貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

敵味方の区別なし 千人塚

2019-10-06 09:09:54 | 日記

敵味方の区別なし 千人塚

 令和元年10月6日

 昨夜は、ラグビーを楽しむ。

 サモアと日本の戦い。

 最後の数分の日本のスクラム、

そして、トライに興奮。

 高校時代に、体育でラグビーを

経験しているが、ルールも

定かではない。

 陸上部の足の速い友が

ボールをもちサイドラインを

凄い勢いで走る。

 あっという間。

 そこへ私とバドミントンの

ペアを組んでいた親友が

凄い勢いでエンドライン手前を

平行して突撃。

 直角対決となる!

 飛びつくと、陸上の友は

三メートルほど空中をすっ飛んだ!

 その凄まじさしか、

ラグビーの思い出はない。

 日本は初めてベスト8以上に

なれるのか。

 試合後の敵味方のなしの様は

また格別。戦い済めば皆友だち。

 微笑ましい限り!

 さて、岡崎市の西光寺へ。

 本堂で寄り合い中! 

 西光寺は、開創以来500年

以上の歴史を持つ真宗大谷派

の寺。

 応仁2年(1468)、本願寺

8代蓮如上人が三河に滞在布教

する。

 その折、針崎の勝鬘寺は、

真宗高田派から本願寺派に転派。

 その後、信心深い勝鬘寺門徒

某に蓮如上人筆と伝えられる

「名号」が、勝鬘寺を通して

下付される。

 「名号」を授けられた門徒

某は井ノ口村に一宇を建て、

井ノ口道場を開き布教に

努める。

 50年後の文亀3年(1503)、

井ノ口道場の地に西光寺が

創建される。

 その後、三河一揆などにより

廃寺。

 後にまた再開という戦国時代

の荒波を受けている。

「井田野古戦場」の説明板に

明記されている。

 1467年松平4代親忠と、

寺辺、伊保、八草、挙母、上野の

土豪軍が、この辺りで激しい

戦いをし、勝った親忠は、

戦死者を敵味方の区別なく

葬って塚を築く。

「千人塚」。

 また、家康が桶狭間の戦い後、

大樹寺に逃げ込んだ際、追手の

織田方と戦って倒れた多くの僧

を葬った「大衆塚」もある。

 井田野は、その後3度も激しい

戦場となったという。

「夏草や 兵どもが 

  ゆめの跡」

という芭蕉の句が句碑に

刻まれている。


 この句は、芭蕉が元禄2年(1689) 、

平泉で夏草の茂る中に、戦いに

消えた兵士を偲んでで作った

もの。

 ここ、井田野も、また、戦国時代

多くの兵士が戦った古戦場である。