ひさびさに記事を書く気がしますし、なにか大切なことを忘れている気がしますが置いておいてと・・・(いいのか?)。
「もうダマされないための「科学」講義」という本を読んで考えたことです。この本は、震災以降の科学と人との関係を考えていこうという趣旨で、執筆陣も(約1名除き)非常に豪華です。僕が今回書くのは、著者の一人である松永氏の遺伝子組換え植物反対に対する見解を読んで考えたことです。
さすがに鵜呑みもどうだろうと思い、反対派の見解も探して読んでみたのですが、やっぱり片手落ちの印象を受けました。
それは、“遺伝子汚染”を問題にしているのに“遺伝子組換え作物との交雑のみ”問題にしているからです。
ここを見ている人には今更かもしれませんが、遺伝子汚染について簡単に説明しておきます。遺伝子汚染というのは交配可能な種、亜種が人間によって持ち込まれることで起きる外来生物問題の一種。ちなみに“同種でも生息地が隔離されて交配が無い場合”に人間が別々の生息地の個体を持ち込んで交配しても遺伝子汚染。
次に、遺伝子汚染がなぜ問題か。僕が重要度が高いと考えているのが、生物種の歴史を攪乱するからです。生物多様性というのは進化の歴史の中でできたもので、人間の世界で例えるなら、奈良の大仏やキトラ古墳みたいなものです。なくなったら取り返しのつかないものです。観念的なものを省いて、もっと具体的に言えば、遺伝子汚染で生物は絶滅します。たとえばニホンバラタナゴとタイリクバラタナゴなどのように。
では、遺伝子汚染に対して、本文中で松永氏が言うように「種や個体群の存続に影響を与えなければ影響するとは言えない(梨の意訳)」というのはもっともではありますが、難しい。影響が出るまで何世代あるいは環境が変化して初めて影響が出るということも考えられるので、すぐに目に見える形で現れるとは限らない。そもそも影響が確認されるころには手遅れと言えるほどに危機的な状況に置かれることが多々ありますから、原則的には、遺伝子汚染を起こさないか、早期に駆除なり隔離なりの対応をした方が絶滅につながる不可逆的な影響を抑えられます。
そして、遺伝子組換え反対の理由に遺伝子攪乱を用いることについてです。僕からすると、遺伝子汚染を問題にするなら“組換えのみ”をターゲットにする理由がよくわかりません。
遺伝子汚染が問題にされるのはその種(個体群)の固有性や歴史性が攪乱されるからで、攪乱の源が遺伝子組換えであろうがなかろうが関係ありません。事実、外来生物問題の多くでは遺伝子組換えでない生物による遺伝子汚染もまた問題になっています。
遺伝子汚染を問題とするならば、非組換えで起きる交雑についても問題としなければ片手落ちでしょう。よく持ち出されるアブラナにしても、アブラナ科の植物は別種間でも容易に交雑します。容易に組換え作物と交雑してしまう環境では、品種などの異なる非組換え作物とも容易に交雑してしまうでしょう。
本当に在来種(品種)の保全をする気があるのか、そもそも“何を何のために守りたい”のかも遺伝子汚染を持ち出す人からは読み取ることができません。
・言いたいことを3行でまとめてみた
遺伝子汚染に対して、組換え、非組換えで対応を変える論理的な理由はない
組換えのみに絞るのは問題を矮小化させてしまうのではないか?
何を何のために守りたいのか?という部分が曖昧になっている
参考文献
「もうダマされないための「科学」講義」
広がる遺伝子汚染 誰が保証できる「非遺伝子組換え」
「もうダマされないための「科学」講義」という本を読んで考えたことです。この本は、震災以降の科学と人との関係を考えていこうという趣旨で、執筆陣も(約1名除き)非常に豪華です。僕が今回書くのは、著者の一人である松永氏の遺伝子組換え植物反対に対する見解を読んで考えたことです。
さすがに鵜呑みもどうだろうと思い、反対派の見解も探して読んでみたのですが、やっぱり片手落ちの印象を受けました。
それは、“遺伝子汚染”を問題にしているのに“遺伝子組換え作物との交雑のみ”問題にしているからです。
ここを見ている人には今更かもしれませんが、遺伝子汚染について簡単に説明しておきます。遺伝子汚染というのは交配可能な種、亜種が人間によって持ち込まれることで起きる外来生物問題の一種。ちなみに“同種でも生息地が隔離されて交配が無い場合”に人間が別々の生息地の個体を持ち込んで交配しても遺伝子汚染。
次に、遺伝子汚染がなぜ問題か。僕が重要度が高いと考えているのが、生物種の歴史を攪乱するからです。生物多様性というのは進化の歴史の中でできたもので、人間の世界で例えるなら、奈良の大仏やキトラ古墳みたいなものです。なくなったら取り返しのつかないものです。観念的なものを省いて、もっと具体的に言えば、遺伝子汚染で生物は絶滅します。たとえばニホンバラタナゴとタイリクバラタナゴなどのように。
では、遺伝子汚染に対して、本文中で松永氏が言うように「種や個体群の存続に影響を与えなければ影響するとは言えない(梨の意訳)」というのはもっともではありますが、難しい。影響が出るまで何世代あるいは環境が変化して初めて影響が出るということも考えられるので、すぐに目に見える形で現れるとは限らない。そもそも影響が確認されるころには手遅れと言えるほどに危機的な状況に置かれることが多々ありますから、原則的には、遺伝子汚染を起こさないか、早期に駆除なり隔離なりの対応をした方が絶滅につながる不可逆的な影響を抑えられます。
そして、遺伝子組換え反対の理由に遺伝子攪乱を用いることについてです。僕からすると、遺伝子汚染を問題にするなら“組換えのみ”をターゲットにする理由がよくわかりません。
遺伝子汚染が問題にされるのはその種(個体群)の固有性や歴史性が攪乱されるからで、攪乱の源が遺伝子組換えであろうがなかろうが関係ありません。事実、外来生物問題の多くでは遺伝子組換えでない生物による遺伝子汚染もまた問題になっています。
遺伝子汚染を問題とするならば、非組換えで起きる交雑についても問題としなければ片手落ちでしょう。よく持ち出されるアブラナにしても、アブラナ科の植物は別種間でも容易に交雑します。容易に組換え作物と交雑してしまう環境では、品種などの異なる非組換え作物とも容易に交雑してしまうでしょう。
本当に在来種(品種)の保全をする気があるのか、そもそも“何を何のために守りたい”のかも遺伝子汚染を持ち出す人からは読み取ることができません。
・言いたいことを3行でまとめてみた
遺伝子汚染に対して、組換え、非組換えで対応を変える論理的な理由はない
組換えのみに絞るのは問題を矮小化させてしまうのではないか?
何を何のために守りたいのか?という部分が曖昧になっている
参考文献
「もうダマされないための「科学」講義」
広がる遺伝子汚染 誰が保証できる「非遺伝子組換え」