貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

高野山奥の院③墓地エリアと弘法大師御廟エリアで命の洗濯!

2024-07-26 10:21:16 | 日記
令和6年7月26日(金)
高野山奥の院③
 高野山は
世界遺産になってから初めて参詣。
<落書き塚>

 アチャコの慰霊碑やお墓が
ずらりと並ぶ。
<花菱アチャコの墓>

 歴史上の人物の墓地でもある。      
<親鸞上人の墓>

 そして、奥に、
弘法大師の御廟がある。

 墓地と聖地を散策しているようだ。
 蘇我兄弟、大岡越前、武田信玄、
徳川吉宗、石田三成、明智光秀、
織田信長のお墓あり。 
<浅野内匠頭の墓>
 

<無縁塚>
      
 万菊の句は、
「ちる花に 
   たぶさはつかし 
       奥の院」
 奥の院は
大きく2つのエリアに分けられる。
 一つは、
入口近くのお墓や慰霊碑が
ずらりと並ぶ墓地エリア。
 もう一つは、
弘法大師御廟(ごびょう)を
中心にした聖地エリア。

 ゆったり奥の院を歩き回る。
 震災の供養もきちんとされている。
 全く違った雰囲気をもつ
二つのエリアの何ともいえぬ
神秘感と
日本人としての祖先の追慕感等、
ここでしか味わえないものを愉しみ、
合掌をして、次へ進むことにする。


高野山奥の院②ちゝはゝの しきりに恋し!と義仲寺無名庵六世!

2024-07-25 10:17:17 | 日記
令和6年7月25日(木)
高野山奥の院②


 芭蕉の句碑は、
「ちゝはゝの 
   しきりに恋し 
     雉の聲」 
<芭蕉句碑>

 芭蕉句碑は、
紀伊名所図会で、
「芭蕉墓(づか)」と紹介され、
碑の裏面には、
次の碑陰銘が記されている。
ほろ々と。鳴くは山田の。
雉子のこゑ。父にやあらむ。
母にやと。
おもひしたへる。
いにしへの。良辨のかの。
ふるうたに。
かよふ心の。十(とお)あまり。
なゝつの文字を。
石に今。きざみてこゝに。
たつかゆみ。
紀の高(たか)野(の)なる。
法の月。雪にさらして。
すゑの世も。くちのためしを。
この國に。この道したふ。
泝風(そふう)てふ。
人のまことを。かきぞとどむる。」  
      雪中菴蓼太
 この俳句は、
行基が高野山で詠んだと伝えられる
次の歌を踏まえたものと
言われている。
 「山鳥の 
  ほろほろと鳴く 
    声きけば 
     父かとぞおもふ 
       母かとぞおもふ」
       (玉葉和歌集)
 良辨僧都は、
「ほろほろと 
   鳴は山田の 
     雉子の聲 
      父にやあらむ
        母にやあらむ」
と詠んでいる。
 撰文を記した雪中菴蓼太(大島蓼太)は、
江戸時代中期の俳人で、
天明期の俳諧中興に尽くす。
 この芭蕉句碑は
安永4年(1775)に、
紀州日高郡御坊村の
塩路沂風によって建立される。
 塩路沂風は、
後に
滋賀県義仲寺無名庵六世に
なった俳人である。
 やはり!
 精進料理を昼食にし、
久しぶりの美味しいご飯にありつく。
 天ぷらも旨し。
~つづく。

和歌山県高野町 高野山奥の院 その由緒と・・・共生!

2024-07-24 11:26:47 | 日記
令和6年7月24日(水)
和歌山県高野町  高野山奥の院   
<弘法大師御廟前>

 高野山は、
平安時代の初めに、
弘法大師によって、
開かれた日本仏教の聖地。

 「金剛峯寺」という名称は、
お大師様が
『金剛峯楼閣一(いつ)切(さい)
瑜(ゆ)伽(が)瑜祇経(ゆぎきよう)』
というお経より名付けられた
ことによる。
 東西60m、南北約70mの主殿
(本坊)を初めとした様々な建物を備え、
境内総坪数48,295坪の広大さと
静寂さ、優雅さを有している。
<奥の院>

 弘法大師が、
都を離れ、約1000mの高峰である
この高野山を発見されたことには、
古くから伝えられる物語が・・・。
「弘法大師が2ケ年の入唐留学を終え、
唐の明州の浜より
帰国の途につかれる時、
伽藍建立の地を示し給えと念じ、
持っていた三(さん)鈷(こ)を投げる。
 その三鈷は空中を飛行して
現在の壇上伽藍の建つ壇上に
落ちていたという。
 弘法大師はこの三鈷を求め、
今の大和の宇智郡に入られた時、
そこで異様な姿をした
一人の猟師に出会う。
 手に弓と矢を持ち黒と白の
二匹の犬を連れている。
 弘法大師はその犬に導かれ、
紀の川を渡り、嶮しい山中に入ると、
そこでまた一人の女性に出会い、
『わたしはこの山の主です。
あなたに協力致しましょう』
と語られ、
さらに山中深くに進んでいくと、
そこに忽然と幽邃な大地が…。
 そして、
そこの1本の松の木に明州の浜から
投げた三鈷がかかっているのを
見つけ、この地こそ真言密教に
ふさわしい地であると判断し、
この山を開くことを決意される。」
という話。
 高野山真言宗、
あるいは金剛峯寺は、
伝統宗教として日本人の精神性、
「こころ」に遥か昔から深く
関わってくる。

 信仰を持つ、持たないに拘わらず、
私たちの魂には伝統宗教に由来する
メンタリティーが受け継がれている。
 千年以上の長きにわたって、
蓄積してきた智慧と祈りの中に
我々が果たすべきことのヒントが
隠されていると、
現在「共生」を強く説いている。
 「共生」!
この世界に存在する全てのものが
調和し、共に生きる道を選ぶこと。
 必須の課題だが・・・
神業に近し?  
<芭蕉塚>



五條市 桜 井 寺 芭蕉句「さくらかりときとく・・・」

2024-07-23 10:10:00 | 日記
令和6年7月23日(火)
五條市  桜 井 寺      
<山門より>
    
 桜井寺(さくらいじ)の本尊は
阿弥陀如来。
 「櫻井寺」とも表記する。
<本殿>

 寺伝によると
天暦年間(947~957)、
桜井康成の創建。
 現在の本堂は、
昭和42年(1967)の再建。
<鐘楼>
<芭蕉句碑>


 芭蕉の句は、 
「さくらかり 
   きとくや日々に 
     五里六里」 
である。



御所市 葛城一言主神社 その由緒と芭蕉句「猶みたし・・・神の顔」!

2024-07-22 09:55:32 | 日記
令和6年7月22日(月)
御所市  葛城一言主神社                
 風強く、土砂降りの中到着。

小学生の登校時刻とぶつかり、
子どもたちが近くの学校へ。
 制服が薄焦げ茶で、
神社と奈良の色彩かな。
「いちごんさん」
と地元では呼ばれ、
「私は一言しか聞かない」
という神様で大事にされている。
<社殿>

 神社正面を降りると、
銀杏の木の傍に芭蕉句碑あるという。
 舞い戻り、銀杏の木を探す。
<銀杏の古木400歳>

 樹齢400年の古木は
大事に保たれている。
 句は、
「猶みたし
   花に明行  
     神の顔」
<芭蕉句碑>

さて、この一言さんの由緒。
 『古事記』より。
「雄略天皇が幸して葛城山に登った時、
(百官)悉くが紅の紐を著けた
青摺の衣服を給わる。
  その時、
向こうに山を登る人があり。
 天皇の御幸と等しく、
装束の状も人々もよく似ている。  
 そこで天皇は山を望んで問わしめ、
この倭の国に我を除いてまた
王はない。
 そににいるのは誰か、と訊ねる。
<至福の像>

 すると、
答える状も天皇の言うとおり。
 天皇はいたく忿り矢を番え、
百官の人も悉く矢を番える。 
<至福呆け除けの心得>
    
 ところが、
その人々もまた矢を番えたので、
天皇はまた問いかけて、
それでは名を名告れ、
各々名を名告って矢を放とう、
と言う。
 これに応えて、
我がまず問われたので名告ろう、
 我は悪い事も一言、
善い事も一言、
判断(ことわり)する神、
葛城の一言主の大神というもので
ある、と。
 天皇はそこで惶れ畏って、
我が大神が現し御身があるとは
知りませんでした、
と申して、御刀・弓矢を始め、
百官の人々の着る衣服を脱いで
拝し献った。

 そこで、
一言主大神はその捧げ物を
手ずから受け取られた。    
 天皇が還幸する時、
大神は送り奉った。
 この一言主大神は
その時顕現したのである。」
という由緒。
 万葉集の歌碑もあり。
 「善悪を一言で言い表す。」
ことの大事さもあろう。