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風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

奈良井宿・馬籠峠

2007年10月30日 | 国内旅行
奈良井宿・馬籠峠 2007/10/27~28
阪急交通社の“錦秋の木曽路 馬籠峠を歩く 赤沢森林トロッコ列車2日間”のツアー


一日目:新宿7:40~奈良井宿11:30[1時間半]~赤沢自然休養林トロッコ列車2:30[1時間]~下呂温泉17:30[みのり荘]
二日目:ホテル8:00~舞台峠9:00~~馬籠宿10:00[1時間]馬籠峠ウォーキング11:10[2時間]~妻籠~けやき工房~山都飯田13:10発新宿19:30着 

台風が急襲したが出発。

奈良井宿

奈良井宿町並

鍵の手水場

浄龍寺

荒沢不動尊

上問屋資料館

大宝時 

  マリア地蔵尊[幼子を抱えた頭のない地蔵、地中から発見された、
  幼子が手にする蓮華は十字形をしていて隠れキリシタンのものではないかと言われる]
  
  入口には、かわいい七福神
  

法然寺

  厄除延命地蔵[残念ながら失敗、あじわいある顔をしている]
  

専念寺

  専念寺墓地
  
  専念寺から見た奈良井宿の町並
   

八幡宮


二百地蔵に行く杉並木、左は八幡宮


二百地蔵

この地蔵の前にも大きくたくさんの石碑・塚などが立ち並ぶ
奈良井宿の北の端で、眼下には小さな奈良井駅。

神明宮[行きに見落としたので]、だが、写真は失敗

長泉寺


かわいい道祖神


資料館・中村邸


時間が無くこれより南には行けなかった。
この先南には、若宮神社・鎮神社・楢川歴史民俗資料館がある。

赤沢自然休養林
森林鉄道・トロッコ列車が走る

トロッコ列車から
 
昔はこんな汽車が走っていた

8つの散策コース、鉄道沿いの木で作られた遊歩道がある。
行きはトロッコ、帰りはこの道を歩くのが良いのだが大雨なので往復ともトロッコにした。
下呂温泉・みのり荘に宿
二日目朝、みのり荘の庭から下呂温泉の町並を


舞台峠[源義経ゆかりの地というが、ツアーにつき物の買い物のための立ち寄り、関の刃物]


馬籠宿~今年七月に来て散策したので今回はその時見られなかった資料館などを見た。
馬籠脇本陣資料館[300円]
  
玄武石垣[坪庭]=資料館のトイレは階段を下りた地下にあった、実は地下ではなくそこは一階だった。
街道に面した入口は一階ではなく二階で、建物は三階建てになっていたのだ。
立派な石垣が庭にあった。


清水屋資料館[島崎藤村家と同じ様に宿村役人を務めた名家・原家の屋敷跡]
 

以下は、今年4月に来た時には時間が無くて来られなかった所、馬籠宿から中津川宿に行く途中に
馬籠城跡[丸山の坂]

諏訪神社
 
これ以上は行けなかった。

馬籠峠をバスで越えたところから、妻籠宿までウォーキング~上りはほとんど無く下り

立場茶屋[馬籠宿と妻籠宿のほぼ中間にあった]


歩いてきた馬籠宿方向

こちらは妻籠方向


男滝                  少し上流に、女滝
 

倉科祖霊社


大妻宿入口


大妻宿の民宿


妻籠宿~ゆっくり散策する時間は無かった:今年4月にも来た。
妻籠宿の町並


尾又

妻籠宿を散策するには更に40分ほど必要か、
2時間の時間設定は企画者の完全なミスだ。
従って、昼食をゆっくり取るには馬籠峠からは3時間以上は必要となる。

ケヤキ工房カネキン見学~ツアー恒例の実演販売
山都飯田水引博物館~これもツアー恒例の見学ショッピング

皆水引で作られている。

飯田発15:10 大月で渋滞となり、新宿に着いたのは19:30だった。
諏訪湖を過ぎて、南アルプスの八ヶ岳、富士山を見ることができた。

江戸時代、この道を旅するのは大変だったろうなとつくづく思った。
だが、こんな山奥でも旅することができたのは、藩・幕府の警察権力が十分に作用していたのだろうな、とも感じた。
また、庚申塚や地蔵などが数多くあるのは、行き倒れで死んだ人が多くいたことも想像させる。
木と紙でできた住宅は、この山村ではどんなに寒かっただろう、
昼でも暗い室内、人々は夜明けとともに起き、日の暮れに休んだのだろう。

大雨の中旅行したことはあっただろうか。
暗いのでシャッタースピードが遅くなり、傘を持ったままなので手ぶれをおこしてしまった。
妻と二人。参加者には若い人も二組ほどいたが、私達より高齢者も多かった。

ケヤキ工房カネキン・水引博物館は必要ないのだが、ツアーとしては仕方ないのかな。
どちらかをはずしてウォーキングに回せば、まことに申し分なかった。

ツアー料金は一人2万円2千円。参加者は約40人、これで採算があうのだろうか。
これだけ安いというのは、きっとどこかが無理をしているのだろう。
適正な価格とは思えない。
宿泊したみのり荘の部屋はバス・トイレなしの立派な部屋ではなかったが、
食事は食べきれない量で私達にはもっと少なくて良い、
温泉が良く、私達には不満はない。
交通手段はバスで、移動距離は一日400kmほど。
塩尻まで電車で行ってそこからバスが良いのだが、
ツアーとなると電車の指定席が取れないし、交通費が高くなってしまう、のだろう。
一日目の奈良井宿は雨でも歩けたが、赤沢自然林は雨が強すぎた。
晴れていたら、自然林散策はとても良かったと思うが、
晴れていれば、トロッコ列車は混んで乗れなかったかもしれない、とはやせ我慢。
両日とも移動は団体だが、後は自由行動なので自分のペースで歩ける。
宿には流石にコンビニが無く、昼はお握りなどで十分のだが、買えず苦労した。
奈良井宿はちょうど昼で、蕎麦屋に入ったが酒・ビールが無いのにはがっかり。
有名人の色紙がたくさんはってあったが、汁はショッパすぎ、
「お酒ありますか?」に、「飲み物はない」との返事。
ビール・地酒をおかないのはいかにも「こだわり」みたいな顔には頭に来た。
それで、ざるそばが千円。


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君の涙 ドナウに流れ

2007年10月26日 | 映画
君の涙 ドナウに流れ 2007/10/23 シネカノン試写会・日本教育会館

素晴らしい映画だ。
ハンガリー映画、クリスティナ・ゴダ監督作品、ハンガリー映画史上最高の動員を記録。2時間。かつて中央アジアの遊牧民だったと言われるマジャール人は匈奴に追われてハンガリーに移り住んだと言われる。その後紆余曲折を経たが、ヒラーの侵略を受け、ソ連によって「解放」された。しかしその実態は、資本主義からソ連を守る防波堤=属国であった。1956年東欧特にポーランドで自立の運動が起こり、ハンガリーにも波及した。この時代、ソ連は無誤謬・無条件擁護・防衛すべき社会主義・労働者の祖国であった。社会主義革命は資本主義列強の支配の鎖が弱かったロシアの地で起こり成功した。その当初からロシアには大国主義は確かにあったが、反帝国主義・民族平等の理念の方がはるかに勝り、トロツキーをはじめ多くのユダヤ人・少数民族出身者が指導者として活躍した。だが、ソ連の孤立・ソ連無条件擁護はロシア大スラブ主義と合体して、スターリン主義の病魔は恐るべきものだった。少数民族・ユダヤ人は抑圧され、東欧諸国はあたかもロシアの「属国・植民地」のようだった。
10月23日の日付は極めて運命的だ
1956年ハンガリー動乱は10月23日のデモから始まる。30年後の1989年10月23日、ハンガリーは社会主義を捨てて資本主義社会となった。その20年後、ハンガリー動乱の費から50年後の2006年10月23日この映画が公開され、その一年後の今日、10月23日試写会が行われた。この映画は、マジャール人はその歴史で様々の悲劇を味わうが、マジャール人としての誇り=アイデンティーは変わることなく受け継がれる、と言う。それは、冒頭と最後にマジャールの民謡が流れることで黙示される。戦車や銃も当時のものを探し出すなどディティールにもこだわり、また、ブタペストの町並もセットでない、と言う。何よりも私が良いなぁと思ったのは、ソ連兵の暴力を極めて禁欲的に描いていることだ、残虐なシーンはほとんどない、また、秘密警察の拷問も映像で見せない、だが、直接的に描くよりはるかに訴える。1956年ハンガリーブタペストのこの出来事の歴史的評価はこれまで様々であった。一方では民主化革命、他方ではファシストの反革命とまさに両極端であった。日本ではこのハンガリー動乱・革命を歴史的エポックとして、反共産党・反スターリン主義を掲げる新左翼の一つの流れが生まれた。この映画の主人公は水球のハンガリー代表のエース・カルチ(イヴァーン・フェニチェー)、とハンガリー独立学生連盟の美しい女性・ヴィキ(カタ・ドボー)。二人は学生集会で偶然出会う、当初ヴィキはカルチを冷たくあしらうが、10月23日に行われたデモで、秘密警察に仲間が殺されたことをきっかけに心を通わせる。カルチは秘密警察に「家族が大切ならば、金輪際ソ連の同志に刃向かうな」と脅される。カルチはオリンピック出場を捨て、運動に身を投じる。民衆の運動の前にソ連は撤退する。ヴィキに促されてカルチは再びオリンピックの行われるメルボルンに向かう。その時ソ連戦車部隊はUターンし、ブタペストでは市街戦が行われ、ソ連軍に鎮圧される。オリンピックではハンガリー対ソ連の水球の試合が行われ、ハンガリーが優勝する。この試合でカルチは暴行を受け右目の上を怪我する、ヴィキも同じように右目の上を怪我していた。カルチはヴィキから預かった母親の形見のロザリオ握りしめて表彰台に登る。ヴィキは、カルチから預かった腕時計を握りしめて処刑場に向かう。

ハリウッドのC級映画なら、水球選手の英雄が自分の思想信条に関係なくただ美しい女性のためにソ連軍と戦い、獅子奮迅の戦いをして、か弱い彼女を戦場から救い出しアメリカに亡命する、あるいは、運動のヒーローは死ぬが残された美女は彼の子を身ごもって生きていく、と言う安っぽいストリーだろう。カルチもヴィキも非凡で英雄ではあるがこの映画ではマジャール人の代表=民衆として描かれている。カルチは祖父・母・弟の四人家庭で祖父から「人生には反撃することもある」と言われ、母からは安定した生活を選んでと諭される、この単純な家族構成の中に民族の抵抗の歴史と今の幸せを壊したくないとの矛盾を象徴させている。ヴィキの両親は秘密警察に逮捕され、その際身を任せれば両親を助けるたと言われた。ヴィキは身を任すが、両親は殺された。この逸話は権力者は常にうそつきだ、ということを暗示する。また、ヴィキの運命も暗示する。捕まったヴィキは仲間を売れば許すと言われる。彼女は、スターリン・フルシチョフ・ラーコシ[ハンガリーの指導者]・フェリおじさん[秘密警察官]と書く。カルチ・ヴィキの家族の歴史を細々と説明しないのも良い。この映画について不満が四つ、ある。カルチとヴィキのベッドシーンは不要だ、水球選手の会話は下ネタ・女性に関するスラングばかりで一面的過ぎる、ヴィキが捕まるシーンは自首のようで不可解、投降の方が良かった、学生達がいずれも若くなく、老けていること。ソ連はもちろん間違いだが、だからといってアメリカが正しいわけではない。オサマビンラビン、フセインを支援したのはアメリカだし、チリのアジェンデ政権を倒したのもアメリカだ、もちろんインドシナの悲劇もそうだ。今日のパレスチナ問題の一番の責任はイギリスだし、中国の自国民主化運動への抑圧やミャンマー軍事政権支援・チベットや少数民族への対応など大国は今日なお他国・他民族を抑圧し続けている。かつて抑圧されたイスラエルは今パレスチナ人を抑圧している。さて以下余談、この映画は、シネカノン主催の試写会で見た。シネカノンは、有楽町に新たに「シネカノン有楽町2丁目」館をオープンさせ、その記念試写会。シネカノンは、映画配給の他、映画館を多数経営している。社長は李鳳宇(リ・ボンウ)さん、在日の人で、パッチギ・フラガールなどを送ってきた。日韓を新たにつなぐ。メジャーでない佳作映画を多数配給している。


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栂池自然園を歩く

2007年10月25日 | 国内旅行
栂池[つがいけ]自然園を歩く 2007/10/22

岩岳スキー場9:21のバス~栂池高原着9:33~ゴンドラリフト 栂池ヒュッテと山荘
 
ビジターセンター                  入口を入ると巨大なブナ
 
ヒュッテ記念館          ここから栂池自然園
 
雪を抱く白馬連峰          風穴[日陰には雪が]
 
ワタスゲ湿原           中間地点にトイレ
 
浮島湿原             モウセン池
 
時間に余裕はあったが、これ以降は道悪いので、引き返した。自然園を振り返り展望。ヒュッテ記念館を臨む
 
ゴンドラリフトからの展望 紅葉と雪     紅葉と里
 
紅葉とゴンドラ ゴンドラを下りて、蕎麦をツマミにビールを飲んで、栂池温泉足湯にたっぷり浸かる[無料]
 
栂池高原・自然園はとてもきれいだった。若い人は少なく圧倒的に中高年。いやだったのは、三脚のカメラだった。
「道からはみ出ないで」の注意書きなど無視、遊歩道をふさいだり、まさに傍若無人であった。急行バスで長野駅へ。
当初の計画では高速バスで帰る予定だったが、早く帰りたいので新幹線にした。13:50発~15:20着[すごいものでジャスト到着]、
予約していなかった新幹線に駆け足で乗った[15:27発]。座れたが、軽井沢で座席はほぼ満席となった。今回の三日間の旅は、
十分楽しんだがちょっと急ぎすぎた。塩の道紀行はもう少し歩きたかった。今回の塩の道紀行は、ろう者の方が多かったよ
うに思う。たくさんのろう者と交流もできた。リピーターが多く、再会をお互いに喜んだ。
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第7回聴覚障がい者のための塩の道紀行

2007年10月24日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
第7回聴覚障がい者のための塩の道紀行  2007/10/21

今回は、新潟県側を歩くことになった。歩き始め地点が遠くなったため、白馬村役場前集合は8時と早かった。
白馬村村長がご挨拶をした。マイクロバスで明星山麓に向かう。
出発前の風景。         明星山
 
標高1188m、岩はヒスイ。明星山はロッククライミングのメッカで、この日も三人がトライしていた。
ケアしている人に教えられて肉眼でかすかに見えたが、写真には写らない。明星山は太古にはニューギニア
の羽の色になるからと言われる。明星山の翡翠は、三内丸山遺跡、吉野ヶ里遺跡などでも発掘されている、と言う。
ヒスイのモニュメントと田中欣一さん  高浪の池[周囲1kmの静かな湖]
 
高浪の池の神社     ここから、山道に入る。
 
ナメコ 生きているナメコを見るのは初めて。

一昨日雨が降り、道はかなりぬかるんでいた。最近は人も通らない・下草刈りも行われないため、古道かどうかわからない箇所もあった。
大峰峠の地蔵

昔は、道端にたくさんの地蔵や庚申塚があり、人々の安全を祈った。立てられた所は行き倒れがあったところが多いという。
今日、人が交通事故で亡くなって立てられるのは地蔵が多いと言う。ここで、昼食となった。
長野のろう者・難聴者と一緒になった。ガイド風景

左は要約筆記、右は手話通訳、真ん中は田中さん=今年から携帯マイクとなった。手話サークルの吉沢さんが草花を
紹介してくれた。[黒モジ、黒花フキおろし=四角い茎の草、紫式部、木通・通草=あけび、などなど]
長命水

弘法大師が開いたとされる。ここまでは最後尾で歩いたので、ここから、田中先生と話しながら先頭で歩いた。
田中さんは、
「人類にとってここ百年だけが乗り物の時代で後はずっと歩きの時代だった」、「歩かなくなった民族は衰退する」
「1950年代から山村の崩壊・道の崩壊が始まった」「廃村・廃校を日本列島に赤で記すと真っ赤になる」という。
私は、神仏混交・多神教の日本と世界の多数派である一神教について話した。田中先生のモチーフは良寛上人=
土着信仰と言う。80歳を超えてなお全国を歩いている田中欣一さんである。今回、歩いた時間距離は短かった。
急勾配もあり、また足場が悪かった。だいぶ肌寒かった。ウォーキングシューズだったが、トレッキング・長靴
の方が良かった。田中先生は長靴を持参していた。
夕飯風景

この夜は、聞者は私一人、後はろう者で夫婦二組と男性三人だった。始めはゆっくり話してくれていたが、飲むほ
どに早口となり後半は大変であった。明日は早起きでないので遅くまで話した。
アルペン山荘と桜井さんご夫婦[写真を取り忘れた、これは、2006年6月のもの]
 
昨年までは、里山塾が主催であったが、今年は、手話サークル・要約筆記サークル・里山塾の共催となったそうだ。
“塩の道紀行”参加者と分かれる時の決まり文句は、「来年も元気でお会いしたいですね」。
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善光寺表参道七福神めぐり

2007年10月23日 | 国内旅行
善光寺表参道七福神めぐり 2007/10/20
10/20~10/22と長野・白馬を旅した。一日ずつ独立させた。10/20、大宮発9:06の“あさま”、長野に着いたのは10:20。
長野電鉄で善光寺下まで行き、そこから歩いたが、この電車、善光寺下までは地下を走り、景色が見えなかった。
善 光 寺   
 
 
山門              大勧進
 
濡仏              延命地蔵
 
経堂・輪廻塔                霊牌堂
 
左下に人の足が写っている、その大きさがわかる、お金を払って回すことができる、動かし始めは一人では動かない。
位牌をここに安置することができるそうだ。
濱頭盧尊仏[ビンズル尊は本堂にもあるがこれは屋外にあるもの] 善光寺本殿
 
長野のろうあ者に“善光寺の手話表現”を聞いたら、「屋根の形を大きく表現し、寺」とのこと、
本殿内 左中程にビンズル尊仏がある、本堂内・下を参拝することができる。

以前行ったので、今回は先を急いだ。鐘楼 ちょうど11時で鐘が鳴った。  もう一度山門
 
七五三で賑わっていた、女の子の写真を撮らせてもらった。
仁王門

今年は善光寺が再建されて300年、本堂は五色の幕に覆われている。善光寺はこれまで何回か来たことがある、
今回はかなりゆっくり回ったつもりだったのに、見落としたところもかなりあった。
長野駅から善光寺まではなだらかな上りなので逆に駅に向かって歩いた。善光寺の宿坊は39あるそうだ。
善光寺参道・七福神
1.世尊院・毘沙門天       2.西宮神社・恵比寿
 
                            3.フジヤゴホンジン・布袋[旧本陣/藤屋]

 
                                 番外・善光寺郵便局
 
ホテル・結婚式場、入口入った右の小部屋[中央の木の後ろあたり]に布袋尊がある。この日も結婚式があったよう。
番外・西方寺            4.往生院・弁財天
 
                        番外・北野文芸座=大衆劇場
 
5.秋葉神社・福禄寿[十念寺境内にある]、左の木の後ろ。6.大国主神社・太黒天
 
                       7.西光寺・寿老人
 
西光寺本堂・本尊=親子地蔵尊
 
この寺の開祖・苅萱上人と父を慕う息子の石童丸の物語で有名、それを絵で説明している、本尊も開放。
ご本尊が開放されているのは、いいな~。
寿老人                    針塚[東郷平八郎の筆]・右は芭蕉の句碑。
 
善光寺七福神は、社務所のない小さな神社や地図にも載っていないものもあった。長野駅から善光寺までは直線で2kmほど、
上り坂なので、逆に歩いた。13:10発の急行バスで岩岳[14:30]に、歩いてアルペン山荘、30分。この日、アルペン山荘に泊
まったのは、ろう者は例年参加している中野のHさん一人、難聴者が一人、後は聞者[7人]であった。
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浅草~レインボーブリッジを歩く

2007年10月15日 | ウォーキング
浅草~レインボーブリッジを歩く 2007/10/14
手話サークル・秋の遠足
電車で浅草、浅草寺を参拝し、水上バスでお台場へ、レインボーブリッジ遊歩道を徒歩で渡り、田町駅まで歩き、電車に乗った。

ー線:歩き ー線:船
浅草
浅草寺周辺地図

雷門                仲見世
 
平和地蔵尊             母子地蔵尊
 
二尊仏                扇塚[赤線囲みは芭蕉の句碑]
 
弁天堂                浅草神社[三社]
  
九代目市川団十郎の碑           カンカン地蔵尊
 
銭塚地蔵尊                影向堂
 
淡島堂                 映画弁士塚[トップは徳川夢声]
 
喜劇人の碑              三匠句碑[宗因、芭蕉、其角]
 
仁王像               五重塔と宝蔵門[仁王門]と仁王の草履
 
浅草寺本堂

浅草寺は大変なにぎわいであった。一時間半ほど自由行動だったので、浅草寺境内をゆっくり歩いた。普段気が付かない色んな地蔵や碑があった。昼ご飯は、釜飯“春”。
テプコ浅草館[色々なギャラリーイベント]

11月には銭湯博士・町田さん監修の銭湯の展示会が開かれる。
お台場・ウォーターフロント
左はレンボーブリッジ、赤線内は東京タワー、晴海埠頭方面
 
お台場、左はフジテレビビル     レインボーブリッジを渡り終えて
 
東京都観光汽船水上バス・ヒミコ

お台場の人出はそれほど多くはなかった。砂浜、若者がビーチバレーをしていた。レインボーブリッジを歩いて渡ったのは初めて、自動車、ゆりかもめ、人、が通る。休み休みで、一時間弱だった。

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釣りバカ日誌18

2007年10月14日 | 映画
2007/10/12
 
川口MOXIX、平日12:45、観客は20人。1000円。今回は、喜劇より人情劇の様。鈴木さん、ぼけちゃったかなって感じ、三國さんは良いなぁ。
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相撲部屋巡り3

2007年10月12日 | ウォーキング
相撲部屋巡り3 2007/10/11
 

JR総武線で、亀戸→新小岩
 
 
 
鏡山部屋の前は、境川。

写真真ん中の白い建物が鏡山部屋。細い川だがけっこう流れは急で、両側は木立・日陰で遊歩道が整備されている。地図の七差路のところで小さな滝があった、発電してるようだった。総武線の跨線橋、何車線あるのだろう、跨線橋の数は少ない、線路で街はすっかり分断されている。跨線橋を渡り終えると、
 
建物の右半分はマンションで、部屋は左半分のようだ。
JR総武線・小岩駅→山手線・日暮里駅へ

 
外国人の親子が部屋から出てきた。相撲部屋にはたくさんの自転車。

以前、西日暮里に住んでいたことがあるのに日暮里駅前を歩くのは初めてだ。日暮里駅前は変わっている。駅は高架で、急な階段の脇が消防署で、そこを降りると駅前広場は無く、狭い道路。狭い路地が入り組んでいて、地図と現場[方向]が一致しない。

駅前から、この旗が町中至る所に。この旗を掲げた布地、洋服、革のお店があちこち軒を連ねている。街は、ただ安売り、問屋街といったバタ臭さだけではなく、落ち着いた感じの店と煩雑とした下町が共存している、ちょっと不思議な感じ。そして、ハングルの看板もちらほら見かける。武蔵川部屋はそんな町中にある。武蔵川親方は元横綱三重ノ海で韓国出身あるいは在日と聞いたことがある[間違いかもしれないが]もしそうであって、部屋がこの地に作られたのはそのことが関係していているのかな、とか武蔵丸などの外国人力士を育成したことも関係あるのかな、などと考えながら歩いた。この部屋も、今暴力が問題になっているが。
番外 
湊部屋[川口市]
 
午前中見に行った。稽古を窓の外から見た。湊冨士[立田川]が指導していた。湊冨士はすっかりスリムになっていた。稽古はもっと激しいと想像していた。確かにどんなに鍛えているからと言っても、生の体と体がぶつかり押し合うのだから、
そんなに激しく続けることはできないはずだ。ハアハア息していると「何息上がっているんだ」と立田川親方の声がかかり、その力士が、途端に静かな息になってしばらくして、苦笑が起き、緊張していた稽古場が和み、再びピーンとした。
境川部屋 [江戸川区舎人]
江戸川区だが、鳩ヶ谷市に隣接しているので自転車で行った。
 
玄関入って左が土俵、稽古が終わり食事中であった。部屋の前は川でふんどしが干してあった。
 
境川部屋の最寄り駅は東武伊勢崎線の竹の塚のようだ。境川部屋近くに舎人神社があった、1830年代築の古いもので、社殿一面に彫刻が施されていた。[保存のため被われ写真が無理、鳩ヶ谷八幡木神社の彫刻でその雰囲気を]
 
同じく近くに入谷氷川神社があった。

入間川部屋[さいたま市]
 
新築のよう、南側に回ると庭のフェンスなどもまだで、ふんどしが干してあった。周りには畑がかなりあった。大宮バイパスの近くで電車だと遠く、自転車で行った。近くに、珍しい足の神社・大国社があった。とても小さい。

両国周辺の相撲部屋巡りも今回でひとまず終わり。両国周辺にもまだ複数の部屋があるようだが、それぞれかなり離れているので。
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稲村ヶ崎を歩く

2007年10月11日 | ウォーキング
稲村ヶ崎を歩く 2007/10/7

妻の実家に遊びに行き、稲村ヶ崎を歩いた。   極楽寺     導地蔵
 
境内は撮影・模写禁止とあった、何故かは後の成就院でわかった。
成就院

境内は、三脚を使用しての写真撮影・模写禁止。[極楽寺の撮影禁止の意味がわかった、花や景色がよいので三脚など長時間待機する人がいるらしい、と想像した。そうなら、成就院のように三脚使用だけを禁止すればよいのに]観光客が多くまたそのマナーが悪くなると、警備やよけいな手入れにお金がかかり、入場料が必要になることを恐れる。成就院先代和尚から「三脚使用禁止について」のご説明をいただいた。和尚が言うとおりであり、私は成就院の措置を責めているのではありません。
成就院先代和尚のコメントを読みたい方は、最後にある【コメント】を参照してください。
成就院より東側参道・由比ヶ浜の海岸を臨む。舟守地蔵
 
地蔵堂本尊            稲村ヶ崎公園内・コッホ碑
 
ここから江ノ島がよく見える、もやっていないと大島も見えるという。
由比ヶ浜方向・下りは延々と渋滞、人の早さとほぼ同じ。    最後に江ノ電
 
藤沢まで東海道線、その後江ノ電。東海道線は横浜まで混雑、江ノ電は藤沢で乗る時既に満員となった。波が高く、道路までそのしぶきが押し寄せていた。
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定年退職

2007年10月11日 | 学習
定年退職、一ヵ月
各種手続きは、けっこう面倒だった。
【年金請求】
「戸籍謄本は年金申請時には無料」と、どこかで読んだので、市役所の支所でそのことを告げたら、窓口の職員は知らなかった。彼が市役所の市民課に問い合わせたらやはり無料とのことであった。今までも、これからも要求されなければ、お金を請求するのだろう。保険庁の窓口は、表向きはとても愛想がいいのだが、「こんなことも知らないのか」と言わんばかり、人を馬鹿にしたような態度は隠せない。法律用語・説明文は間違いがないようにとの理由からではあるのだが、むずかしい。例えば、説明文では、被保険者=「あなたのこと」でよいのでは。現在働いている私の配偶者が5年後に定年すると、私の年金が少し増えるのだが、5年後定年となる確実な証拠=例えば労働協約などの証明書が必要だ、という。
役所の建前では労働協約は締結されていなければならないことになっているが、実際は労働協約が結ばれていない企業がたくさんあるはずなのに。公務員の場合は、労働協約がないので定年を決めた条例のコピーが必要と言うのにはもうあきれ果ててしまった。また、所得を証明するには、源泉徴収書ではなく、市発行の所得証明が必要という。また、雇用保険を請求している人は、雇用保険被保険者書が必要だという。結局一度では終わらず二回行くことになった。
【退職者健康保険】
会社の健康保険をやめたのだから、今度は国民保険に入ることになる。実際は国民保険なのだが、退職後医者にかかった時の費用の7割は長年健康保険に入っていた会社の保険から払ってもらうというのが、この制度。保険料などはまったく同じ。この手続きには会社からの離職書または雇用保険被保険者書が必要だという。でも、離職書はハローワークに行っているのだし、雇用保険被保険者書はハローワークからすぐ発行されるわけではない、のにである。そこで、「無保険の状態ですね、その時病気になったらどうなるのか」と市窓口で聞いたら、「全部自己負担してもらい、後で新しい保険証ができた時に請求すれば7割り戻ります」という回答。「ふざけるなよ」とよほど怒りたくなったが我慢した。せいぜい「そんなこと一言も告知されていないではありませんか」とだけ。ここも一回では終わらず二回行くことになった。一年間国民保険に入るのを遅らせても、保険料は、会社を辞めた時までさかのぼって請求される。こういうところはホントにしっかりしているのだ。
【ハローワーク】
ここは、もっと頭に来る。保険料を払ったのは会社と自分なのに、手当を払ってやるのは国=税金=役所だといわんばかり。雇用保険をもらうは一生懸命の求職活動が必要で、そうでなければ不正要求というのだ。でも確かに、例えば月3000円の雇用保険料を20年間かけたとすると総額72万円、定年退職後150日間受け取ることができるお金は約100万円だから、払った以上のお金を受け取ることになるのだから仕方ないかとも言えるが、この「御上が恵んでやる」といわんばか、にが頭に来る。雇用保険は、自分の失業の心配・問題に備えてではなく、大量の失業者という社会不安・不安定を避けたいとの、国・企業・労働者=社会的要請なのにあまりに高圧的なのだ。以前までは定年退職者に対しては、比較的受給は緩やかだったと聞くが、昨今は、月2回の具体的アプローチが必要とされる。高齢者は、高齢者向け求人情報すら簡単に探すことができないのに、である。
【投資信託】
退職金がわずかだが入ったので、初めて投資信託を買った。証券会社でなく、銀行の方が敷居が低いように感じたので銀行にした。手続きというか、事前の説明がすごい。説明時間は2時間以上、しかも相手は二人。要するに、投資信託と言ってもピンからキリまであって、つまり儲けが高く見積もれるものは同時に損する確立も高いわけで、例えば、アジアの発展途上国株は儲かるかもしれないが0になる危険性も高いのだ。その内容・組み合わせは素人では想像もつかないほど多様多種。上手い話には危険はつきもの、投資信託は原価割れのリスクがあるとの説明に2時間は必要、ということか。どうせだから、原価割れの危険性は高いがうまくいくと儲かるアジア株などが入ったファンドを選んだ。ファンドなどというがそもそもそれは紙切れだけのこと、ただの紙切れが儲けを産み出すのが資本主義。その投機性・虚構・実の無さ、腐敗さ。だからこそと言うべきか、ここでの格差はすごいのである。株はリスクは大きく高いが、利殖としては一番儲け率が高い。ゼロ金利時代であっても、その配当は利子率からいうと0.5~1%だったらしい。つまり、金持ちは何もしないでもかなりの配当を得ていたのだ。また株は個人だけでなくほとんどが企業間で持ち合っているのだ。各企業は儲けた金を株に投資し保持しているだけで多額の配当を得ているのだ。欲の皮が突っ張った私は危険もあるが儲けも望めるハイリスクハイリターンを選んだのであった。さて、どうなるか。
その他
映画とウォーキング、水泳を楽しんでいる。
映画
映画館は60歳シニア料金1000円=池袋新文芸座・MPVOXだけのようで少なくなったようだ[シネアミューズは表示が無くなった]、水曜1000円館・夫婦60割り引きは増えたようだ。その他、国立博物館などはシニア割引は70歳、江戸東京博物館は65歳のようだ。その代わり2ヵ月間、50程の施設を訪れることのできる“ぐるっとパス”は2000円で利用価値がありそうだ。こんな便利なパスがあるとは知らなかった。
水泳
水泳は、ゴミ焼却場のプール・お風呂に何回か行った。値段は500円で銭湯と同じ値段で安く、何よりすいているのが良い。プールは20mコースが3本で、内1本は歩き専用と少ないが、すいているので自分のペースで自由に泳げる[行くのは夕方だが]。その他、ジャグジーやサウナ、ミスト、露天風呂などもそろっている。遠いのが難点で、それがすいている原因だが、自動車でないとむずかしい。最近車に乗らない私は車も待っていないし運転もしないので、妻が暇な週末に妻の車で同行していると言うわけ。今のところ、妻と一緒なのは、水泳と旅行で、ウォーキング、映画は一人でぶらりのきまま、が良い。
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エイゼンシュテインの映画二本

2007年10月06日 | 映画
池袋・文芸座2007/10/5
戦艦ポチョムキン


1925年/1976年完全復元サウンド版(音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィッチ)/35mm/モノクロ/スタンダード/75分
監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン 脚本:ニーナ・アガジャーノワーシュトコ+セルゲイ・エイゼンシュテイン 製作:ゴスキノ第一工場+プロレトクリト 初めて見たのは何年前だったろうか。映画はサイレント、バックにショスタコーヴィッチの音楽が流れる。映像はかなりきれいだ。所々セリフが字幕で示されるが、それはとても少ない。1905年ロシア革命。腐った肉のスープを水兵たちは拒否した。将校は水兵達を銃殺しようとする。水平は反乱を起こし、一人のリーダが殺される。人匙のスープのために殺された」その亡骸は桟橋で市民に迎えられる。水兵に呼応して民衆のデモが起きる。権力は市民に無差別銃撃する。ミャンマーの悲劇を目の当たりにしているようだ。その“オデッサの階段”のシーンは、あまりにも有名だ。片目をえぐられる女教師、女の手を離れ階段を転げ落ちる乳母車。兵士による市民へ加えられた暴虐に対して戦艦の大砲が火を吹く。エイゼンシュテインは、ロングショットの中にそれらのクローズアップされた民衆の顔・表情をフラッシュのように組み入れる。僕には、水兵の将校への反乱シーンなど、くどいように感じるシーンもたくさんあった。この映画は以降の映画に大きな影響を与えたと聞くが詳しくは知らない。サイレントだが、登場する人々は何か大声でしゃべっている。シナリオは残っているのだろうか、僕としてはトーキーでも見てみたい。
十月

1928年/1967年サウンド版(音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィッチ)/35mm/モノクロ/スタンダード/103分 監督・脚本:セルゲイ・エイゼンシュテイン+グレゴリー・アレクサンドロフ 撮影:エドゥアルド・ティッセ 製作:ソフキノ
10月革命十周年記念のプロパガンダとして作られたもの。1917年の労働者の武装蜂起から冬宮襲撃までを描く。ドキュメンタリー的アプローチは当時としては新しい試みなのかもしれないが、ちょっと中途半端な感じだ。メンシュウビキや社会革命党の扱いなどはあまりにも一面的過ぎるし薄っぺらい。また、支配階級側の空っぽの会議、ケレンスキーなどはリアリティがまったく無く、かなり戯画化され過ぎている。それらはスターリンの影響なのだろうが、映画の出来をすこぶる低級化してしまっている。挿入される仮面や偶像のイメージの意味も僕にはわからなかった。サイレントなのだが、今回の復元版というので所々で効果音の演出が入るのだが、でも、ほんの一部で中途半端だ。『世界を揺るがした十日間』とは比較できないが、軍配は断然、十日間。10時5分開始で120~130人とかなりの入り。文芸座も、シニアは60歳からで1000円。千円で二本は安いのだが、チョット疲れる。文芸座は、席での飲食はかまわないのだが、以前食べてにらまれたので、今回は我慢したが、映画はやはり娯楽なのだから、かなりシリアスで静かな場面でない時は、少しぐらい音がしたって良いのにね。
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相撲部屋巡り2

2007年10月05日 | ウォーキング
相撲部屋巡り2 2007/10/2
両国以外の相撲部屋も見たくなって出かけた。今日は三つの相撲部屋を見た。それでも家を出てから戻るまで4時間半かかった。

上野で日比谷線に乗り換え→茅場町で地下鉄東西線に乗り換え→南砂町駅下車

右側が田子ノ浦部屋の様で、一階には接骨院が入っていた。ここから、都営新宿線・大島駅まで歩き、地下鉄で一之江駅に。
途中に大島神社
 
玄関が開いていて、入ることができた。写真の傘の右側が土俵
 
玄関を入ると、髷の手入れをしていた、写真OKをもらって、奧に食事中の力士の姿が見える。伊勢の海部屋の建物・その前は区民菜園のようで、そこから撮った。

自転車が道路にはみ出さないようにきれいに二列に止めてあった。江戸川の堤防のすぐ脇にある。
 
高田川部屋は路地の奧にあった、玄関は開いていたが、土俵は見えなかった。玄関脇におとなしい柴犬がいた。伊勢の海部屋とは江戸川を挟んで反対側=にぎやかな国道沿いにある。一之江駅まで歩き、岩本町で下車し、外に出て、JR秋葉原までは歩いて5分。新しい秋葉原駅構内を初めて歩いた。筑波エキスプレスとを結ぶコンコースは広くきれいでわかりやすかった。駅前は、以前の煩雑さと新しさが入り交じり、小さな店内にメイドのコスチューム姿が見えた。さて、若い力士がリンチで殺された。稽古という名のリンチ=暴力は、これまで相撲界では公然であったと聞く。たしか、何年か前、旭鷲山の大島部屋で新弟子の脱走事件でリンチ=制裁が新聞報道されたことがあった。体育会系では、暴力は公然と認められてきた。上下関係は美徳とされている。プロ野球の中日の星野などの鉄拳制裁などはマスコミでは賞賛されこそすれ批判などされなかった。私も、剣道をやっているので、こうした事情は知っている。剣道ではかかり稽古、柔道では乱取り、野球では千本ノック、相撲ではぶつかり稽古などという。この稽古は、何も考えずにひたすら先生・先輩にぶつかって行くことで、体力の限界の中で、無意識の体の反応を鍛える、と言うのが目的だ。確かにこの稽古はおもしろいこともあるし、有効ではある。この稽古が、本人の自由意思で行われている場合は何ら問題ないのだがこの稽古は強制としても行われる。それは、制裁・従順さをしつける方法としてなされていることは、程度の幅はあるとしても一般的なことである。いわゆる“根性”論、である。こうした根性論=精神主義は、疑いもなく戦前天皇制の名残だ。武器など無くても、大和魂があれば、神風が吹き、勝利する、というのだ。もちろんスポーツでは、精神は重要だが、“精神鍛錬は万能だ”なんて嘘っぱちだ。スポーツで不屈の精神が鍛えられるなんてのは幻想、というより、そう思いたいのだ。健全な体に健全な心が宿る、などとも言われるが、どうしてそんな変なことが言えるのか。“不健全”な体で不撓不屈の精神の持ち主を我々は知らないと言うのか。もう一つはスポーツの持つ、大衆のイデオロギー支配の面だ。スポーツは古今からナショナリズム高揚・大衆統合の重要な政策だった。この前までは国体[名前からすごい]が地方ナショナリズム高揚で果たした役割は大きかった。最近では高校野球である。折しも終戦記念日・盆の時期、帰省中に地方ナショナリズムに国民が大統合されるのだ。高校野球は、真剣で純粋だ、などとよく言えたものだ。ほとんどの選手がスポーツ特待生で、高校の広告塔なのに。寮に入って、下級生は上級生の洗濯をしたり、使いパシリするという。朝日新聞などは恥ずかし気もなく連日、紙面の3~4面を使って、エセ“健全”を売るのだ。思わず大脱線したが、大相撲が今投げかけている問題は、スポーツは弱くても良い、オリンピックでメダルなど取れなくても良い、スポーツで国威発揚などできなくて良い、健康のためでなく、ただ勝負を楽しむ、スポーツそのものを楽しむことこそが大事なんだ、と。
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アフター・ウェディング

2007年10月02日 | 映画
アフター・ウェディング  試写会[読売新聞他]・教育会館ホール・2007/10/1

【作品資料】では、監督のスサンネ・ビアは、本作が2007年のアカデミー賞外国語映画部門にノミネートされた。前々作『しあわせな孤独』、前作『ある愛の風景』の2本が、すでにハリウッドでリメイクが進んでいる、と。デンマーク映画を見るのは初めてと思う。公式サイトで『命を終える日を知った時、大切な人に残したいものがある』と言っているので、以下、ネタばれにはならないだろう。主人公は、インドで孤児の援助活動に従事するデンマーク人ヤコブが設定されているが、実際の主人公は、ヤコブではなく、彼に巨額の寄付金の申し出るデンマークの実業家ヨルゲンである。ヨルゲンは、ヤコブに言う。「1200万ドル、年間5万人の子どもの援助したい、それはデンマークで毎年生まれる子供の数」調べたら、デンマークの人口は約500万人。さて、ヨルゲンは48歳になったばかりなのだが、病で死が近い。そこで、ヨルゲンは妻の連れ子の娘の結婚式に実の父親ヤコブを結婚式に招き、娘と妻と自分の息子の将来をヤコブに託す、と言うのが映画のストーリー。こうした事態、つまり離婚と結婚外セックスがかなり多い北欧において、血のつながりのない子どもを心から愛し、妻の元彼に娘と、息子と妻の将来を託す感情は、彼の固有な個性なのか、それともデンマーク・北欧の人々にかなり共有されている価値観なのだろうか、ということ。それについては知らないし、映画ではわからない。結局、僕には、この映画でこの監督は何を訴えたいのか、よくわからなかった。血のつながりなど関係なく、家族愛、ということ。それなら、こんなブルジョア的金持ちのそれなんて…。それ以上に、こんなシチュエーション=インドの悲劇と金持ちの欺瞞的ボランティアの対比なんておかしい。で、映画としては、僕はA級・佳作とは思わない、だが、珍しいデンマーク・北欧の映画としては価値はある。また一方の舞台がインドと言う事情があり、デンマークでのシーンはデンマーク語と思うのだが、主な言語が英語の様に思われるのはやはり違和感がある。また、この監督、目のシーンの異常な程のクローズアップが異常に多用しているのだが、それにはどんな意味があるのだろうか。会場の、教育会館ホール、定員は800人強と広いが、椅子は固く狭く、床のスロープが緩いので前の人の頭がジャマになるし、映画のスクリーンが小さいく、映画館としては悪い。



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ミルコのひかり

2007年10月01日 | 映画
ミルコのひかり 2005年イタリア映画
 
監督は『ニュー・シネマ・パラダイス』『ライフ・イズ・ビューティフル』などのクリスティアーノ・ボルトーネ ■2006年サン・パウロ国際映画祭観客賞 ■2007年モントリオール国際児童映画祭グランプリ シネ・アミューズ[渋谷/文化村通り]
【あらすじ】[goo映画ミルコのひかりより]1971年イタリア、トスカーナ地方。10歳になるミルコは祖父の古い銃をいたずらし誤って暴発させ両眼に重傷を負い、視力はほとんど失ってしまう。当時、イタリアの法律では視覚障害者は普通の学校には通えない規則になっており、ミルコはジェノヴァの全寮制の盲学校に入る。ミルコは、この境遇を受け入れられず心を閉ざしてしまうが、古いテープレコーダーを偶然見つけ、音だけで物語を作り出す楽しみを覚える。古い規律や体制を重んじる学校側は、盲人は実社会でつらい失望を味わうよりは最初から幻想を抱かない方がいい、という。だが彼の聴力の才能にいち早く気づいたジュリオ神父は、学校に内緒でミルコに新しいテープレコーダーを渡す。ミルコは、その後も物語を録りつづけた。ある晩、ミルコたちは学校をこっそり抜けだして映画館に行く。学校の外では社会を変えるためのもっと大きな戦いが始まっていた。学年末の発表会の日。ジュリオ神父とミルコたちによる童話劇が始まった…。映画の最後に、「1975年、盲学校は廃止された」とコピーが流れる。1970年代初頭、パリ5月革命を始め、全世界で新しい文化を想像する社会運動が起き、世界は激しく揺れていた。ミルコと、ミルコを見守る若い神父と、ミルコの先輩たち、
この時代に生き、時代の空気をすっていた。この社会のうねりなしにイタリアで盲学校が廃止されることはなかった。アメリカのギャローデットろう大学でろう者の学長を求めるストライキが起きたのも同時期であった。そして、舞台はイタリアルネサンスの産声を上げたトスカーナ地方。目の見えない子ども達が見えない子どもを演じているという。佳作だ。ミルコは完全に失明したのではなく、かなりの弱視だったようだが、自転車を上手く乗った遠出するのはチョット違和感があった。この映画が実話を元にしたとは言うが。僕が一番感動したのは、子ども達が寮を抜け出して映画館で映画を見る所だ。見えない子ども達が、まさか映画を見に行き、映画を楽しむとは思えなかったから。彼らは映画を聞いて、感じているのだ。障害者映画にありがちな、頑張る障害者が描かれていないのが何より良い。イタリアの障害者の実際を僕は知らないが、もうの人を、見えないがただ見えないだけの人として描いているように感じた。それは、僕のイタリアファンのせいだけではないとないと思うのだが。ミルコはその後、視力を回復し、イタリア映画の音響の専門家になったそうだ。久しぶりに映画を観た。定年退職後しシニアの特権=1000円を得た。来週は何本か映画を見に行く予定だ。
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