昨日、60年目の8月15日(私にとって60年目という意味ではナイ)は、フォーラムやシンポジウムなどおもしろそうな企画がたくさん催されたようです。
私は仕事だったため、というか新聞の締め切り間際だったため、昼間は出歩くのを控えました。
15日を前後して、しかし何もせずに過ごすのは落ち着かないので、映画を見に行きました。
14日は岩波ホール(神保町)で、黒木和雄監督の「美しい夏キリシマ」。
15日は新文芸坐(池袋)で、フランキー堺主演の「私は貝になりたい」。
「美しい夏キリシマ」は、黒木監督の三部作と言われるうちの二つ目。
去年の8月15日、三部作の完結といわれる宮沢りえちゃん主演の「父と暮らせば」を見ました。私も被爆者の話を幾度か聞き、決して及ばないけれど何とか被爆体験の継承をしたいと思ってきた経験が、映画の登場人物への感情移入を助けたように思いました。
「美しい夏キリシマ」は、比べるものではないかもしれませんが「父と…」よりもよかったです。
主人公の少年の負い目が、最終的にはかつてはバカにしていた「竹やり」をその手に持たせました。最後のシーンは愚かで物悲しく、衝撃でした。
戦争に翻弄された、「弱い」人々の暮らしや心情が伝わる映画でした。
そして「私は貝になりたい」。
この映画は傑作です。
私は最後の場面だけ見たことはありましたが、通して見たのは初めてです。
もとは1958年に放送されたテレビドラマだったらしいです。しかも前半はVTR、後半は生放送だったらしい。このことは見た後で知ったのですが、ナマとはまったく感じなかったので驚きました。
私は今は亡きフランキー堺が大好きだったのですが、やはりここでもすばらしい演技でした。
見終わったときの感想は、「理不尽…」の一言につきます。悶々としてしまいました。
赤紙で召集された理髪店の主人(=フランキー堺)が捕虜を上官の命令で刺し殺そうになり(実際は直接は殺していない)、戦争終了後東京裁判にかけられる。そして最後死刑を宣告される、という物語。
東京裁判の不当性を告発するというにとどまりません。
このドラマの本質は、「美しい夏キリシマ」と同じように、戦争に踊らされた「弱い」人びとの姿です。
一市民の前に権力が横暴勝手に振る舞うとき、無防備な市民はたいてい無力です。
戦争とは、国対国の争いのように見えて、実は国対民衆の構図になっているのだと、痛感しました。
もちろん、権力の横暴勝手ぶりと民衆の無力さは、決して不動の関係ではありません。しかしかつてのその構図、そして今また民衆の無力化を図ろうとする昨今の動きは、実に理不尽です。
「私は貝になりたい」のもっとも有名な最後のセリフを、そのままのっけてしまいます。
=====
「ふさえ、賢一さようなら お父さんは二時間ほどしたら遠い遠いとこへ行ってしまいます
もういちど逢いたい、もういちど暮らしたい…
お父さんは生まれ変わっても人間にはなりたくありません、人間なんていやだ。
もし生まれ変わっても牛か馬の方いい
いや牛や馬ならまた人間にひどい目に遭わされる
どうしても生まれ変わらなければならないのなら、いっそ深い海の底の貝にでも…
そうだ貝がいい
貝だったら深い海の底でへばりついていればいいからなんの心配もありません
深い海の底だったら戦争もない、兵隊に取られることもない
ふさえや賢一のことを心配することもない
どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい・・・・・」
私は仕事だったため、というか新聞の締め切り間際だったため、昼間は出歩くのを控えました。
15日を前後して、しかし何もせずに過ごすのは落ち着かないので、映画を見に行きました。
14日は岩波ホール(神保町)で、黒木和雄監督の「美しい夏キリシマ」。
15日は新文芸坐(池袋)で、フランキー堺主演の「私は貝になりたい」。
「美しい夏キリシマ」は、黒木監督の三部作と言われるうちの二つ目。
去年の8月15日、三部作の完結といわれる宮沢りえちゃん主演の「父と暮らせば」を見ました。私も被爆者の話を幾度か聞き、決して及ばないけれど何とか被爆体験の継承をしたいと思ってきた経験が、映画の登場人物への感情移入を助けたように思いました。
「美しい夏キリシマ」は、比べるものではないかもしれませんが「父と…」よりもよかったです。
主人公の少年の負い目が、最終的にはかつてはバカにしていた「竹やり」をその手に持たせました。最後のシーンは愚かで物悲しく、衝撃でした。
戦争に翻弄された、「弱い」人々の暮らしや心情が伝わる映画でした。
そして「私は貝になりたい」。
この映画は傑作です。
私は最後の場面だけ見たことはありましたが、通して見たのは初めてです。
もとは1958年に放送されたテレビドラマだったらしいです。しかも前半はVTR、後半は生放送だったらしい。このことは見た後で知ったのですが、ナマとはまったく感じなかったので驚きました。
私は今は亡きフランキー堺が大好きだったのですが、やはりここでもすばらしい演技でした。
見終わったときの感想は、「理不尽…」の一言につきます。悶々としてしまいました。
赤紙で召集された理髪店の主人(=フランキー堺)が捕虜を上官の命令で刺し殺そうになり(実際は直接は殺していない)、戦争終了後東京裁判にかけられる。そして最後死刑を宣告される、という物語。
東京裁判の不当性を告発するというにとどまりません。
このドラマの本質は、「美しい夏キリシマ」と同じように、戦争に踊らされた「弱い」人びとの姿です。
一市民の前に権力が横暴勝手に振る舞うとき、無防備な市民はたいてい無力です。
戦争とは、国対国の争いのように見えて、実は国対民衆の構図になっているのだと、痛感しました。
もちろん、権力の横暴勝手ぶりと民衆の無力さは、決して不動の関係ではありません。しかしかつてのその構図、そして今また民衆の無力化を図ろうとする昨今の動きは、実に理不尽です。
「私は貝になりたい」のもっとも有名な最後のセリフを、そのままのっけてしまいます。
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「ふさえ、賢一さようなら お父さんは二時間ほどしたら遠い遠いとこへ行ってしまいます
もういちど逢いたい、もういちど暮らしたい…
お父さんは生まれ変わっても人間にはなりたくありません、人間なんていやだ。
もし生まれ変わっても牛か馬の方いい
いや牛や馬ならまた人間にひどい目に遭わされる
どうしても生まれ変わらなければならないのなら、いっそ深い海の底の貝にでも…
そうだ貝がいい
貝だったら深い海の底でへばりついていればいいからなんの心配もありません
深い海の底だったら戦争もない、兵隊に取られることもない
ふさえや賢一のことを心配することもない
どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい・・・・・」