4 日 光 2015年(平成27年)3月28日
芭蕉が日光を訪れた元禄2年(1689年)の4月
ごろは、日光山の大修復の準備がたけなわとなっ
ていた時期で、山内に多くの関係者が出向いてい
た。
日光で「あらたうと青葉若葉の日の光」の句を詠じ、
日光山の威光を称えた芭蕉ではあるが、山内をゆっ
くり廻ることは難しかったに相違ない。
東照宮拝殿の解体を控え、4月から6月にかけては、
狩野探信、絵所了琢によって、諸絵画についての入念
な準備作業が行われていた。
芭蕉一行が訪れた4月1日も、巳の刻(午前10時頃)
に狩野探信とその弟子が大勢来山し、
未の刻(午後2時頃)まで東照宮拝殿東の御座之間の
絵の彩色などを記録していたことが、
「東照宮御番所日記」の当日の条から知られる。
日光はよく出かけたところなので、今回は省略した。
今年の夏には、二荒山を登りながら芭蕉を追従して
みようと念じてはいるが・・・。
芭蕉が日光を訪れた元禄2年(1689年)の4月
ごろは、日光山の大修復の準備がたけなわとなっ
ていた時期で、山内に多くの関係者が出向いてい
た。
日光で「あらたうと青葉若葉の日の光」の句を詠じ、
日光山の威光を称えた芭蕉ではあるが、山内をゆっ
くり廻ることは難しかったに相違ない。
東照宮拝殿の解体を控え、4月から6月にかけては、
狩野探信、絵所了琢によって、諸絵画についての入念
な準備作業が行われていた。
芭蕉一行が訪れた4月1日も、巳の刻(午前10時頃)
に狩野探信とその弟子が大勢来山し、
未の刻(午後2時頃)まで東照宮拝殿東の御座之間の
絵の彩色などを記録していたことが、
「東照宮御番所日記」の当日の条から知られる。
日光はよく出かけたところなので、今回は省略した。
今年の夏には、二荒山を登りながら芭蕉を追従して
みようと念じてはいるが・・・。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます