拙著『マルクスの空想的社会主義』にて、アマゾンの該当欄に以下のようなレビューが寄せられていました。日付は2020年8月24日となっていますが、私が気付いたのはつい先日のことでした。
牧野本に親しんできたと書かれています。しかし、問題がないかといいますと、やはりイマイチだと思います。
わたくしが答える前に、皆さんの議論を求めるのが適切だと判断した次第です。
2020年8月24日に日本でレビュー済み
著者は、この本の目的を「マルクスとエンゲルスの社会主義思想は空想的社会主義思想の一種でしかなかった」ということを証明することと言います。さらに、科学的社会主義の「科学」とは、マルクス・エンゲルスがヘーゲルから受け継いだ「科学」、つまり、「事柄の生成の必然性の証明」であると主張します。つまり、「マルクスとエンゲルスの社会主義思想は空想的社会主義思想の一種でしかなかった」とは、マルクス・エンゲルスは、社会主義社会さらには共産主義社会の到来の必然を証明できなかったという意味でしょう。
ここで著者は「空想から科学へ」の本文から、彼らの社会主義思想が「科学」になったという根拠として「唯物史観の発見と剰余価値の発見の二つ」を挙げ、その両方をマルクスの功績としている文章を見つけます。
そこで「唯物史観」を再検討するために「経済学批判の序言」を、「剰余価値の発見」を再検討するために「資本論」を検討します。原文の翻訳と細かい注釈作業を通して検証が進むのですが、著者の主張を大ざっぱに言えば、「唯物史観」における「生産力が生産諸関係を規定する」という命題や、土台と上部構造の関係は、いずれも一義的な決定ではないということでしょう。だから、「剰余価値の発見」を端緒として資本主義の運動を解明できても、それが社会主義という特定の社会形態の「到来の必然性」に直結しないということのようです。(社会主義が到来しないことの必然の証明ではありません)。
著者の本に親しんできた者として残念なのは、これほど大胆な命題の証明が、一冊中に収められた翻訳や小論や、注釈の中に分散していることです。また、ぜいたくを言えば、「マルクスとエンゲルスの一番大きな見落としは、フランスの社会主義思想が性善説に立ち、ドイツ観念論が性悪説に立つものであることの矛盾に気がつかず、無意識のうちに単純に両者を結合したことです」などのくだりも詳しい展開を読みたいと感じました。
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牧野本に親しんできたと書かれています。しかし、問題がないかといいますと、やはりイマイチだと思います。
わたくしが答える前に、皆さんの議論を求めるのが適切だと判断した次第です。
2020年8月24日に日本でレビュー済み
著者は、この本の目的を「マルクスとエンゲルスの社会主義思想は空想的社会主義思想の一種でしかなかった」ということを証明することと言います。さらに、科学的社会主義の「科学」とは、マルクス・エンゲルスがヘーゲルから受け継いだ「科学」、つまり、「事柄の生成の必然性の証明」であると主張します。つまり、「マルクスとエンゲルスの社会主義思想は空想的社会主義思想の一種でしかなかった」とは、マルクス・エンゲルスは、社会主義社会さらには共産主義社会の到来の必然を証明できなかったという意味でしょう。
ここで著者は「空想から科学へ」の本文から、彼らの社会主義思想が「科学」になったという根拠として「唯物史観の発見と剰余価値の発見の二つ」を挙げ、その両方をマルクスの功績としている文章を見つけます。
そこで「唯物史観」を再検討するために「経済学批判の序言」を、「剰余価値の発見」を再検討するために「資本論」を検討します。原文の翻訳と細かい注釈作業を通して検証が進むのですが、著者の主張を大ざっぱに言えば、「唯物史観」における「生産力が生産諸関係を規定する」という命題や、土台と上部構造の関係は、いずれも一義的な決定ではないということでしょう。だから、「剰余価値の発見」を端緒として資本主義の運動を解明できても、それが社会主義という特定の社会形態の「到来の必然性」に直結しないということのようです。(社会主義が到来しないことの必然の証明ではありません)。
著者の本に親しんできた者として残念なのは、これほど大胆な命題の証明が、一冊中に収められた翻訳や小論や、注釈の中に分散していることです。また、ぜいたくを言えば、「マルクスとエンゲルスの一番大きな見落としは、フランスの社会主義思想が性善説に立ち、ドイツ観念論が性悪説に立つものであることの矛盾に気がつかず、無意識のうちに単純に両者を結合したことです」などのくだりも詳しい展開を読みたいと感じました。
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私は、約30年前に古書店で鶏鳴双書の「精神現象学」を手にとって感銘を覚えてから、手に入る度に双書を読んできた者です。哲学教育を受けた者でもなく、ドイツ語も初等の文法書を読んだ程度ですから、牧野さんの思考がしっかり分かっているとは申せませんが、本書についてあらすじ的にでも紹介することで、タイトルに関心を抱いた読者が抵抗なく手に取れるようにと思いました。
確かにレビュー中に、土台と上部構造の関係が一義的でないと書いたのは不正確で、その関係は意味論的には一義的と言えるし、生産力が生産諸関係を規定するという場合の「規定」が一義的でないとしても、なぜ一義的でないのかについて説明せず、舌足らずだったかもしれません。ただ、短いレビューの中で「労働と社会」に説かれているような、感覚の直接性を断ち切る思考の性質や、それに由来する人間社会と動物社会との差異などを展開するのはためらわれました。また、一義的に決定されていないという点を展開すると、すぐに重層決定についての議論かなどと早とちりする読者もいるでしょうから、実際、読んでもらうのがいいと思った次第です。
また、本書をまとまった一本の論文のように書いてほしかったという要望は、牧野さんの文章に接するのが初めての読者は、どこから理解していいか見当がつかないだろうなと思ったからで、書いた通り、単なるぜいたくです。出版の意図や経緯を知らないので何とも言えないのですが、「いやしくもわたくしについてこようとする読者は、個別的なものから一般的なものへとよじのぼってゆく覚悟をきめなければならないからである」という経済学批判序言の言葉が聞こえるような気がします。
レビューというからには正確な解説を期すべきだったかもしれませんが、悪意を薄めるという自分の目的には足りると考えた結果、ああした原稿になりました。牧野さん始め、他の方々にも、どう書くべきだったかなど批判をたまわれば幸いです。