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風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

南浦和~東浦和

2005年12月29日 | ウォーキング
南浦和~東浦和を歩く
12月29日、師走の南浦和を歩いた。

JR南浦和→
・曹洞宗守光院


・熊野神社

小さな神社であった。

・普門寺

住職のいない小さな寺で、50mほど先は河川敷で、そこは浦和競馬場であった。
入り口は鍵がかかり入れなかった。周囲は民家である。

・行弘寺

景観がちょっと変わった寺であった。右は住職宅。

・太田窪(だいたくぼ)氷川神社


・大谷口氷川神社


・福聚院観音堂


・善應院

住職のいない、とても小さな寺で、写真は隣接する神社。

・熊野神社権現神社

小さな神社で、ス-パー「サミット」の一角にあった。

・明神社

小さな神社で、これが全部だが、明神・稲荷・神明の三神社である。

・大北釋迦堂(写真なし)
門と墓地と住職と思われる民家であった。

・井沼方霊廟・薬師堂(かなり広い墓地で立派本堂が建っているのだが、入り口には頑丈な鍵がかかり、入れなかった)

・柳崎氷川神社

かなり広い境内で、小高い丘の上にある。

・天台宗観音院(子安観世音霊場)


・伏見稲荷大明神


気温は低く寒かったが、天気が良かったので、南浦和東側を初めて降り歩いた。
30分もすると暖かくなった。
たくさんの寺・神社を見たが、住職・神主がいないと思われる小さなものだった。
しかし、正月を迎える準備がされていた。

産業道路を過ぎると、とたんに風景が変わる。
昔は農村地帯だったのだろう。
今でも畑は結構あるが、農地よりは住宅地の方が多い感じだ。
大きな川はないが、小さな用水路がいくつかあった。
起伏もかなりあり、低地では谷津田、深田で大変だったろう。
大きな道から脇にはいるとそこはかつての農道のように狭く、曲がりくねっている。
お城のような立派な屋敷や一軒分もあるような門のある家などは昔の地主であろうか。
寺はそんなに多いとは思わなかった。農道沿いに墓地もなかった。
歩くだけでは、昔ここがどんな村・町であったかという想像はむずかしい。
東浦和に近づくと急に巨大な高層マンションが出現する。
武蔵野線は低地を走る。
電車が走る前は、何だったのだろう。
武蔵野線からせいぜい500mしか離れていないところを歩いた。
1km離れたら、感じはまた大きく変わるのだろう。
有名な寺社はなかったが、道もあまり迷わず、楽しいウォーキングであった。

2時間半、10キロ。
腹がすき、東浦和駅構内で立ち食いの“もりそば”を食べたが、おいしかった。
冷凍麺のようだが、それが良いのか、はわからない。
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浦和駅周辺散策

2005年12月26日 | ウォーキング
12/16JR浦和駅東口周辺散策
12/26追加の散策をする。

12:00~13:30 約7キロ


JR浦和駅西口
→第六天神社

過日見ることができなかった。
場所が分からず、少しうろうろしていると調神社に遭遇した。
第六天神社は調神社と通りを一本隔ててあり、両脇は民家であった。
調神社がなければ分からないかも知れない。

→調神社

境内広く、隣には大木に囲まれた調公園があり、大きな神社で、たくさんの神社を従えている。
初詣の準備が始まっていた。

→JR線沿いにあり、電車から見える。


→龍顕山大松院

マンションと間違えそうだ。
墓地はどこにあるのだろう。

→鈴木邸門

浦和を歩くとこうした大邸宅に出会う。

柊稲荷神社を探すが見あたらなかった。
それらしきものがあったが、個人宅で門が閉まっていた。

東浦和まで歩く予定だったが、近くにコンビニも蕎麦屋もなく、
気分が乗らなかったので、浦和駅近くの大善院へ向かうが、
ここも場所が分からずうろうろし、疲れたので、
床屋に入りさっぱりした。
浦和駅近くの蕎麦屋でビールを飲みながらそばを食って帰った。

浦和駅東口は駅の高架工事と再開発工事が行われている。
浦和駅周辺は、道が狭く、道路・路地が入り組み、初めての人にはとてもわかりにくく、
駅から少し離れると、アップダウンもあり、低地に降りると駅周辺の高層マンションも目に入らなくなって、方向が分からなくなる。
また、鈴木邸のような大邸宅がある一方、今にも崩れそうな家もある。


12/26追加散策
12月26日、12/16に場所が分からなかった浦和駅東口周辺を少し歩いた。

・大善院


・来迎院延命寺


・柊神社

12/16来たのも、ここで正しかったのだが、何の看板もなく、駐車場の奥にあって違うかと思った。

・三本木稲荷

今日は、これで終わりと、浦和駅に向かうと、細い商店街路地角にひっそりと立っていた。
地図上にない小さな神社・稲荷などに出会うと、めっけものをした感じで嬉しい。

風が強く、歩き始める時は肌寒かったが、歩き出すとコートを着ていると暑いくらいだった。
小一時間、3.5㎞位歩いただろうか。
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12月読書ノート

2005年12月25日 | 読書ノート
7.『がんばりません』:佐野洋子著

6.『アジアの聖と賤』―被差別民の歴史と文化=野間宏/沖浦和光
 20年も前の1983年出版である。
 インド・中国・朝鮮・日本の被差別民衆史を60歳代の野間さんと50歳代の沖浦さんが“朝日ジャーナル”で対談したものを加筆したもの。
 テーマは重い。  
 2500年以上も前から今日もなお存続するインドのカースト制度=不可触、日本の被差別民、朝鮮の白丁の歴史を丁寧にひもとく。
 中国・日本・朝鮮は律令制が長く、北方騎馬民族と農耕民族が入り交じって来た。騎馬民族は肉食であり、家畜を殺し、食し、皮革を扱うことは〈賤〉=穢れではない。農耕民だからと言って、生き物を殺すことは必ずしもタブーではない。
 仏教は生き物の殺生を禁ずる、また輪廻思想、などが入り交じって、社会の中に被差別民、とその思想・意識を作り出していく。
 沖浦の挑戦は遠大だ。
 沖浦は、
「(これらの問題は)連続・継続、断絶・消滅が絡み合って、単線的な歴史方法論では解明できない」[被差別問題の本質は、長い歴史を持つ史の中での最終の段階における身分差別の形態である。・制を中心とした近世政治起源説に全て流し込めるような貧相なものではない]
「ヨーロッパ文明中心的な近代主義的歴史観=巨大科学技術体系と資本制市民社会を人類発展のための不可欠の道程として評価する生産力中心主義史観=西洋近代文明のみを人類文明史の正嫡として認知しようとする思想=アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの諸地域に自生し長い固有の伝統を有してきた諸文化を価値的に否定する思想では、被差別民衆の生活と文化の歴史は世界文明史の負の遺産・暗い闇の領域として切り捨てられる」、という。
 《野蛮→未開→文明》という発展史観では、「アジア的社会」は、歴史の進歩から取り残されたものであり、ヨーロッパ近代に駆逐される運命とされる。そう、このマルクスの旧来の「アジア的生産様式」の認識は、アジア的段階・ギリシャ・ローマ的段階・キリスト教的・ゲルマン的段階と発展するヘーゲルの『歴史哲学』の思想に発するが、そこではアジア的段階は世界史圏外に据え置かれる。
 以上のような立場からは、アジアの被差別民は見えてこない、と沖浦は格闘する。
 以後、この課題が、どのように前進したかは、私は知らない。
 20年前、沖浦の問題意識は一部で取り上げられたが、少数派であった。
 過日、五木・沖浦の対談集を読んでこの本を読んだ。
 野間も沖浦も「今日の文明危機から脱しうる国・インド」などとインド幻想に陥っている点は割引いても、二人のテンションは高い。
「日本の歴史の中で被差別民衆の担ってきた役割~産業・技術・流通・文化・芸能・宗教・民俗に渡る広範な領域で彼らが果たしてきた役割と仕事を無視してはまっとうな歴史を語ることはできない。被差別民衆の果たしてきた生産的・創造的役割についての正しい認識が普遍化してくる時こそ真の解放への第一歩が始まったと言える」
 インドカースト制度・不可触の問題は、ガンジーはその存続を支持した。
 朝鮮では、白丁についての歴史はほとんど残っていないと言うし、研究ももほとんど進んでいないという。
【メモ】
・『マヌ法典』~ヒンズー教の元になるバラモン教の教説集
月経中・産褥中のじょせいを不浄と見る、身体障害者を“”と見る、汚れとされている職業に従事している人間をと見る。
・人々を動物の名を付けて差別する~蝦夷、国樔(クズ)、熊襲、隼人、土蜘蛛
・律令制の場合、賤から良への身分的上昇が可能だった。カースト制はこれを全く認めない。
・インドの思想家=アンベドカル~「どのような宗教にせよ、コミュニズムの問いかけに対して回答を用意できないものは生き残ることができない。仏教こそ、コミュニズムの持っている問題点をただすことができる」「あなた(ガンジー)がカースト制を支持しわれわれをいつまでも惨めな状態に置いて置くならわれわれ差別されているアウト・カーストと先住民族はカースト・ヒンズーから分離独立する」
・「アンベドカル大学は校庭を開放してそこに2万人のアウト・カーストがすんでいる」
・「中国の良賤制では〈貴・賤〉が主軸、インドでは〈浄・穢〉が表に出ている」
・「中世の革新仏教・浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、禅宗、空也・一遍はの一部、宿、河原の民、山人、川人、海の人、ワタリの層、全国を放浪する商工民は“三界に家なし”と賤視された」
・砂鉄師(蹈鞴タタラ職人)、木地師(轆轤ロクロ細工)、サンカ(ワタリ)、[河原はゴミを捨て、死体を埋めたりする。皮を剥ぐ、染め物をする、芸能を河原でやる、船頭、馬借、観阿弥・世阿弥(猿能楽)、善阿弥(庭師)、雑芸能(猿楽・田楽・声聞師・説経師、琵琶法師)、遊女・傀儡女(クグツメ)・巫女・鵜飼
・〈有縁・無縁〉~神や仏と縁を結ぶ、その功徳=神仏の恵みを授かる“結縁”の日=縁日

 イギリスのアイルランド、南北米の先住民族とスペイン人・白人、北米の黒人と白人、ヨーロッパのノマとユダヤ人、日本におけるアイヌ民族と被差別民と沖縄人、オーストラリアのアボリジニ、ロシアのスラブ主義、などこうした民族的人種的対立や侵略、迫害と差別は、何千年にも渡って続けられて来、今なお存続している。
そのことを考えると、この呪縛から逃れられないのではと感じてしまう。 
 この根深い差別偏見は、障害者や老人、女性、子供、同性愛者、賢くない人、見てくれの良くない人、性格の良くない人、貧乏人(ホームレス・貧乏人)らへの差別を根から支えている。
 人は、人類はどこに向かおうとしているのか。
 思い出した、かつて、レーニンとインドのロイが、コミンテルンで「民族植民地問題で論争」したが、そのインド人ロイの頭の中に不可触民・カースト制度の解決はどう思い描かれていたのだろうか。

5.『ラブ・イズ・ザ・ベスト』~佐野洋子著
佐野さんは「ブス」と言うが、カバー裏にの写真はいわゆる美人ではないが「ブス」ではない。魅力的な顔をしている。
「私たち、ただ産まれてきただけなのね」(「結局母親ってのは子供を産んだだけなのよね、何もできないのよね」と言った後に。)
「ミチコにも私にもあなたにもめざましい人生の出来事はなかったかも知れない。ごく普通の当たり前のことだけを生きてきた。『大丈夫だったらあ』が、一千万、一億の貯えよりも、私達を生かして来た。」
白石公子さん(詩人・エッセイスト)の解説が素晴らしい。佐野さんの魅力を実に簡潔に表現してくれている。

4.『食に命懸け』~小泉武夫著
読みたいと思っていた小泉さんの初めてのもの。
期待したもの=発酵のおもしろさとは違って、ちょっとグルメっぽい=スローフード物、でも一流の人のがんばりは、とてもすごい。
【メモ】鯉ヘルプスは、鯉が風邪を引いたのと同じことです。無理な飼い方からストレスがたまり、弱った鯉がコイヘルプスにかかって死んでしまう。
【メモ】京都では御所に関係のあるところ(御所の出)は「家」を使い、商人だと「屋」になる。
 「おいでやす」は商人言葉、「おこしやす」は御所言葉。
・岡本養豚・千代幻豚=http://www.i-chubu.ne.jp/~cygenton/panhu.htm
・筑紫亭・真ハモの料理屋=国登録有形文化財:http://ww6.tiki.ne.jp/~chikushitei/index2.htm
・マルデンタ=サンマのみりん干し=http://www.rakuten.co.jp/bansuke/911911/969128/
・能登郷土料理・民宿さんなみ=http://www.noto.ne.jp/sannami/
・桝塚味噌・野田味噌商店=http://www.masuzuka.co.jp/

3.『嘘ばっか』~佐野洋子著
38編の昔話のパロディ。
「おとぎ話は、子供にとって心の傷である。大人は傷をなめて生きている」。
私にはあまり、おもしろくなかった。

2.『あれも嫌い これも好き』~佐野洋子著

佐野さんの二冊目、不思議な文章、
読点が少なく、普通の人が漢字を使うところを平仮名を使い、そこで読み間違えることがある。
「長生きは本当にめでたいことなのか。
豊かな老後など本当にあるのだろうか。
世の中は合唱する。自分らしく生き生きと生きましょう。
なら、何で自分らしく死ぬ自由はないのだろうか。
一日でも長く生きることはそんなに尊いことなのだろうか。
私は取り乱しているだけである。」
=しばらく佐野さんと付き合ってみよう。

1.『週末農業を楽しむ本』~宮崎隆典著
週末農業という考えがあることは知らなかった。
やはり農業は大変だなって、感じた。
僕の場合は、家庭菜園程度で良いな。
法律のことは参考になったが、週末農業の意義、楽しみ方などは不要で、技術論・ハウツウ物に徹した方が良いと思った。
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WORLD PEACE NOW 12.11

2005年12月11日 | 学習
【平和集会:WORLD PEACE NOW 12.11】
・12月11日(日)13:30 ・上野水上音楽堂


富山洋子(日本消費者連盟)、川崎哲(ピースボート共同代表)、相澤恭行(PEACE ON代表)、金子豊貴男(神奈川平和運動センター)が発言した。
500人弱であろうか、過日、政府がイラク派兵延長を決めたばかり、
この人数、多いと言うべきか、少ないと言うべきか、

喜納昌吉(音楽家・参院議員)=右のコンサートがあった。


集会、コンサートは短く、15時デモに出発した。
買い物客でにぎわう、上野・御徒町を通り御徒町公園まで。
短い距離だが1時間以上かかった。
途中、右翼の「憲法改正」の訴え行動とぶつかり、警官がデモ隊・右翼双方を規制し、衝突しないようにしたため、何度も足止めされた。

集会の前に、上野公園を散歩した。
上野花園神社                             五條天神社                     寛永寺大仏パコダ
    

上野・大仏                     上野東照宮入り口
  
東照宮参道・左右に灯籠が並ぶ                 東照宮
 

五重塔          不忍池に浮かぶ弁財天            不忍池
  

昨日までが暖かかったので、本当に底冷えがした。
手袋、マフラー、コートでも寒かった。
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南浦和~浦和を歩く

2005年12月10日 | ウォーキング
12/10南浦和~浦和を歩く。
昨日よりも暖かく、Yシャツでも汗をかくほどであった。
[約12キロ]

10:35JR南浦和駅→昨日の最後・宝性寺にある庚申塔脇を通り、
→白山神社

マンションの隣にひっそりあった。

→金輪寺醫王寺

なかなか立派な寺で、写真は鐘楼。

→睦神社
医王寺の通りを隔てた小山、高台にある。


→白幡沼
周囲は高層マンション。


→真弘寺
道路に面していて、山門なく、すぐ本堂。


→宝泉寺
場所が分からず探すのに苦労した。


→八幡社
宝泉寺を出ると、20mほど先に赤い鳥居が見えた。
境内は狭く、その境内一杯にテーブルと椅子が備えられ、15人ほどの人々が談食していた。
若い女性からお年寄りまで、写真撮影の許可を得て、写し、その場を去って、
しばらくして、声をかけながら追ってくる若い男性がいた。
「食べてください」と団子・五つをくれた。


→田島観音
左の木はカシワの木で、回り1.5m、高さ約6m。


田島観音の近くの田島公園で昼食。
最近の暗いニュースのおかげで、中年男性が一人、公園で食事するが、何とも気まずい。
ぽかぽかの日だまりでしばらく昼寝とは、だから行かない。
おかしくヤな時代だ。
公園を出たらすぐ前に御嶽神社があった。
こんなに大きく立派なのに、地図に載っていない。


→田島氷川神社


→東福寺に向かうが、その入り口が分からずうろうろしていると、
寺らしき木立があり、入ってみると
神明神社であった。

右側の木々は神明神社古墳群の跡、神明神社は地図に載っていない。

→東福寺


→次の予定は、萬福寺であったが見あたらず、うろうろしていると
医王寺にぶつかった。[地図に載っていない]


さらに、萬福寺を探すが見あたらず、今度は、
→西堀氷川神社にぶつかった、[氷川神社も地図に載っていない]


萬福寺はあきらめ、次の予定・大松院に向かうがここも分からず、探すのをあきらめた。

→玉蔵院庭園


→玉蔵院山門

浦和では、玉蔵院は有名なのに、これも地図に載っていない。
どうしてか理由が分からないが、おかしい。

→JR浦和駅
[14:15]

昨日に続いて、地図から、寺社を探して歩いたが、
地図に載っていない寺社があったり、逆に地図が分からず探し回ったりと、
苦労したが、急ぐわけでもないしまた必ず寄らなければならないわけでもないので、気軽なものである。
また、気楽には人に聞けないご時世だし、
聞きたくても人が通っていなかったり。
宝泉寺はなかなか分からず、落ち葉掃除をしている私と同い年くらいの男性に聞いたところ、とても穏やかに教えてくれた。

道に迷ったりしたので、時間がかかった。実際の距離はもっと短いだろう。
二日続きだったので、終わり頃には足の指先が痛んできた。

まっ、自分でコースを選んだのだから、
ウォーキングとしては“良”と言うところか。
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蕨~南浦和ウォーキング

2005年12月09日 | ウォーキング
12/9、蕨~南浦和を歩いた。

師走だというのに、小春日和に誘われて歩いた。[約8キロ]

JR蕨駅(11:00)→
和楽備神社


成年式発足の碑(成人式が戦後21年蕨市で初めて行われた、と言う)


→三学院


三学院大銀杏

この銀杏は蕨で一番大きいと言う。

→本法院


ここからちょっと先はもう、さいたま市。
浦和地区はアップダウンがある。
国道17号に沿うゆるくカーブする旧道(と思われる)を歩く。

以下の寺社いずれも小さな路地の奥にあり、良く探さないと分からない小さな寺社であった。
→長久山宝蔵寺
→吉祥院
→熊野神社
→六辻水辺公園


→萬蔵寺
→晴雲山和光院


→白幡観音


→根岸薬師堂〈適当な昼食場所が無かったので、ここまで歩き昼食〉
小道を隔てて
→神明神社であった。


→大谷場氷川神社

鳥居の右の木は、ゆりの木(高さ22m、周囲315cm)。

→宝性寺

[南浦和駅構内から見える]

→JR南浦和駅(13:30)

和楽備神社と三学院はゆっくりを見た。
広い境内にいろいろな神社や、寺のいろんな施設、三重の塔などがあった。
蕨以外は、住職や社務所のない小さな寺社が多く、
路地裏にひっそりあった。
隣は、大きなマンションが林立している。
人通りは少ない。
師走なのに暖かかった。上着を脱いで、Yシャツで歩いた。
歩くコースは地図で調べて自分で作った。
まぁまぁであった。
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立教大学公開セミナーに参加して

2005年12月08日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
12月5日、立教大学大学院・比較文明学会総会・公開セミナーに参加した。
《音の無い音楽は可能か》がテーマであった。
この表題はすこぶる刺激的で、何か新しい視点でも提起してくれるかと、ワクワクしながら参加したが、内容は極めてお粗末、まさにガク=「羊頭狗肉」であった。

私の期待は大きく裏切られた。
何ら新しい視点の提起も、発想もない、と言わざるを得ないのです。
これが大学院博士課程修了者のお話なの?って感じ。
30分という短い時間で、このテーマについて一定の見解を述べるのは難しいことは差し引いても、あまりにも「お粗末」でした。
その上、話し方がへたくそ、というより仲間内に話すような口振りで、何とレジメの配布すらないのです。
要約筆記が付いたのですが、手話通訳は付かないのです。
要約は必要で、手話通訳は不要の説明も全くありません。
事前申し込みではないのですから、聴覚障害者が参加したらどうしたのでしょうか?
ホント信じられない不思議さでした。
無料だから仕方ないではすまされません。
開始時間も遅れ、その謝罪・説明もないのです。

講師は、伝音性難聴と感音性難聴について説明したのですが、
伝音性難聴をボリューム=デシベルのレベルでの障害、
感音性難聴を、音の波長=ヘルツについての障害、
という説明は、いささか乱暴に感じます。
伝音性難聴は、外耳から入った音を聴覚神経に伝える過程で生じる障害、
感音性難聴は、確かに音の波長に関する障害も含まれますが、聴覚神経に関わる障害の両方を指すと私は思います。
従って、伝音性難聴の場合は、補聴器の使用や鼓膜などの医学的治療で一定程度改善される可能性があります。
感音性難聴の場合は、それとは異なって、今日の医学的治療・技術では改善は難しく、人工内耳はその改善の可能性を占めているとも言われますが、それはまだむずかしくはっきりしない、と私は、思っています。

一口に聴覚障害といってもその内容はさまざまです。
私は、大きく、ろう者と言う概念を先天的聴覚障害者=産まれてから音を聞いたことがない人、聴覚障害者と言う概念をろう者・中途失聴者・難聴者・加齢による難聴=身体的に聴力に障害を持っている人、として把握し、使い分けて、その言葉=概念を使用します。

中途失聴と言っても何歳で失聴したのか、と言うことは重要です。
では、3歳の時高熱で、失聴した聴覚障害者の場合、音を聞いたという記憶がありますが、その聞いた種類はとても限られていて、音を概念的に把握=記憶してると言えるでしょうか?
18歳で失聴した場合は、音をかなり概念的に記憶していると思います。

先天的ろう者の場合、音を聞いたという記憶があるのか・無いのか。
例えば、母親の胎内にいる時は聴覚に障害が無く胎内で聞いた音は記憶されるのか。
母親の胎内にいる時すでに、聴覚に障害があって、音を全く経験したことがないとき後天的に音を概念的に把握できるのか。
と言うことは問題になり得るのか? どうか。
こんなことは全く関係ないこと、それとも思考に値いすることですか?

講師加藤さんの結論は、「音楽」=「遊び」だから、「音のない音楽は可能だ」と結論づけます。
しかし、加藤さんは、「音楽」、「遊び」の概念について、全く説明しないで話しを進めます。
そして、話に進展にともないその言葉の意味・内容が変化するのですが、変化の説明もないのです。
「竹竿屋」の音声も音楽だし、クラシックも、歌謡曲も、手話ダンスも、手話パフォーマンス、パントマイムも、リズムがあったり、体が動けば全てが遊び=音楽と言うことになるのです。
そうだとすると、音楽=ダンス=運動=遊び、
だから「音のない音楽は可能だ」と言うことでおしまいです。
そんな簡単な説明でよいのでしょうか?
そんな簡単な世界なのでしょうか?
それらを論理で説明説得するのではなく、
『例えば』という、例示の提示で、説明=論証してしまうのです。

「雪がしんしんと降る」
シンシンとはどういう音なの?、はよく話題になります。
いろいろな考えはありますが、
このシンシンはしーんしーんという「音のない音」と言う解釈もありますし、
深々・森々・津々という情感的・映像的という解釈もありえます。
また、「雨だれがポタポタ落ちた」
このポタポタは、擬音語なのでしょうか、それとも情景説明なのでしょうか?
それは、おそらく情景と音の感じ(=実際の音ではない)とが入り交じった表現ではないでしょうか?

では、視点を変えて、
手話は、視覚言語と言われます。
その視覚言語である手話に、詩的=韻=音声を含んだ表現はあるのか?
「雪がしんしんと降る」のしんしんが音とした場合それは手話で(ろう者は)どう表現するのでしょうか。
「彼はわんわんと泣いた」のワンワンを手話ではどう表現するのか。
ろう者は、聞いたことのない音を手話でどう表現するのか?
と言うアプローチはどうでしょうか。

手話ダンス・手話パフォーマンス・パントマイムは、いわゆる「音楽」ではないと私は思います。
手話詩は、韻詩より映像詩です。
つまり音声ではなく視覚的詩です。

音楽=遊びと短絡的結論はなんら重要ではないと私は思います。

大学院の公開講座と言うので大いに期待したのですが、これが大学院のレベルなのと残念でした。

しかし、始まるまでに時間があったので、護国寺駅で下車して、護国寺をみて、池袋を経て立教大学まで、ウォーキングできたことがせめてもの慰めであった。
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