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あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

アメリカ7日目―最後の出会い

2005-05-13 01:40:55 | レポート
●5月2日(月)

7日目はない。
というのは言い過ぎで、日本へ帰る日。

核不拡散条約(NPT)再検討会議は、今日から始まる。
私は安いチケットを得るために、大連休の大盛り上がりよりも少し早く帰ってこなければならなかった。残念だが仕方ない。

帰りはノース・ウエスト航空。JFK空港へ向かう。
タクシーの運転手に名前を聞かれたので、「MISAKI」と答えたら、「ムズカシイネー」(英語で)と言われた。ステキな名前でしょ、と言っておいたら、あまりたいした反応は返ってこなかった。

私が乗る便は、日本人が多かった。
席に着くと、隣りもそのまた隣りも日本人。それぞれ違うグループだった。

世間話をした。
旅の目的を聞かれたので、NPT再検討会議があり、昨日は大行動をし、…という話をしたら二人ともテレビで見た、と言っていた。
そして核兵器廃絶と、そのための運動に共感してくれた。
とてもうれしくなった。

最後の最後で、よい出会いがあった。


写真は最終日の話ではなく、1日のパレードにいた人々。
チェイニーとブッシュを模したパフォーマンス。

アメリカ6日目(下)―NYで聞いたヒバクシャの証言

2005-05-12 02:14:34 | レポート
パレードはセントラル・パークに集結。
ここで集会が始まる。

集会は、多彩な人々が次々と登壇し、発言やパフォーマンスをした。

広島の秋葉忠利市長、長崎の伊藤一長市長も、それぞれ発言した。
他に、国際司法裁判所が核兵器使用の非合法性を認めた「勧告的意見」を出したときに副所長だった、クリストファー・ウィラマントリーさん、ベトナム戦争に関する極秘報告書「ペンタゴン・ペーパー」を暴露したダニエル・エルズバーグさん、9・11犠牲者の家族の会「ピースフル・トゥモローズ」の方、等々、本当にたくさんの方々が核兵器廃絶、戦争なくせと発言を続けた。

ヒロシマ、ナガサキの被爆者もそれぞれ発言した。
とても貴重な話で、聞きながらつい涙が…。
二人とも相当な体験をし、すでに高齢のため体も小さい。
けれど、本当に力強かった。

被爆者の証言を元にした劇を、演劇人集団が演じていたのも印象的だった。
丁寧にすくい取っているように感じた。
アメリカでも、こうして被爆体験を継承しようと取り組んでいる人々がいることを知り感激した。
私も、私のことばで、いろんな人に伝えなくては。

「いま、核兵器の廃絶を」という、2003年8月から集めている核兵器廃絶のための署名は、2日から始まる国連の核不拡散条約(NPT)再検討会議に提出する。
日本各地から、そしてアメリカに来てから懸命に集めてきた署名は、500万筆を超えた。
日本原水協の高草木博事務局長が、集会でこのことを報告すると大きな拍手が起きた。

本日の行動参加者は、「フォーティ・ハンドレッド」と主催者報告。
ええとええと、つまり…と必死で考える。
つまり4万人。
当初言われていた100万人には及ばないが、核兵器廃絶を求めてこれほど集まったのはやはり画期的だ。
そして500万を超える署名。

この数字を、誰が無視するのだろう。
わざわざアメリカに足を運んでアクションを起こした4万人のふるさとに、一体どれほどの人がこのアクションを支えているか、想像できるだろうか。

核兵器廃絶は、もう少し先の夢、ではない。
ヒロシマ・ナガサキの被爆体験は、過去の物語ではない。

2日から始まったNPT再検討会議。
アメリカの画策で、議題が決まらないまま始まった。
「強い国」の横暴に、めげずにいたい。


私は格安チケットのため、2日にアメリカを旅立った。
私のアメリカの旅は1日まで。

アメリカ6日目(上)―華やかなパレード

2005-05-12 01:45:09 | レポート
ようやく続き(しかもメイン)のアメリカレポート。

●5月1日(日)…時は労働者の祭典・メーデー

いよいよ今日が本番。メインイベント。
核兵器廃絶を、国連と世にアピールするための大行動。
日本からは日本原水協代表団の800人と、その他合わせて1,000人が参加すると言う。
全体では何人集まるのだろうか。

奇しくも朝から雨。
ホテルから、パレード出発地点の国連近くまで貸切バスで向かう。
走ること約40分。オヤ、雨が…。やんできた。

出発地点に到着。
パレード全体の集合時間は11時。まだ時間があるので、ウロウロしてみた。
ある者は国連見学(結局入れなかったが)へ、ある者は署名行動へ。

行動に参加する人々が、少しずつ集まってきた。
ピースマークを胸にでっかく描いたTシャツを着た女性集団(50~60代に見えた)がやってきた。
おお、あなたたちはCNDの方々ですね! と話しかける。
CNDとは、「イギリス核軍縮運動」というグループ。
いわゆる「ピースマーク」が、彼らのシンボル。
女性たちは、Tシャツだけでなく、イヤリング、ネックレス、指輪、などなどそこかしこにピースマークのアクセサリーを身につけていた。
とてもステキ。

道端で、横断幕に「Abolition of Nuclear Weapons」と描いている若い集団がいた。
こんなところで、こんな直前に…、と思いつつ、話しかけてみる。
「どちらから?」
「ドイツです」
聞けば、約50人の代表団で来ているらしい。そのうちなんと青年は45人。ほとんどだ。
どの国でも、青年を送り出そう、という動きは活発のようだ。
ドイツ青年に「今日は何人くらい集まるだろうね」と聞かれた。
「100万人が目標と聞いているよ」と答えたら、かなりびっくりしていた。
それは当初の目標で、たぶんそこまでは集まらないと思うよ、と言ったが、それでも100万という数字に驚き続ける姿が印象的だった。
18歳だというそのドイツ青年に、北朝鮮の核兵器保有問題についての見解を聞かれた。
ウ…。
「言いたいことはあるのですが、何しろ私は英語があまり話せまへん。でもトライします」と答えた。
そして「北朝鮮が本当に危険なのかどうかは判断しきれないが、たとえそうであっても私たちまでそれに乗っかって強硬姿勢に出たら糸口は見つからない。とにかく北朝鮮が答えやすいように、話し合いの場を確保すること。6カ国協議は重要だと思う。話し合いしか解決の方法はない」と話した。
「うむ。」とドイツ青年。
互いの国の運動の話や、よもやま話をして分かれた。
私は特にヒヤリングが苦手ですので、もう懸命に。
ダンケ、シェーン。

北朝鮮問題については、他にも数人の外国人(日本人でない人)から見解を聞かれた。
興味をもたれているのだと知った。

周りでは、他の日本人も「サイン、プリーズ」などと言って「いま、核兵器の廃絶を」署名をがんばって集めている。
私もその様子を見ながら、サインをしてくれた人々にその思いを聞いてまわった。
筆談を交えながら。

11時が近づいたので、集合地点に向かった。
途中、他国のいろんなグループがすでに集まっており、さまざまな服装、横断幕、デコレーションが並び、空気が熱くなるのを感じた。

パレード出発は12時。
歩き出す。
私は取材のため、ウロウロしまくった。

韓国青年の集団がいた。
太鼓、シンバルのような金属楽器、そして踊り。激しい動き。
彼らはニューヨーク在住だと言う。
北朝鮮への抑圧はやめろというアピールもしていた。
彼らはパレード中、最後までずっと演奏し、踊り続けていた。
とてもパワフルで、ステキだった。

パレードの先頭方面に向かった。
「フランス平和運動」という、私たちも日本へ何度か呼んだグループがいた。
その最前列に、「ソフィーだ!」!
ソフィー・レフィーズさん。笑顔が天使のような女性。フランス平和運動のスタッフ。
3月に静岡で開催した「3・1ビキニデー」に参加し、私の作る「平和新聞」にも登場してもらった。
彼女は5月末にNYに来ると言っていたので、てっきり会えないものだと思っていたのだが、思わぬ再会でとてもうれしかった。
そしてビズ(頬を触れ合わせるあいさつ)をしたら、ソフィーの頬はとてもやわらかくてまた興奮した。

他にもいろんな人々がいた。
太鼓、ギター、バグパイプ、サクスフォン、…。生演奏を聞くことができた。

もちろん日本人も。
着物、はっぴ、おそろいのTシャツ、…。
デコレーションもいろいろあって、非常に華やか。
日本でやるときも、これくらい張り切ったらきっと楽しいだろうな。

そうして、終点のセントラル・パークへと向かう。

(つづく)



アメリカ5日目―エジプトの必死さ

2005-05-06 01:04:34 | レポート
●4月30日(土)

さらばDC。
アムトラック(電車)でNYへ向かう。
私はチケットをすでに買っていたが、アムトラックに乗るとき他の代表団に混ざって団体様として行動していたらチケットを確認されなかった。
決してキセルではないけれど、ちょっと不安…。
払い戻しでもしてやろうかと思ったが、こんなときに(本当はいつでもだけど)アウトローなことはしてはなるめえと思いやめた。

NY到着。
今日は日本原水協代表団ほとんどのメンバーがそろう。
公開シンポ-2005年NPT・核兵器廃絶へ各国政府代表と語るに参加。

エジプト大使のマゲド・アブデラジズさんらが発言した。

大使は、中東地域における非核地帯条約設置の重要性を強調。
「単独行動主義」を非難し、つまりアメリカとイスラエル両政府の核政策を批判、IAEAを政治利用せず独立した機関として機能を果たさせることを主張した。
前回の原水爆禁止世界大会でのエジプト大使の発言でも感じたことだが、エジプトは中東平和の課題を本当に切実にとらえている。
政治世界での具体的な核兵器廃絶へ向けた歩みを聞くのは、本当におもしろい。
世論があって、政治があって、こうして核兵器をなくしてゆけるのか、と目に見える。

他にコーラ・ワイスさん(国際平和ビューロー)、ジャクリーン・カバソさん(全米平和正義連合、廃絶2000)、ジョゼフ・ガーソンさん(アメリカフレンズ奉仕委員会)などが発言し、核兵器をめぐる政治情勢とともに運動の広がり具合なども率直に話していた。

その後、全日本民医連や全労連などの交流会が開かれていたので、それぞれ(まさに)覗きに行った。
場所は現地の労働組合のビルらしいが、アメリカのビルに入るとき、ここは唯一セキュリティチェックがなかった。組合だからなのか? なんだか逆に安堵した。

写真は、全労連交流会にて。

アメリカ4日目―いつでもどこでも「いま」署名

2005-05-05 23:58:47 | レポート
●4月29日(金)

午前中は、ホワイトハウス前で署名集めに取り組んだ。「いま、核兵器の廃絶を」署名。
観光客がほとんどのその場所で、日本からの参加者は初めは照れながらも、ことばが通じない相手にがんばって話しかけていた。
お礼に折鶴をあげ、喜ばれていた。そのうち署名はしないが鶴だけもらいにくる、という人も続いていた。

昼食後、代表数人で記者会見に臨んだ(ナショナルプレスクラブにて)。
被爆者を含む日本の代表と、去年8月に広島にも来たピーター・カズニックさん(アメリカン大学教授)、ダニエル・エルズバーグさん(ベトナム戦争に関する極秘報告書・ペンタゴンペーパーを暴露)、ジョン・スタインバックさん(ヒロシマ・ナガサキ平和委員会)、エレン・トーマスさん(プロポジション・ワン委員会)らが並んだ。
特にアメリカ情勢について学習できる会見だったなあ。

その後、マーチン・ルーサー・キング(MLK)図書館で開催されている「ヒロシマ・ナガサキネバーアゲイン写真展」を見学。
去年の原水禁世界大会に参加した青年、アレクサンドラ・シルバーストーンさんの写真。
写真家とは知らなかったが、すごくよい写真が並んでいた。
被爆者や子どもを丁寧に追った、美しいものだった。

夜は教会で、ピースアクション主催のレセプション。
トークが続いた続いた…。メモしきれず。面目ねえ。通訳さんは本当にお疲れさまだった。

その後、前出のアレクサンドラとその友人2人、日本の若い者数人で呑みに。
にぎやかだった。
その後みんなで夜の街(公園)に繰り出し、音楽演奏。ただの酔っ払いにも見える、が…。
通りすがりの現地の若い者とセッション(?)。
そして日本の若い者は、「いま、核兵器の廃絶を」署名をもらうことを忘れなかった。
これには感心した。

写真はレセプション風景。

アメリカ3日目―核実験ヒバクシャの証言

2005-05-05 09:20:40 | レポート
●4月28日(木)

ユースホステルから代表団のホテルへ。今日は貸切バスに乗って、博物館を中心に回った。

同乗するのは、ネバダでの核実験によって被ばくしたデニス・ネルソンさん。今は、放射能被害者へのサポートと、被害の実態を伝える活動をしている。
バスのなかで、自身の経験や活動について話してくださった(下記に詳細)。

バスは、エノラゲイを展示するスミソニアン・航空宇宙博物館別館へ。
参加者の一人が、エノラゲイの前で日本で教え子から集めたピースメッセージを見学者に見せていると、警備員がやってきて止められていた。「今度やったら追い出すぞ」と。

ペンタゴンの横を通過し、ホワイトハウス前のピースパークへ。
ここで20数年も座り込みを続けている女性に会いに行った。彼女は、私が2002年に訪れたときも当然ながらそこに座っていた。
ホワイトハウス前で平和を訴え、平和裡に座り続ける彼女の姿は、沖縄・辺野古で座り込みを続ける大西照雄さんの「愚直に」ということばを思い起こさせた。
彼女の行動は決して自己満足のものではなく、実は大きな広がりをもっており一つのビルまで提供されているらしい。そして常にあのホワイトハウス前にピースポイントが存在するという意義は大きい。

昼食後、アメリカン・インディアン博物館へ。
読みきれなかったが、アメリカ原住民の生活を丁寧に描き出しているように見えた。
原住民を侵略し抑圧してつくってきたアメリカ合衆国の首都に、こうした博物館があるというのは、どういう意味をもつのだろう。そして実際のところ、アメリカの多くの国民は「アメリカン・インディアン」についてどのように思っているのだろう…?

リンカーン・メモリアルとベトナム・メモリアルへ。
リンカーン像はでかすぎる。ある人は「奈良の大仏のようだ」と言っていた。思わず柱の穴を探しそうになった。

ここで大・大・大・BIG・アクシデント発生。
ニコンD70(一眼デジカメ)が壊れた。動かぬ。朝は数枚撮れたのに!
がんばったが、どうにも動かない。私はいったい何のためにはるばるアメリカまで…。しかも1台しかカメラを持ってこなかった。すんまそん。
ひとまずカメラを借りることができた。本当にありがとう、Mさん。

バスツアーを終え、一路ホテルへ。夜はあるグループに混ざり、食料を買い込んで部屋で宴。うま楽しかった。そして一人、ユースへ帰りゆくのであった。

写真はホテルでの宴。

=======◇◆◇デニス・ネルソンさんの話(要旨)◇◆◇=======
 核実験場は、私の家から50マイルのところにあった。50~60年代、政府はソ連との軍拡競争のもとで核実験を繰り返し、私の町は放射能に汚染された。死の灰が私の町に降り注いだ。
 町に政府高官がやってきて、「害はないから安心しろ」と言った。しかしそれは嘘であることを、私たちは後で学んだ。
 66年、核実験が始められてから15年目、母は脳に腫瘍ができて亡くなった。弟にも障害が出、手術を受けた。私は肌のガンで、2回手術をした。
 80年、父は肺と骨にガンができ、亡くなった。父はタバコも吸ったことがなかった。
 92年、妹は40歳の若さでガンを患い、亡くなった。

 妹が亡くなってから、私は核兵器の恐ろしさを伝え、必要がないものだと訴えるためにこの問題に関わるようになった。日本の人々とも協力し、私たちが生きているうちに核兵器廃絶を実らせたいと思う。

 ネバダ核実験場周辺の住民は、運動に加わる人もいるが、多くがこの問題に関わりたくないと思っている。この地域は退職者が移住するようなゆったりしたイメージの場所で、そうしたイメージを壊したくない、と言う思惑もあるのかもしれない。

 そしてそもそもこの事実は、全米の人々に認知されていない。政府は被害者への保障制度を確立しているが、なるべく隠そうとしている。
 保障制度は、たいへん貧困なものである。保障と言うより見舞金のようなものだ。支給されるのは被ばくした者か、その子どもに対し5万ドルである。すべてのガンに保障されるわけでもない。
 父母は、亡くなってから適用されたため、10万ドルを生きているきょうだい4人で分けた。これを得るのに10年かかった。妹は夫も子もいなかったため、まったく支給されていない。

アメリカ2日目―too big…

2005-05-04 23:50:31 | レポート
アメリカレポートの続き、はじまりー。

●4月27日(水)
今日はワシントンDCへ移動日。電車で3時間程度、夜までに着けばよいので時間に余裕がある。

世界三大美術館の一つ、メトロポリタン美術館(セントラル・パーク内)へ。
興奮する。
Iさんの家から地下鉄で、大荷物(スーツケース)を持ってテクテクと向かった。

いよいよ美術館。
いざ。
入ろうとしたら中から若く見えるガードマン(案内係?ベルボーイ?)が近寄ってきた。

「あなた、入れまへんよ」(英語で)
「え? なぜ?」
「荷物がでかすぎるんだよ」
「預かってくれるんじゃないの?」
「でかすぎるよ。無理」

ショック。しかしあきらめきれない。
「私はこの美術館を見るために、わざわざ日本から来たんだよ(うそ)。入れてよ。またはこのあたりにロッカールームはないの?」
「無理。ロッカーもない」
そして極めつけ。
「9・11以降はもうだめなんだよ。アイム・ソーリー。」

9・11と聞いたらもうあきらめるしかない。しばし呆然としたが、ロッカーを探して歩き始めた。

セントラルパーク内に、観光案内所があると言う。そこを目指して歩き出した。
方向音痴だった。
大いに道に迷いながら、でかいスーツケースを持ってひたすら歩いた。

ようやく見つけたが、全然だめだった。ロッカーなんて知らないと言われた。

あまりにショックだったが、しかしあきらめきれない。比較的近くにJTB日本支社があると言う。
タクシーに乗って目指した。

やっと着いたJTBは大きなビルの中。
まずビルのフロントで、パスポートをチェック。顔写真まで撮られた。
JTBに行ったら日本人が。せつない気持ちを吐露したが、NYにはロッカールームはないらしい。もしかしたらヒルトンホテルなら、飛び入りの客でも荷物を預かってくれるかもしれない、と教えてくれた。

ふと時計を見やればすでに午後3時近く。お昼ご飯も食べてない。美術館は5時15分まで。
もうだめだ。今から行ってもたっぷり見れない。

本当にがっくりしながら、お昼を食べた。呆然としながら。

気を取り直して、ワシントンDCに向かうことにした。
ペンシルバニア駅でアムトラックという急行列車のチケットを購入。窓口はものすごい列になっていたので、カードで買う自動販売機で往復チケットを買った。うまくできるかな? どきどきしたが、チケットは往復分を手に入れることができた。

アムトラックはわりとゆっくり。イスはゆらゆらだけどアメリカンサイズなのでゆったり座ることができた。しかし寒かった。

DC到着。
今晩からユースホステルに3泊。地下鉄で向かう。
ユース到着。カードキーをもらった。おかしな安ホテルに入るよりもよほど安全。相部屋の人々もみんな親切だった。孤独な旅の身に染みるねえ。

一息ついて、原水協代表団が泊まるホテルへ向かった。ご挨拶をかねて。
目的の人々には出会えなかったが、とりあえずお互い無事に着いたことに一安心。明日からツアーが始まる。

一晩目はユースでシャワーを浴び、ベッドに横になった。


写真はペンステーションにて電車を待つ人々。

アメリカ1日目-地下鉄出口ではまる

2005-04-27 14:04:59 | レポート
4月26日からアメリカへ旅立った。5月2日から始まる国連NPT(核不拡散条約)再検討会議に向けた5・1NY大行動を取材するため。日本原水協の約800人の代表団のほか、日本から約1000人が参加する。
私は平和新聞の取材のため、緊縮財政のもと原水協代表団とは別ルートで、日程的には乗っかりながら一人で旅立った。

●アメリカ1日目(4月26日)

ひとまずニューヨーク到着。
出発前から成田で1時間以上も足止めをくらった。

しかし無事にアメリカへ。
そして今晩お世話になる、Iさんと落ち合うことができた。
夜はしゃぶしゃぶを食べた。

アメリカでの核兵器廃絶の世論について印象を聞いた。
アメリカでは平和団体すらも核兵器について「廃絶」はあまりに突拍子のない課題」になっているらしい。
「縮減」はしても「廃絶」までは、まだ夢のような話だということだろうか。
しかしこのたび、ようやくある団体は「廃絶」を掲げたとか。

その変化の背景は…。

かなり適当な日記になってまった。
地下鉄の出口から出るとき、荷物が大きかったためにはまって動けなくなる場面があった。みんなが助けてくれた。あたたかいなあ。


写真は、泊めてくださったIさん。しゃぶしゃぶ店にて。