1月26日 NHK海外ネットワーク
マーシャル諸島は太平洋のほぼ真ん中に位置している。
島々が連なる美しい姿は“真珠の首飾り”とも呼ばれる。
ビキニ環礁の周辺では1946年からの13年間に
アメリカが67回もの核実験を行った。
1954年の実験では日本の第五福竜丸も被爆し
ビキニ環礁から約200キロ離れたロンゲラップ島では
住民が別の島への移住を余儀なくされた。
それから半世紀以上が経ち放射性物質を取り除く除染も進んで
住民が帰還する計画が持ち上がっている。
そのロンゲラップ島を今月 日本の原水爆禁止日本協議会の調査団が訪れた。
調査団に参加した小抜勝洋さん(35)は福島県郡山市の医療施設で働いている。
(小抜勝洋さん)
「今 島の中でどういう作業が行われていて
帰島に向けての準備がどう進められているか見たい。」
ロンゲラップ島の調査には被ばく医療に詳しい医師など9人が参加した。
福島で食品の放射線量を測定するボランティア活動を続ける小抜さんは
島の状況を知ることで“福島で役立つことがないか”経験を学ぼうと参加した。
島には約400人の島民が帰還できるよう49棟の住宅が建てられていた。
米政府は1996年
核実験による汚染の責任を認め復興事業実施で島民と合意。
1998年から2年間にわたって除染が行われた。
除染で出た土は滑走路の下などに埋められた。
米政府は
地面から1mの高さの放射線量は除染前の約20分の1に下がり安全になった
として島民に帰還を促している。
調査団はまずは除染の状況を確認した。
除染された住宅地周辺の18か所の放射線量を測定。
0,013(マイクロシーベルト/時)といずれも健康への影響はない水準だった。
ヤシの木の根の周りに放射性物質の吸収を抑えるカリウムを埋めることで
実に含まれる放射性物質を大幅に減少できることもわかった。
(小抜勝洋さん)
「放射線量はかなり低くて驚いた。
除染作業すれば下がるのは実証されていると感じた。」
現在 島にはインフラ整備にあたる作業員と家族約70人が生活している。
作業員たちの内部被ばく量を検査するための設備もある。
帰還する島民にも3か月に1度検査が行なわれる予定である。
小抜さんは福島でも内部被ばくの定期的な検査が欠かせないと感じている。
(小抜勝洋さん)
「内部被ばくはわからないので
前より増えたとか減ったとかを事実として知れるのはすごくいいこと。」
一方で島には大きな課題も残されている。
除染がおおなわれたのは約15ヘクタールで資金面などから住宅地付近に限られている。
内部被ばくを抑えるため除染されていない場所にあるヤシの実など
伝統的な食材はかつてのようには食べられない。
食糧はアメリカから船で運ばれるコメや鶏肉、缶詰に頼っている。
(フィリピン人作業員)
「地元でとれるものを食べるのは月に1回ぐらい。
船が遅れた時だけ。」
現在 島民たちはマーシャル諸島の他の島々に避難している。
ロンゲラップ島から約650キロ離れた首都マジロに
ロンゲラップ島の地方政府が置かれている。
ジェームス・マタヨシ代表はアメリカと除染などの交渉にあたり
島民の帰還計画を進めてきた。
(ロンゲラップ地方政府 ジェームズ・マタヨシ代表)
「長い月日が経ち島は安全になった。
島の人たちが戻れるように全力で取り組んでいる。」
核実験から半世紀を経てようやく動き始めた帰還計画。
調査団の調査票
“帰りたい”“いつか帰りたい”46人中42人
“今すぐ帰りたい” 4人
すべての除染が完了しなければ帰らないとためらう声も多く聞かれた。
(島民)
「これを食べちゃいけない ここにいてはいけない。
そういう制約がある限り帰るべきではない。」
「子どもたちにとって本当に安全なのか。」
レメヨ・アボンさん(72)は13歳の時に被爆した。
アボンさんは癌のため18年前に甲状腺を摘出した。
体調不良に今も悩まされている。
1日に8種類もの薬を飲み続けている。
いまでも島での暮らしを思い出すというアボンさん。
かつての生活を取り戻せないかぎり島へ帰ることはないと考えている。
(レメヨ・アボンさん)
「昔はパンの実 ココナッツなどを食べていた。
でも今は食べ物が足りなくなるかもしれない。
船が来られなくなったらどうするのか。
アメリカにもっと除染をしてほしい。」
さらに長期の避難生活が帰還を一層難しくしている。
避難先で生まれ育った若い世代は一度も島を訪れたことがなく
生活が変わることに抵抗を感じている。
(小抜勝洋さん)
「50何年たっているわけなので
“戻れない”“戻りたくない”と思っているところは困難なんだろうなと思う。
まだまだこちらも課題が多く残っている。」
島民との交流会で小抜さんは福島の現状を語った。
(小抜さん)
「福島では原発事故で住めなくなった地域がある。
除染が進んでいなくて帰れる時期の見込みは立ってない。
早く元に戻ってほしいと思っているところは一緒。」
これに対し島民たちから贈られたのは
ふるさとへの帰還を願って歌い継がれてきた歌だった。
夕暮れの島に吹くそよ風よ
私たちの悩みを流しておくれ
(小抜勝洋さん)
「マーシャルの人たちが培ってきた経験も
情報交換はこれからもしていきたい。
除染のやり方がマーシャルではこういうやり方だったと
福島のやり方はどうなんだという比較だとか
そういう経験を生かすことはできると思う。」