参考
01、ヘーゲル論理学の中からこの分野[論理学]でのヘーゲルの真の発見を含んでいる核を取り出して、観念論的な覆いで包まれている弁証法的方法を単純な形に作り替えて、思考の発展に役立つ正しい形にしたのはマルクスだけだったし、今でもマルクスだけである。(マルエン全集第13巻474頁)
02、確かにマルクスと私[エンゲルス]は、ドイツ観念論哲学から意識的な弁証法を救いだしてそれを自然と歴史の唯物論的な見方の中へと移し入れた唯一の者であった。 (マルエン全集第20巻10頁)
03、この2つの発見、即ち唯物論的な歴史観と剰余価値によってなされる資本主義的生産の秘密の暴露とは、我々がマルクスに負っているものである。(マルエン全集第20巻26頁)
03、同じ価値量は常に同じ価値量と交換される事を前提してさえなぜ買い入れたよりも高く売る事が出来るのかという問題、この問題を解決した事がマルクスの著作の最も画期的な功績である。(マルエン全集第20巻188-9頁)
04、私について言えば、近代社会における階級の存在を発見した事も、それらの階級の間の闘争を発見した事も、私の功績ではない。私よりずっと前にブルジョア歴史家が階級闘争の歴史的発展を叙述していたし、ブルジョア経済学者は階級を経済学的に解剖していた。
私が最初にした事は次の展の証明である。①階級の存在は生産の一定の歴史的発展段階だけとしか結びついていない事、②階級闘争は必然的にプロレタリアートの独裁に導く事、③この独裁は、全ての階級の止揚と無階級社会への過渡期でしかない事、以上3点の証明である。(ワイデマイヤーへの手紙1852年3月5日付け)
感想・マルクス主義の核心はプロレタリアート独裁の思想である。これを認める者のみがマルクス主義者である。レーニン主義の核心はその独裁の道具としての前衛党の思想である。
05、無政府主義者の世界観は裏返しにしたブルジョア世界観である。彼らの個人主義的理論や個人主義的理想は社会主義とは正反対である。彼らの諸見解は、抑えようの無い勢いで労働の社会化へ進んでいるブルジョア体制の未来を言い表すものではなく、この体制の現在どころかその過去を言い表わす。即ち、ばらばらな単独の小規模生産に対する偶然の盲目的支配を言い表すのである。
政治闘争の否定に帰着する彼らの戦術は、プロレタリアを分裂させ、彼らを実際にはあれこれのブルジョア政治の消極的な参加者に転化する。なぜなら、政治から遠ざかることは労働者には出来ないことだからである。(レーニン全集第10巻59頁)
06、我々には革命的権力が必要であり、(ある過渡的な期間には)国家が必要である。この点で我々は無政府主義者と違っている。革命的マルクス主義者と無政府主義者との違いは、前者が集中された大規模な共産主義的生産に賛成し、後者が細分された小規模の生産に賛成するという点にだけあるのではない。そうではない。ほかならぬ権力の問題、国家の問題における違いは、我々が、社会主義を目指す闘争のために国家の革命的諸形態を革命的に利用することに賛成し、無政府主義者はこれに反対するという点にある。(レーニン邦訳全集第23巻359頁、「遠方からの手紙3」)
07、マルクス主義者であるのは、階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認にまで押し広げる人だけである。(レーニン邦訳全集第33巻444頁、「国家と革命」第2章第3節)
08、マルクス主義者と無政府主義者との違いは次の点にある。
①国家の完全な廃絶を目標とする前者は、社会主義革命によって階級が廃絶された後、国家の死滅に導く社会主義を建設して初めてこの目標を実現できる事を認める。後者は、この廃絶を実現できる条件を理解していないので、今日明日にも国家を完全に廃絶しようとしている。
②前者は、プロレタリアートが政権を戦い取った後、古い国家機構を完全に破壊し、武装した労働者の組織から成るコミューン型の新しい国家機構で取り替える事の必要性を認める。後者は、国家機構の破壊は主張するが、プロレタリアートがそれに代わるものを作り、革命的権力を利用する方法については明確な理解を持たない。プロレタリアートが国家権力を利用する事自体、プロレタリアートの独裁さえ否定している。
③前者は、今日の国家を利用してプロレタリアートに革命の準備をさせる事を要求するが、無政府主義者はそれを否定する。(レーニン邦訳全集第33巻444頁、「国家と革命」第6章第3節)
感想・レーニンが今、生き返って、その後の「社会主義」の「発展」を見たら、どう思うでしょうか。
09、問題は、マルクス主義と無政府主義とが2つとも社会主義の旗のもとに闘争の舞台に立ちあらわれているにもかかわらず、まったく違った原理の上に築かれている、ということにある。
無政府主義の土台石は個人であって、無政府主義の考えでは、個人の解放が大衆や集団を解放するためのもっとも重要な条件である。無政府主義の考えによると、大衆の解放は個人が解放されないうちは不可能である。そこで、無政府主義のスローガンは「すべては個人のために」である。
マルクス主義の土台石はといえば、それは大衆であって、マルクス主義の考えでは、大衆の解放が個人を解放するためのもっとも重要な条件である。すなわちこマルクス主義の考えでは、個人の解放は大衆が解放されないうちは不可能である。そこでマルクス主義のスローガンは「すべては大衆のために」である。(スターリン「無政府主義か社会主義か?」
国民文庫版『弁証法的唯物論と史的唯物論』石堂訳9-10頁)
感想・スターリンなどは今では全然顧みられなくなりましたが、スターリンの考えは好く好く研究する必要があります。なぜなら、スターリン主義というのは青二才左翼の塊だからです。そして左翼的運動を始めたばかりの頃にはほとんどの人が青二才左翼になるからです。
01、ヘーゲル論理学の中からこの分野[論理学]でのヘーゲルの真の発見を含んでいる核を取り出して、観念論的な覆いで包まれている弁証法的方法を単純な形に作り替えて、思考の発展に役立つ正しい形にしたのはマルクスだけだったし、今でもマルクスだけである。(マルエン全集第13巻474頁)
02、確かにマルクスと私[エンゲルス]は、ドイツ観念論哲学から意識的な弁証法を救いだしてそれを自然と歴史の唯物論的な見方の中へと移し入れた唯一の者であった。 (マルエン全集第20巻10頁)
03、この2つの発見、即ち唯物論的な歴史観と剰余価値によってなされる資本主義的生産の秘密の暴露とは、我々がマルクスに負っているものである。(マルエン全集第20巻26頁)
03、同じ価値量は常に同じ価値量と交換される事を前提してさえなぜ買い入れたよりも高く売る事が出来るのかという問題、この問題を解決した事がマルクスの著作の最も画期的な功績である。(マルエン全集第20巻188-9頁)
04、私について言えば、近代社会における階級の存在を発見した事も、それらの階級の間の闘争を発見した事も、私の功績ではない。私よりずっと前にブルジョア歴史家が階級闘争の歴史的発展を叙述していたし、ブルジョア経済学者は階級を経済学的に解剖していた。
私が最初にした事は次の展の証明である。①階級の存在は生産の一定の歴史的発展段階だけとしか結びついていない事、②階級闘争は必然的にプロレタリアートの独裁に導く事、③この独裁は、全ての階級の止揚と無階級社会への過渡期でしかない事、以上3点の証明である。(ワイデマイヤーへの手紙1852年3月5日付け)
感想・マルクス主義の核心はプロレタリアート独裁の思想である。これを認める者のみがマルクス主義者である。レーニン主義の核心はその独裁の道具としての前衛党の思想である。
05、無政府主義者の世界観は裏返しにしたブルジョア世界観である。彼らの個人主義的理論や個人主義的理想は社会主義とは正反対である。彼らの諸見解は、抑えようの無い勢いで労働の社会化へ進んでいるブルジョア体制の未来を言い表すものではなく、この体制の現在どころかその過去を言い表わす。即ち、ばらばらな単独の小規模生産に対する偶然の盲目的支配を言い表すのである。
政治闘争の否定に帰着する彼らの戦術は、プロレタリアを分裂させ、彼らを実際にはあれこれのブルジョア政治の消極的な参加者に転化する。なぜなら、政治から遠ざかることは労働者には出来ないことだからである。(レーニン全集第10巻59頁)
06、我々には革命的権力が必要であり、(ある過渡的な期間には)国家が必要である。この点で我々は無政府主義者と違っている。革命的マルクス主義者と無政府主義者との違いは、前者が集中された大規模な共産主義的生産に賛成し、後者が細分された小規模の生産に賛成するという点にだけあるのではない。そうではない。ほかならぬ権力の問題、国家の問題における違いは、我々が、社会主義を目指す闘争のために国家の革命的諸形態を革命的に利用することに賛成し、無政府主義者はこれに反対するという点にある。(レーニン邦訳全集第23巻359頁、「遠方からの手紙3」)
07、マルクス主義者であるのは、階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認にまで押し広げる人だけである。(レーニン邦訳全集第33巻444頁、「国家と革命」第2章第3節)
08、マルクス主義者と無政府主義者との違いは次の点にある。
①国家の完全な廃絶を目標とする前者は、社会主義革命によって階級が廃絶された後、国家の死滅に導く社会主義を建設して初めてこの目標を実現できる事を認める。後者は、この廃絶を実現できる条件を理解していないので、今日明日にも国家を完全に廃絶しようとしている。
②前者は、プロレタリアートが政権を戦い取った後、古い国家機構を完全に破壊し、武装した労働者の組織から成るコミューン型の新しい国家機構で取り替える事の必要性を認める。後者は、国家機構の破壊は主張するが、プロレタリアートがそれに代わるものを作り、革命的権力を利用する方法については明確な理解を持たない。プロレタリアートが国家権力を利用する事自体、プロレタリアートの独裁さえ否定している。
③前者は、今日の国家を利用してプロレタリアートに革命の準備をさせる事を要求するが、無政府主義者はそれを否定する。(レーニン邦訳全集第33巻444頁、「国家と革命」第6章第3節)
感想・レーニンが今、生き返って、その後の「社会主義」の「発展」を見たら、どう思うでしょうか。
09、問題は、マルクス主義と無政府主義とが2つとも社会主義の旗のもとに闘争の舞台に立ちあらわれているにもかかわらず、まったく違った原理の上に築かれている、ということにある。
無政府主義の土台石は個人であって、無政府主義の考えでは、個人の解放が大衆や集団を解放するためのもっとも重要な条件である。無政府主義の考えによると、大衆の解放は個人が解放されないうちは不可能である。そこで、無政府主義のスローガンは「すべては個人のために」である。
マルクス主義の土台石はといえば、それは大衆であって、マルクス主義の考えでは、大衆の解放が個人を解放するためのもっとも重要な条件である。すなわちこマルクス主義の考えでは、個人の解放は大衆が解放されないうちは不可能である。そこでマルクス主義のスローガンは「すべては大衆のために」である。(スターリン「無政府主義か社会主義か?」
国民文庫版『弁証法的唯物論と史的唯物論』石堂訳9-10頁)
感想・スターリンなどは今では全然顧みられなくなりましたが、スターリンの考えは好く好く研究する必要があります。なぜなら、スターリン主義というのは青二才左翼の塊だからです。そして左翼的運動を始めたばかりの頃にはほとんどの人が青二才左翼になるからです。