すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

ライブドアのPJってマトモな人はいないの?

2005-04-05 17:18:06 | メディア論
 ご存知の通りライブドアでは、「パブリック・ジャーナリスト」(PJ)なるものを一般公募している。ところがこのPJ、掲げたコンセプトはまずまずなのに、関わっている人たちの言動がどうもあやしい。で、結局、「PJってなんだかうさんくさいな」てなイメージになってしまう。非常に残念である。

 PJには、もっとまともなことを言える人っていないんだろうか?

 たとえばPJの小田光康氏は4月2日付の「ライブドア・PJニュース」で、「『言論江湖』署名記事というPJの勇気【東京都】」と題してこう書いている。

『最近、「パブリック・ジャーナリスト(PJ)とブロガーの違いは何ですか」といった質問をよく受ける。(中略)それは、PJが勇気を持って署名記事で自身の存在を明かし、社会に向かって主張をしている点である』

 署名記事を書くという行為は、「勇気を持って」などとことさら強調しなけりゃならないほど「大変なこと」らしい。

 私事で恐縮だが、私は今まで雑誌にさんざん雑文を書いてきた。で、私の記事を無署名にしようとする編集者とは、必ずといっていいほどひと悶着起こしている。

 まあそれらのケースに関して言えば、原稿が無署名になるのは書いたページの体裁上、ハナから決まっていることだ。編集者にすれば、それを「署名にしろ」と言われても困るだろう。

 だがなぜ署名にする必要があるのか、私の主張はその都度述べてきた。で、現場のデスククラスじゃ決裁できないからと、編集長あずかりになったケースもある。こんなやつはサラリーマン編集者から見れば、まったく「めんどくさい人間」だろう。まあ私も年を取ったから相手の立場もわかるし、今ではもうそこまでやるつもりもないが。

 とはいえそんな私から見れば、「勇気を持って署名記事で自身の存在を明かし」てな理屈がサッパリわからないのだ。

 署名にし、「これは私が取材で得た結果であり、そこから導き出された私の言説である」と明示するなんて当たり前の話だろう。まあPJなるものは、そういうイロハから素人さんに教え込むものなんだ、ということならば了解ではあるけれど。

 また小田氏は同じ記事の中で、こうも書いている。

『匿名による誹謗中傷といったコメントやトラックバックの問題のとして(原文ママ)、それが、ネット上で社会に意見したい人々を躊躇させてしまう点だ。これでは表現の自由が保てない。実際、PJの方々からも、「署名入り記事を掲載すると、ネット上で罵倒されるのが怖い」といった意見が多く寄せられた』

 なーんだ。結局、「その程度の覚悟しかない人たち」の集団なのね、となってしまう。

 ところで小田氏は「ブログ時評」の団藤保晴氏と論争(といえるかどうかは疑問だが)をしている。この件について小田氏は、自身のブログ「私人的電脳日記」で、4月5日に「あとがきブログ時評批判」という一文を公開している。ちょっと長いが引用しよう。

『ライブドアのPJニュースについて論拠無き批判を繰り返している自称「全国紙の記者」(全国紙に記事が載らない記者は通常、全国紙の記者とは言わない)団藤保晴氏の論理破たんについて、不覚にも小生は理性を失いつつ、3回にも渡って殴り書きの批判を繰り返すという愚行を犯してしまった。
(中略)
 まあ、50歳を超えて受賞作どころか、本業で署名記事すら書けない輩の欲求不満の捌け口が、「ブログ時評」であることだけは、よく分かった。こんな輩を雇い続ける朝日新聞社の度量の深さには感嘆する。また、この先生の原稿を掲載しない朝日新聞には、ジャーナリズムの良心の残影を垣間見た』

 ちっともディベートになっていない。これではだれが読んでも、単なる誹謗中傷にしか見えないだろう。

 もっともこんなことを書くと小田氏から、「松岡というどこの馬の骨とも知れぬフリーの使い捨て100円ライターから、こざかしい批判があったが」などと罵倒を浴びせられそうで、とってもこわいわけだが。

 また同じ文章の中で小田氏はこうも書いている。

『ちなみに「ブログ時評」の事実誤認を挙げたらきりがない。例えば、ソニーに関して「ゲーム機や映画ソフトの儲けで食いつないでいる」と解説するが、ソニーの頼みの綱は今や金融業である。

 こんなことも知らずに、もっともらしくソニーの経営戦略にうんちくを語るのだから、無知の勇気とは恐ろしい。団藤氏への批判などは豚に真珠、思考の浪費そのものなのだ』

 もし「ブログ時評」に事実誤認が「山とある」ならば、なぜそれらをすべてあげないんだろう? そうした客観的な指摘をせずに、結局は「無知の勇気」とか「団藤氏への批判などは豚に真珠」なんていう主観的な罵詈雑言に終始している。

 小田氏はネット上にあふれる「匿名による誹謗中傷」を自分で批判していながら、「署名による誹謗中傷」なら許されるとでも思っているのだろうか? どうしてもっと建設的な議論ができないのか、残念でならない。

 一方、小田氏は同じくブログに掲載した「匿名で誹謗中傷する人々へ」(3月31日付)の中で、こんなことも書いている。

『なにやら、このブログの題名にもぐちゃぐちゃ言ってくる輩がいるが、名前を変更したのは、公に言いたいことはPJニュースや他の新聞・雑誌で、私的なことはここで、という線引きをしたためだ。
(中略)
だんどう氏(原文ママ)批判のあとがきは、削除したというより、操作を誤って消えてしまった、というのが実情だ。どなたか、あの文章を持っている方がこのブログに送ってくれれば、掲載します。アナクロな小生には、このブログを立ち上げるのさえ、一苦労だった』

 これだけでは、なにがなんだか事実関係がよくわからない。だが文脈から推測すると、どうやらくだんの団藤氏を批判した一文が、小田氏のブログ上から消えてしまったらしい。

「操作を誤って消えてしまった」というのだからその通りなんだろう。だが外から眺める傍観者たちには、こんな「イメージ」が残ってしまう。

「まちがえて消したって書いているけど……なんかちょっとなあ。なんのかんの言いながら、都合が悪くなるとブログの題名を変えたり、いったん書いた自分の文章を削除したりして、ちまちま立ち回ってる感じがするよな。信用できる人なのかなあ、この人は」

 事実関係がわからないから単なる「イメージ」にすぎないが、人間はイメージに大きく左右される生き物である。これでは小田氏にとってプラスにならないだろう。

 おまけに前述の文章から察するに、小田氏は公に他人を批判しようとしているのに、どうやらテキストエディタで下書きをしているわけでもなく、バックアップも取ってないらしい。ますます「信用できる人なのかなあ?」というマイナスイメージが補強されてしまう。

 一方、同じくパブリックジャーナリストである堀口剛氏は、自身のブログ「堀口剛のライブドア・パブリックジャーナリスト宣言」の4月2日付で、「署名記事というPJの勇気」と題する文章を公開している。こちらもちょっと引用しよう。

『ちなみに、このPJの場合、報酬は良くて1000ポイントです。しかし、金を多くもらったからといって、いい記事は絶対に書けないと思いますよ。そうなったら、賃金ジャーナリストさんになってしまう。そうなったらおしまいだ』

 私は堀口氏のこの言説に対し、ハッキリと批判しておく。「賃金ジャーナリストさん」とはいったいどういう意味か? ブロである以上、原稿を書いた対価をいただくのは当たり前だ。いい原稿を書いたら、そのぶん原稿料が上積みされたってちっともおかしくはない。

 私に言わせれば、堀口氏のような「銭金の問題じゃない」風のタテマエ的きれいごと、「武士は食わねど高楊枝」的なまったく意味のない「見せかけの立派さ」こそが、諸悪の根源だ。

 PJというのは何か新しいことをやろうとしてるらしい。だが関わってる人がこんな旧弊で頑迷な認識しかないのでは、そこから生まれてくるものだってどうせロクなもんじゃないんだろう、と思わせるに充分である。

 書く側にこんな低レベルのアマチュア意識しかないから、フリーランスで仕事をしている物書きのポジションや、当然プロに対して考慮されるべき保証(原稿料)が日本では向上しないんだ。

 私は匿名でものを言う輩とちがい、ブログのタイトルに自分の実名を掲げている人間だ。この件に関して何かもし反論があったなら、もちろん議論に応じるつもりだ。私を名指しで堂々と「あなたの意見はここがこうまちがっている」と批判してもらいたい。

 最後になったが、PJに対する私の個人的な考えを書こう。たとえばライブドアは「livedoor ニュース」の中で、「パブリック・ジャーナリスト募集」と銘打ち人々にこう呼びかけている。

『日本社会は高度成長期を経て世界の経済大国の仲間入りを果たしました。しかし、国民一人ひとりの豊かさへの実感はいまなお不十分です。一体それは何が問題なのでしょうか。そこで、livedoor ニュースでは、インターネットを活用したパブリック・ジャーナリストシステムを構築、それを通して生活の現場、仕事の現場から寄せられた生の声をお届けすることで、豊かさを感じさせない日本社会の問題点に光を当て、それらを一つひとつ解決に導いていく一助になりたいと考えています』

 なるほど、なかなかいい着眼点だ。このコンセプトにもとづいて、「国民を幸福にしない日本というシステム」を徹底的に検証する記事が、ガンガン上がってくれば見物である。現状、そうなっているのかどうかはさておき、ポイントはやり方の問題だろう。

 せっかく新しいことをやるんだから、大新聞と同じ土俵で、同じフレームワークに乗って活動するんじゃ意味がない。

 たとえばPJが力を発揮するとしたら、それは日常生活に潜む「ちょっとした違和感」や「ちょっとした不安」、「ちょっとした不服」、「ちょっとした輝き」を切り取ってくるときだろう。

 身近な町の話題でもいいし、自分の生活感を通して見える日本の姿でもいい。PJからたくさんの「ちょっとした」が発信されれば、人を動かす点火装置になりそうな気配がする。

 とまあ、そんな淡い期待を抱きつつ……。でも前述のような関係者たちの言動を見ていると、「どうもアテがはずれそうだなあ」とも思う今日このころである。

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