合うなの意)というのであればそれは状況を加味しない理不尽な行為なわけです。
言及先では店員=正しく怖がれと言っている人な図式ですが、正しく怖がれと言っている人があの震災で放射性物質をまき散らしたことに加担していた事例でもあるのでしょうか?複数の立場がごちゃ混ぜにされていて実にわかりにくい。具体例の一つもあれば理解が進んだろうにと思います。
そして何よりも重大だと僕が思うのは「指の入ったラーメンとは果たして何を指しているのか?」ということです。指の入ったラーメンとはガレキを指すのか農作物なのかそれとも“被災地の人間”なのか。この比喩が現実に示す範囲も言及先では明らかにされていません。実際には被災地の人間が避難者であることを理由に遊ばせるなと言われたり保育園への入園を断られる事例が発生しているわけで。
「原発」理由で入園を断る、山梨

子供にとって遊ぶことや保育園などで人間関係を構築していくのって将来に向けての重要なステップですよね。それすら受けられないのは“指の入ったラーメン”だからで片づけることは可能なんですかね?
そして最後に。お客様であるのはいったいどこまでなのか?ということですね。これが被災地の人=お客様で彼らが国や東電に対して補償を求めるのは当たり前。でもね、実際に大きな声、それも復興への害になる声を上げているのは必ずしも被災地ではないわけで。そういったものに対するカウンター言説としての「正しく怖がれ」をベースにした情報提供なども駄目なんですかね?
このように、言及先の比喩を現実にあてはめようとすると良く言っても大雑把な切り分けしかされていないため“比喩なのにわかりにくい”ということになるんですよね。まぁ、そこらへんは言及先の次の記事で明らかにされるのでしょう。

おまけ

“正しく怖れよ”だの“「放射脳」”だの、放射性物質汚染被害を小さくみせたい人たちには、とりあえず水鉄砲で顔に水引っかけてやるのがいいんじゃないかな?


この発言を文字通り解釈すると菊池氏にも水をかけるのもこの人は肯定するのでしょうが、過去にバードストライク問題で文献ひとつ碌に読まず文字通り風車に突っ込んだ御仁が批判や異論にもきちんと耳を傾ける菊池氏より被害を正しく把握しているとは過去に相対した身からはとてもとても。あとは正しく怖がれに同意していても放射脳には賛意を示さない人もいるからそういう部分でも切り分けが大雑把ですよね。
社会生物学論争でのずぶ濡れウィルソンを思い出しました。
参考
風力発電とバードストライク 追記あり

幻想に揺蕩う

追記
TAKESANさんのご助力で検索してみたところ、このようなものを見つけました。

ケース解説 [放射線を正しく怖がっていますか?]

このようにどちらかと言えば国側でこのように発言しているケースもありますね。というわけでいるかいないかわからないというのは訂正します。それを割り引いてもなお、言葉の範囲が明確でないという部分は変わりませんが。

追記3/16
「正しく怖がる」というフレーズのもとは国立循環器病研究センターの説明によれば物理学者で随筆家の寺田寅彦氏だそうです。また、菊池氏でもないようです。僕の記憶違いで失礼しました。

墓穴と墓標

2012-03-01 17:34:32 | いい加減なモノ
 何か一言言ってやりたい衝動を抑えられない人、言葉の反動を直視できないはネット言論に向かない。
少々手間ですが、これを読む前に以下のまとめを読むことをお勧めします(そうしないとたぶんわかりにくい)。

サイエンスライターと南京大虐殺 2012

「サイエンスライターと南京大虐殺 2012」への補足


前に、ちょっとでも触れると紛糾する話題の1つとして「南京大虐殺」とだけ挙げただけでも、大層にブログまで立ち上げられて批判されたり、勝手に歴史改ざん者にされてしまったりもあったな…。ほんと、面倒な話題でもあると思うの ^^;)関わり合いたくないと思わせる人達がいるからね。


これについて批判コメントが多数ついたのですが、当の本人はなぜ批判されるのか全く分からないようです。
ここで多くの人が憤っているのは「言及されたから」ではなく「自分のかかわる分野をバカにしているようにしか見えない」からでしょう。つまり優先順位の話ではなくある分野をどう見ているかという話。軽々しく話せる分野で無いと思っているなら軽く見た発言はいない方がいいでしょうね。試しに南京大虐殺をニセ科学や「あやしい商売」に置き換えて読んでみるといいかもしれません。それでもわからないようなら・・・・・・。
忠告が来てもどこ吹く風。


本当に、言及するだけで問題発展しちゃうテーマだから。気を付けないとね。また言われてるのか~ RT @doramao:@kumikokatase 申し訳ないけど、舌禍事件的なものになりかねない感じですよ。ブクマされているツイートは私から見ても不適当に思いますし、困る感じです。


・・・・・・いい加減学習しなよ。過去にどれだけの人が時間をかけてあなたのわきが甘い癖を指摘してきたと。あなたに忠告してきた人間の努力をドブにぶち込んでるように僕には見えるんですが。
少しは勉強してみたら?ということをやさしく言われてもわからない。


その新書自体に変な色が付いていないという保証も無いですし…。決定版みたいなものが無いから問題がややこしいんじゃないでしょうか? RT @_nagashimam:新書一冊ぐらい読んでからにした方がいいとは思いますが^^;;


ご自身がニセ科学関連でやってる情報収集の応用だと思いますが・・・・・・。これを立場が逆でニセ科学関連で自分が進言する側だと思うことができないんですかね。こういうことを臆面もなく口に出すというのは応用力がないし、なにより自分の発言を客観的に見ることができないという証左でしょう。ネットでのニセ科学批判というのは、幾度となく事態を軽んじた人が出てきてそれに対するカウンターを幾人もが作ってきたわけで。何を見てきたんでしょうねこの人。自分の立つ土俵について無自覚というか何も考えちゃいないのでは?とすら思ってしまいます。ここで取り上げた片瀬氏の発言は文脈込みで考えたとしても悪手としか僕には判断できません。
僕自身も過去に氏とやりとりしましたが、その時も質問に対して歯切れが悪かったり、論点そらしをあからさまに行ってきました。
あの時に僕は「引くときに引けないと論者として死ぬ(=信用されなくなって取り合ってもらえない)」と言いましたが、片瀬氏には対岸の火事だったのでしょう。事前に推敲があまりできないツイッターという手段を使うには不向きだと僕は思いますね。
もう2度も3度も繰り返しているようだと皆、見限り始めますよ。「昔、同じようなことがあったのに何の進歩もない。この人には学習能力というものがないのか?」や「また、同じことを繰り返して・・・・・・。この人から反省しましたなんて謝罪の言葉が出ても一時的に場を収めて矛先をそらすために使ってるだけだな」という見方が出てもおかしくないですね。片瀬氏は自分にかかる信用という値札を自分から下げていることにお気づきで無いようで、ちょっと僕には掛ける言葉が見つかりません。
見限る人間も僕のようにわかりやすい人間ばかりでないので、気が付いたら孤立無援だったなんてことにもなりかねないでしょうね。
基本的にネット言論なんて吐いた言葉がそのまま自分にも返りかねない場所かつ特に保証があるわけでもないし、個々人で防衛するしかないです。そこで大事なのが「これを言ったらどういう反応が返ってくるのか?」と想像、連想する力じゃないでしょうか。これを忘れると碌な目に合わないとは最近の自分を振り返っても思います。