美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

三河島~南千住ぶらぶら紀行(その4)『あしたのジョー』のふるさとを訪ねて

2014年09月05日 00時57分43秒 | 報告
Iと私とは、同年代です。私たちが子どものころ、『あしたのジョー』と『巨人の星』に熱中したことは、以前に述べました。私たちが今回南千住を訪れてみようと思い立ったのは、実は、泪橋界隈を散策して『あしたのジョー』に描かれたドヤ街の世界にいささかなりとも触れてみたいと思ったからです。その楽しみを後に取っておいたのですね。

『あしたのジョー』→ドヤ街とくれば、ファンならまっ先に浮かんでくるのは、泪橋です。泪橋はもはや存在しないことはさすがに知っていたので、それを地名にとどめている泪橋交差点を求めて、私たちは、南千住駅を、言いかえれば小塚原刑場を南下したのでした。

五、六分ほど歩くと、「泪橋」の標識が見えてきました。もちろん、泪橋は見当たりません。交差点があるだけです。車の行き交いはなかなか激しいものがあります。Wikipediaによれば、泪橋は、かつて罪人が小塚原刑場に行くときに渡った橋で、思川に架かっていたそうです。その後思川が暗渠化されたときに泪橋も撤去され、地名として残るのみとなりました。この橋を渡りながら、罪人は娑婆世界との別れを惜しみ、罪人の縁者は罪人の無念を思ってその後ろ姿を見送ります。そういう哀しいドラマの無数の重なりが、この橋の名前にはしみ込んでいるとの由。

つまり、『あしたのジョー』が少年マガジンに掲載されはじめた一九六八年当時、すでに泪橋も思川もなかった。だから泪橋は、梶原一騎とちばてつやによるまったくのフィクションであるということになります。むろん、橋のたもとの「丹下拳闘クラブ」も。それを十二分に理解しながら、心はなおも泪橋を、思川を、「丹下拳闘クラブ」の存在を固く信じ、その所在をどこかで探し求めるのです。子どものころ、いかに深く『あしたのジョー』が心に刷り込まれてしまったのか。それを思うと、自分でも呆れ返ってしまうほどです。まあ、そういう中途半端な大人として、これからの人生も送ることになるのでしょう。



幻のドヤ街を求めてさらに南下し、私たちは「いろは会商店街」に迷い込みました。商店街の入口に構えの大きな交番があるのは、治安上の問題があるからでしょう。かつて山谷の人々の暴動があったそうですからね。ホームレスのオヤジさんたちが、廃業してシャッターの降りた店先でまだ明るいのに酒盛りをしています。また、あちらこちらに布団が敷いてあります。お洒落なお店などほとんど見当たりません。まるで、昭和三〇年代で時間が止まってしまったような構えのお店がたくさん見られます。汗と屎尿と煙草のヤニと腐った野菜が混じったような臭いまで昭和のままです。ここはまさしく、ドヤ街の真っ只中の商店街なのです。ちょっと路地に入ると、一泊二〇〇〇円前後の安宿がごろごろあります。映画「三丁目の夕日」のセットのような古い家屋が何軒も続いていたりします。地元の人々がここを「ジョーのふるさと」と自称しても、誰も小首をかしげたりはしないでしょう。そう自称することで、いささかなりとも経済効果が生じれば、もって祝すべし、です。Iは、雑貨屋で一五〇〇円のレトロな扇風機を買いました。むろん、新品です。私は、あしたのジョーにちなんだグローブ・パンを買おうと思いましたが、売り切れてしまっていました。左右のグローブのなかには、それぞれ、ジャブ⇒ジャムと、腰に粘りがある⇒あんとが入っているとの由。

三河島から南千住、そうして台東区の北端まで、歩き通しだった私たちは、そろそろ限界に近づいてきたようです。曇空とはいえ、まだ真夏ですからね。それでちょっと休もうということになり、目に入った喫茶店に入り、迷わずアイスコーヒーを注文しました。なんだかんだとけっこう長い間しゃべっていたのですが、なかなか注文の品が出てきません。お店に確認しようかとも思ったのですが、まあいいか、ということでさらに数分間待ちました。しびれを切らしそうになったところでやっと注文の品が来ました。すると、びっくり。これがじつに美味しいのです。待ちくたびれた時間は、ひたすら美味しいコーヒーを作るために費やされたのでした。私はその美味しさに、冗談抜きで、感動すら覚えました。こんなに美味しい珈琲を飲んだことが、これまであったのかどうか。注文票を確認してみたら、「カフェ バッハ」とありました。

後ほど調べてみたら、「カフェ バッハ」は、都内でも指折りの名店とありました。なにせ、一日に使う分だけを自家焙煎して、客ひとりひとりに心をこめて出しているというのですから、手間ひまがかかるはずですし、どうりでびっくりするほどに美味しいはずです。以下に、お店のHPのURLを掲げておきますから、お近くにお越しの際は、ぜひ当店にお立ち寄りください。そのチャンスを逸することは一生の損、とまで申し上げておきます。当店の珈琲を毎日飲むために、近くに引っ越してきた人までいるほどなのですから。お店に、すらっとした色白で一重瞼の若い美人のウェイトレスがいたことを申し添えておきます。在日朝鮮系の方でしょうか。お店がすっかり気に入ったので、帰り際、彼女に「とてもおいしかったよ」と言い残して店を後にしました。
http://www.bach-kaffee.co.jp/index.html

その後私たちは、南千住駅界隈の「大坪屋」という居酒屋で、ジョーと丹下のオヤジの幻影や小塚原の強烈な印象にたぶらかされながら(その居酒屋の立地が小塚原のど真ん中なのでした)、こころゆくまでお酒を呑みました。牛筋煮込みや冷やしトマトや身欠き鰊の塩焼きなどが二五〇円と格安なのにとても美味しくて、これまたびっくりしました。そうして、二五〇円のホッピーをかぱかぱ飲んで大満足で店を後にしました。老若男女、なんだか面白い客がたくさんいたような気がしますが、こまかいことは忘れてしまったので、それには触れないでおこうと思います。(おわり)
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三河島~南千住ぶらぶら紀行(その3)芭蕉・小塚原

2014年09月04日 00時03分34秒 | 報告
円通寺を後にした私たちが次に訪れたのは、荒川ふるさと文化館でした。そこで私たちは、千住と松尾芭蕉とのつながりを知ることになりました。芭蕉のパネル展が開かれていたからです。



上に掲げたのは、同館の隣にある素盞雄神社(すさのおじんじゃ)にある句碑の拓影です。『奥の細道』には、上記のように「千寿といふ所より船をあがれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ  行春や鳥啼き魚の目は泪」という記載があります。そのなかの「千寿」が実は「千住」だったとは、いまのいままで気づきませんでした(高校時代、そう教えられたのかもしれませんが)。

芭蕉は、元禄二年(一六八九)の旧暦三月二七日、慣れ親しんだ深川を後にして舟に乗りこみ、隅田川をさかのぼり、千住で舟を降りて、見送りの友人や弟子たちに別れを告げます。取り巻きの人々はおそらくそこまで一緒に舟に乗ってきたのでしょうね。これが奥の細道の旅のはじまりです。「千寿より舟をあがれば」ではなくて「千寿というふ所より舟をあがれば」という言い方をしているところに、大江戸の真っ只中に住んでいた都会人・芭蕉からすれば、当時の千住がいかに辺鄙な場所としてイメージされていたのかがうかがえます。高校時代は、教師から上記の「行春や鳥啼き魚の目は泪」が名句なのだと教えられても、どこかピンとこなかったのですが、当時の千住のイメージや、芭蕉の友人や弟子たちの名残惜しさの尽きない様子や、これからの旅の困難さを思い浮かべれば、とても良い句であることが納得できます。旅先で病気をしても医者などいないのが当たり前なのですから、野垂れ死に覚悟の旅と言っても大袈裟でもなんでもないのですよね。

「千寿」=「千住」といえば、いまの足立区北千住駅一帯を指します。荒川区の南千住は、「南」を略して呼ばれることはまずないと言われています。そうすると、芭蕉はおそらく、南千住からすれば、千住大橋を渡った向こう側で下船したのでしょう。だから、「千寿といふ所」という言い方になるのではないかとも思われます。当時、南千住までは大江戸と認識されていたようですからね。となると、川向こうの足立区を歴史的にどうとらえたらよいのか、俄然興味が湧いてきます。東京二三区の中で公立小中の学力がいつも最低であることと何か関係があるのでしょうか。これは、足立区を馬鹿にしているのではなくて、純粋に歴史的知的興味です。

しばし、芭蕉の旅に思いを馳せ、美しい素盞雄神社を参拝した後、私たちはコツ通り商店会を五〇〇メートルあまり南下して、小塚原(こずかっぱら)刑場跡に向かいました。「コツ通り」の「コツ」は、小塚原の「コズ」とも、あるいは、「骨(コツ)」とも言われています。どこを掘っても人骨だらけだから、というわけです。

小塚原は、品川・南大井の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸のかつての刑場でした。鈴ヶ森刑場が、江戸の南の入口(東海道)に設置されていたのに対して、小塚原は、北の入口(日光街道)に設置されていました。広さは、間口六十間(一〇八m)、奥行三〇間(五四m)、創設は一六五一(慶安四)年との由。明治初めに廃止されるまで磔(はりつけ)・斬首などが執行されました。

ちょっと調べてみて分かったのですが、江戸の刑場は、もともと「北の浅草」「南の芝」の二ヶ所に設けられていました。幕府成立から半世紀近く経って江戸の人口も増え人家も建ち並ぶようになったので、郊外に移されることになったのです。浅草から千住へ移されたのが「小塚原刑場跡」、芝から南大井に移されたのが「鈴ヶ森刑場跡」です。

小塚原刑場の刑死者を供養するために、一六六七(寛文七)年、刑場に隣接して創建された回向院は、常磐線敷設の際に分断されました。そのうち南側が独立して延命寺となりました。

私たちはまず、北側の回向院に行きました。薄暗い建物のなかをくぐり抜けると、突き当たりに橋本左内や吉田松蔭の墓がありました。むろん彼らは、小塚原で処刑されました。普段は世間をすねた目で見たようなことばかりを嘯いている私たちですが、吉田松蔭の墓の前では、なぜかすんなりと合掌してしまいました。二人の墓はほかのよりひときわ大きく造られています。吉田松蔭などは、おそらくそのことをいぶかしがっているのではないでしょうか。「なぜ拙者の墓は、ほかの者たちと同じ大きさではないのか」と。二・二六事件の首謀者のひとりである磯部浅一の小さな墓も妻の墓と一緒にひっそりと出口付近にありました。『解体新書』を書いた杉田玄白らが、死体の腑分けに立ち会ったのもこの場所です。

次に、常磐線の線路を挟んで南側の延命寺・小塚原刑場跡に行きました。曇り空を背景にした「首切り地蔵」の大きな姿が目に飛び込んでくるやいなや、私は思いました、「ここには、強烈な怨念がゆらいでいるような気がする」と。その思いはいまでも変わりありません。なんともいえない雰囲気なのです。「首切り地蔵」などというと、なにやらおどろおどろしい感じですが、刑死した人々の怨念を宥める慈悲深いお地蔵さんなのですよ。江戸時代の旅人たちは、この地蔵さんに両手を合わせてここを通り過ぎたそうです。


首切り地蔵

こういう場所を分断したのは、あまりいいことではない、と思いました。また、いまでもそう思います。しかし、刑場跡をもっとひどい扱い方をしているケースがあるのですね。

江戸時代の西の刑場だった八王子の大和田刑場は、マンション建設等によってどうやら破壊されてしまって、跡形もなくなってしまっているとの由。お金儲けのために、都合の悪い歴史はないことにしてしまおうというわけでしょう。そういう、歴史をまったく尊重しない野蛮なゼニかねモダニズムは、結局のところなんかしらの形でしっぺ返しを喰らうにちがいない。そう思います。いまからでも、悪いことはいわないから、ちゃんと慰霊塔を建てるべきでしょう。それがマトモな人間のすることです。
(この稿、つづく)
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三河島~南千住ぶらぶら紀行(その2)円通寺

2014年09月02日 22時43分24秒 | 報告
JR常磐線と五〇〇メートルほど隔たった並行な通りを歩いているうちに、南千住警察署を通りかかりました。すると、柄シャツを着たあんちゃん風な人物と数名の若い警察署員との間で、いささか剣呑なやりとりをしています。どうやら、あんちゃん風が警察署の前の歩道に自転車をとめているのをおまわりさんから咎められているようです。あんちゃん風のセリフがふるっています。「オレが子どもンころは、別にとめてもよかったんだけどよぉ」。お前たちより顔が古いんだぞと言いたいのでしょう。おまわりさんも苦笑するほかありません。なんとなく、このあたりの土地柄がにじみでているような珍事でした。少なくとも高級住宅街では決して見られない光景です。

そのあたりを歩いていると、ちょっと風変わりなお寺が後ろ向きに見えてきました。タイの寺院風な尖塔が空高く突き出ているのです。タイ・フリークのIが興味を示したので、日光街道に出て表に回ってみることにしました。すると私たちの目に、墨で書かれた大きな「円通寺」の文字が飛び込んできました。Iはおもわず「ここだったのか」とつぶやきました。彼にとって円通寺は、今回の散策のお目当てのひとつだったのです。

Wikipediaによれば円通寺は、寺伝によれば、七九一年(延暦十年)坂上田村麻呂によって開かれた由緒あるお寺です。明治維新のとき、一八六八年(慶応四年)の上野戦争で亡くなった彰義隊(幕府側)の隊員を、このお寺の住職が弔ったのが縁で、弔った場所の近くにあった上野寛永寺の黒門(総門)を円通寺に移築し、彰義隊員の墓もそこにあります。私たちはその門に入り、榎本武揚の名が刻印された墓碑を確認しました。そのまわりには、私たちが耳にしたことのない隊員たちの名が刻まれた墓が少なくとも三〇くらいはありました。またそこは、一九六三年に起こった吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体が発見された場所でもあります。敷地内に、同事件にちなんだ立派な慰霊地蔵がありました。いまでは交通量の多い通りに面していますが、当時は閑散とした場所だったのでしょう。吉展ちゃん事件については、私が幼少のころ親たちが話題にしていたのを覚えています。私の本名の「ヨシ」と同音だということを、母は何度も私に言った記憶があります。

円通寺から歩いて五〇〇メートルもないところに浄閑寺があるのですが、今回は行きませんでした。このお寺は、安政二年(一八五五年)の大地震で犠牲となった、新吉原の遊女たちの遺体が投げ込まれたとの伝承から「投込寺」とも呼ばれています。そのお寺から目と鼻の先にかつての吉原があったのです。Iと私は、大江戸が果てる北東あたりをさまよっていることになります。そこに漂っている歴史の濃密な空気にあてられながら、私たちはぶらぶら紀行を続けましょう。(この稿、つづく)
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三河島~南千住ぶらぶら紀行(その1)三河島界隈

2014年09月01日 11時31分09秒 | 報告
八月二七日に、私は、JR常磐線の三河島から南千住まで五時間ほどぶらぶらと散策をしました。Iという、歴史を愛好する同好の士といっしょだったので、とても楽しいひと時となりました。

そのときのことを、少しずつ書き進めていこうと思います。

三河島駅界隈は、新大久保と並ぶ東京有数のコリアタウンです。新大久保が一九八〇年代以降のいわゆるニューカマーの街なのに対して、こちらは大正年代以降に移住したオールドカマー系在日が多く、古い下町の商店街にハングルで書かれた小さな看板の店が散見されます。赤文字の鄙びた看板の喫茶店。職人芸がご自慢の時計修理店。小ぶりな一般住宅と同じく小ぶりな商店が道の両側にさりげなく混在して並んでいるひっそりとした街。韓流グッズ店が乱立し、観光地化がはなはだしい新大久保とはうって変わった、貧しい昭和の面影を残した街。行政の「愛」が行き届いているとは言い難い街。それが、三河島に対して抱いた私の印象です。これは、私なりの精一杯のほめ言葉なのですが、お分かりいただけるでしょうか。私たちが歩いたのは、荒川仲町通り商店街でした。

地図上で「三河島」という地名がなくなったのは、一九六二年(昭和三七年)に起こった三河島事故によって、同地名のマイナス・イメージが全国レベルで広まってしまったためと言われています。同事故は、常磐線三河島駅構内での列車多重追突によって、一六〇名の死者と二九六名の負傷者を出した大惨事です。そのマイナス・イメージを払拭するために、一九六八年の住居表示施行を機に一帯の「三河島町」という町名は消滅しました。私見によれば、町名を消すことで都合の悪い歴史をもみ消してしまおうとする役人的発想は、とてもつまらないと思います。良いことも悪いこともふくめての「歴史」なのですから。地名は、そのすべてを貪欲に吸い込んで、生き延びていくものなのではないでしょうか。

荒川仲町通り商店街を通り抜けた後、私たちは、明治通りや都電荒川線荒川区役所前駅の踏切を渡って、荒川一丁目を過ぎ南千住一丁目に入っていきます。西から東へ、地図上を左から右に、常磐線とおおむね平行に移動していることになります。
(この稿、つづく)
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