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風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

ピースボートで撮ったお気に入り

2013年09月21日 | 79回ピースボート
ピースボートで撮ったお気に入り
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79回ピースボート、横浜に向かって(最終回)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
6月24日(月)最後の寄港地・メキシコのマンサニージョ出航後18日間どこも立ち寄らず陸地も見ません。18日間どこも立ち寄らないなんてこのクルーズ計画は明らかに失敗です。
マンサニージョ出航 アリッサ CK エデゥー、アンジェラ、サラ ヨハンナ、シンディ マウイ

数回のGETのクラスとGETのイベントなど以外何も無く、特別なこともせず読書とウォーキングと筋トレをしました。
操舵室見学  6月27日、希望者は操舵室を見学できました。 
  
メキシコ以降の夕飯の一部
   
7月2日、TOEICテスト。テスト時間は2時間、リスニングテスト45分、とても難しいです。休憩なしの2時間はとても長くすごいストレスでした。1時間20分間ほどは集中できたのですが、以降はトイレに行きたくなったり、伸びをしたくなったり。模擬テストの時は時間切れで30問近く解答できませんでした。今回は15問ほど解答できませんでした。授業で教わった受験テクは、「当てずっぽうでもいいから全問解答しろ」でした。残り5分で適当に解答しました。テストの目的は実力を測定するためですから当てずっぽうの解答は正しいとは言えないと思うのですが。解答は三つか四つの項目から一つ選ぶ形式ですので当てずっぽうでも「正解」となり得ます。解答総数は200問、1問5点、満点は990点です。[帰国後、採点されて郵送されました。500点には遙かに及ばずでした。] 点数はともかくこんなに集中するのは何十年ぶりかで終わったときはどっと疲れが出ました。
7月2日 インドネシアディ(夕食後、インドネシア人スタッフによるパフォーマンスがありました。)
 
7月4日 日付変更線通過(7月3日0時を過ぎると、瞬時に7月5日となります。) 
7月5日 GETスピーチフェスティバル ブレーキ エデゥー アリッサ ニコラス     
        
7月6日、GET 卒業式 7月6日、GET 卒業パーティー 7月7日、GETクラスでの飲み会 7月9日、下船に向けての検温・下船説明会夕食時クルー達による合唱のパフォーマンスがありました。私の大好きなハウスキーパー三人組

7月10日 パッキングデー。 7月11日 スタッフが宅配便荷物と大きい手荷物の運び出し、港のターミナルまで運んでくれます帰りは段ボールが一つ減りました。7月12日 10時過ぎ、東京湾に入り、11時30分横浜港に着岸しました。スポーツジム清掃のペルー人ネストル

1時30頃パスポートが返却され14時頃から、上の階から順に下船が始まりました。私は5階なので4時過ぎでした。ターミナルで前日運ばれた荷物を受け取り、検疫・税関検査がありましたが書類を出すだけでした。入国面接審査は日本人はありません。宅配便を頼むのに少し行列しましたが10分位でした。JRの関内駅までタクシーで行きました。並ばずワンメーターでした。ほとんどの乗客がスマートフォンで遊んでいて日本人の大人がすごく幼く見えました。車内アナウンスが何と子供じみていて騒々しいことか。でも、電車の中で寝てもスリの心配も無く乗り過ごしてもすぐ引き返せば良いのですから本当に安心でリラックスできます。公共の場、特に通りがきれいなこと、公共交通機関の安全、そして至る所にある無料できれいなトイレ、これらは日本のとても良いところです。
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持ち忘れた必需品:湿布剤とうがい液(無料のイソジンが一つ配布されましたが風邪の大流行で足りず追加で買いました)、スペイン語の辞書、果物ナイフ(私は持って行ったのですが小さすぎました)、世界地図(私は抜粋しか持って行きませんでした)、小銭入れ、マスク(風邪の大流行で足りませんでした)、筆記用具(沢山落としたので)、セロテープ、メモパッド、お湯を入れる魔法瓶 
持って行って重宝した小物:マイ枕、両面テープ、大きいカレンダー、厚手のシーツ(毛布だけでは寒いとき便利でした)、MP3(二つ持って来て大正解でした)、卓上ファイルボックス(=紙で出来た本立てみたいなもの)、卓上棚(眼鏡などの小物を置くのに便利でした)、SDメモリー、薄手の軍手(ウォーキング時)、パソコン用スピーカー(1000円ほどで買ったのですが大正解でした)、シャワー用椅子、洗濯用バケツと洗濯板(100均で買いました。)、便座シート、除菌アルコー、ペン型ライ、目覚まし時計、マイカップ(持参した日本茶ティバッグを飲む)、はさみ、カッターナイフ、爪切り、ヨガマット(キャビンでストレッチをしました。) 
不要だった物:洗濯グッズ(私はランドリーサービスを利用したので洗剤、ロープなど)、でも時々洗濯ししたので大きめのバケツは良かったです。船にはプールやジャグジーがあります。私は、水着は持って行きましたが使いませんでした。卓上扇風機を準備しましたが全く不要でした。キャビン内は冷房が効きすぎで私は送風口ノズルを最小にしていました。
絶対必要な物:海外保険:私は幸い保険を請求する事態は生じませんでしたが、保険は絶対に必要です。3ヶ月間、船内は風邪とインフルエンザが大流行、インフルエンザと診断されると隔離され治療費の他に空き室利用料や食事配達料が必要。私は一人用キャビン、多くの人が人が集まる講演会などは参加しませんでしたので感染のリスクが少なかったと思います。私は死亡保険はオプションせず治療救援費用2000万、賠償責任5000万などを主とし保険料⇒39,810円でした。4ヶ月なので少し高いです。
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日常の生活 私は十分この船旅を楽しみました。旅はいつでもどこでも楽しいです。今回一番痛切に感じたのは妻への思いです。私はわがままで偏屈でその上怒りやすい性質です。家では些細なことに腹を立てて怒っていましたが、妻は「どこ吹く風」で、私のわがままを見逃しています。私は5年前に乗ったピースボートではこのことは感じませんでした。疑いも無く私が歳を取ったから生まれた感情であることは疑いの余地はありません。また、私の娘と息子がとても大人でしっかりしていると感じました。船にはかなりの若者が乗っていました。夕食時、彼らと相席になることがたまにあるのですが面白い話はほとんどありませんでした。アダルトも同様なのですが食事やツアーや同室人々への不満などが話題の中心で、それを聞くのは退屈で苦痛でした。旅の楽しみ方は人様々なのですが、早朝のラジオ体操、日中行われる様々な行事・例えばダンス講習会、講演会、映画会、卓球、麻雀、碁など、若者はエイサーや運動会やミュージカルの練習など分刻みに忙しく行動している人も結構いました。多くの人が四人部屋で、狭いキャビン内では読書したり、音楽を聴いたり、勉強することはできません。キャビン内は机もシャワーも一つだけです、荷物と洗濯物が所狭し、他人に煩わされないで読書したり勉強したりリラックスできるスペースはありません。通路にわずかに置かれたソファーと講演会などで使用されないときの共用スペースしかありません。ジムもランニングマシンが1台とクロスカントリーが2台、わずかなダンベルとベンチが2台あるだけ。仕方なくウォーキングは甲板を歩くのですが1周250メートルほどでそれも直線では無く階段を昇ったりです。でも、私はレストランへ行ったり疲れて気分転換のため甲板や廊下をのんびり歩いたりなど全てを含めて1日2万歩ほど歩きました。ウォーキングは1万3千位位だと思います。朝食前40分夕方1時間ほど歩きました。一日目はダンベルで上半身の筋トレ、二日目はキャビン内で器具を使わない下半身筋トレ40分、三日目は筋トレをしないでウォーキングを少し多めにし、寝る前にストレッチを毎日30分するのが日課でした。それでも筋肉は衰えました。本は20冊ほど用意したのですが塩野七生さんの『ローマ人の物語』のカエサル編とその他数冊を読んだだけでした。  
GETと通訳者 GET(英会話教室)は30回ありました。私はオーバーランドツアーで5回欠席しましたが1回20分の補修がありました。難しい宿題がほとんど毎日出て結構大変でした。やっていかなくてもペナルティはありませんが。個人の日記とクラスの日記がありました。私は個人日記を少しとクラス日記を2回書きました。先生は、文法上の間違いを訂正するのですから大変です。私のクラスは男性3人女性3人の六人、年齢は40~70歳、英語力が一番無かったのは私でした。後半は私は疲れました。クラス分けの時の面接で私がスムーズに受け答えできてしまったため、私はアドバンスクラスに入ってしまったのです。それに最初の2回はオーバーランドツアーで欠席でしたのでクラス替えの機会も逸しました。CCと言う通訳者集団が十数名船に乗っていました。通訳技術は5年前より遙かに優れていましたが、彼らの何人かにはとてつもなく辟易しました。たまたま両親の仕事の関係などで外国で生活して英語を習得する機会に恵まれただけなのにたくさんの外国を訪れたとか、どこのサーモンはおいしかったとか、自分はさも優秀であると自慢するのでした。私が彼らに質問すると早口の英語でまくし立てて、その後「聞き取れなかった?」と言わんばかりに日本語、実にイヤミでした。英語を話せることと、その人が優れているか素晴らしいかは別なのに、です。私は彼らと夕食の席が相席になりそうだと時間をずらし、相席にならないようにしました。
素敵な人々 数カ国語を操れるのは素敵でですが、それだけでその人が格段に素晴らしいとは言えません。そうした中で、私が素敵だと思った人はブレイキと言う男性でした。若い外国人なのですが、日本人以上のきれいで美しい日本語を使い、豊富なボキャブラリーと日本と世界の歴史と文化について深い造詣を持っているのです。更にスペイン語も堪能でした。私が手話について話したとき彼が通訳を担当しましたが、とても謙虚に私に質問しました。カナディアンディのスナップとイングリッシュディを宣伝するGETの先生(5月なのに寒そうです。)
 
GETの先生はクルーズ費用が無料とは言え、生徒一人当たり12万円取っているのに報酬がなくボランティアとはおかしな話です。GETの先生の希望者は多いらしく大変な競争を勝ち抜いて来た人々なのですが、英語を話せ教えることと豊富な知識と豊かな人生経験の持ち主かどうかは別の問題です。後者は英語を教えるテクニック以上に必要で大切なことだと思うのですが、この点では私はあまり魅力を感じませんでした。GETの先生で私は特に二人の先生、シンガポールのシンディさんとアメリカのアリッサさんの二人には魅力を感じました。二人ともアメリカ手話が出来ます。シンディはシンガポールで企業のヘッドハンティングとリクルーターの経歴の持ち主で、アリッサはスペイン語ができ、インドネシア語も少し出来ます。彼女は日本語はできないのですが、仲間だけで群れること無く、単独で歩き回り多くのクルーに話しかけ、彼らの名前を覚え、挨拶と言葉を交わしていることです。私はアリッサを見習って出来るだけ多くのクルーの名前を覚え彼らと交流しようとしました。英語、インドネシア語、トルコ語、エジプト語、スペイン語の挨拶を覚え彼らと挨拶しました。シンディは手話の挨拶だけでいいから自主企画を持つべきだと何回も勧めてくれました。私がOKするとGETの先生達シンディとアリッサでどんどん話を進め、ニュージーランドのマオリのパニアさんも合流し、会場確保もしてくれました。私のことをGETの先生の仲間入りだとの褒め言葉は脱帽ものです。ニュージーランド人のパニアは、ピースボートの職員で、漢字は読めませんが平仮名は読め、日本語は流暢です。日本の手話も少し出来ます。マオリ人らしくナチュラリストでジェンダーフリーのアクティビストでもありとても魅力的な人です。
素敵なクルー達 覚えやすい簡単な名前は覚えられるのですが難しい名前は最後までだめでした。クルーにはインド・インドネシア・中南米出身者が多く、その他ネパール・トルコ・エジプト人と少し親しくなりました。英語、スペイン語、インドネシア語、トルコ語、エジプト語で挨拶だけ交わしました。時々こんがらがって間違ってもうれしがってくれました。私のKeiと言う名も覚えやすいのでしょう気軽にKeiと呼んでくれました。英語が出来る人は時々気候や物価など日本の生活を聞いて来ました。インドは言語がたくさんあってとても難しいそうです。私が特に仲良くなったのは、ハウスキーパーのエリアス(インド)、エコ(インドネシア)、レストランのロビー(インド)、マニュエル(インド)、アータン(トルコ)、ダフレ(インド、アプリアニ(インドネシア)、カルティニ(インドネシア)、レディ(グアテマラ)、プラサド(インドネシア)、プディアルタ(インドネシア)、そしてジムと10階の清掃のネストル(ペルー)などです。特にエリアスとネストルは別格でした。エリアスがバスタオルで作ってくれました。
   
ネストルは私がオーバオランドに行く時はスーツケースを舷門まで運んでくれ、帰って来たときは舷門で待ち構えていてスーツケースを部屋まで運んでくれました。7月に入ると私と目が合うと彼はもう涙目でした。ペルー人の彼の言葉はスペイン語。スペイン語の辞書を持ってこなかったのは大失敗でした。簡単な挨拶は電子辞書に載っていますが難しい文の翻訳はアリッサかエデゥーに頼みました。私はこの旅で他の人と特別に近しくなることは求めませんでしたし、避けました。食事は相席となりましたが。私はGETのクラスメートとオーバーランドでいつも一緒になったTさんとFさん以外は個人的に親しくなった人はいませんでした。
カメラ 今回の旅行のためにパナソニックのコンパクトデジカメ・ルミックスDMCTZ18を買いました。使いこなせるように水戸、岐阜、静岡、北海道旅行などで練習しました。広角でとても使い勝手が良いのですが、買って3ヶ月もしないのにゴミが入り、無料修理しました。その3ヶ月後またもごみが入って、無料修理。今回の旅でまたもゴミが入ってしまいました。予備にルミックスDMCFX500とPIXL21も持って行ったのですがFX500はピンぼけしやすく、PIXL21は広角でないなど使い勝手が良くありません。結局ゴミ入りカメラを使いました。一眼レフやミラーレスは私には重く荷物になるのでコンパクトデジカメが良いです。
電圧について 船内の電圧は220Vです。日本の多くの電気機器は変圧器なしでOKなのですがだめなものもあります。私は変圧器も準備したのですが、いくつもの電子機器を同時に使って容量をオーバーし、充電池充電器・シェーバー・簡易ケトルなどがショートし使えなくなりました。私は行く前から顎髭を生やしていたのですが、仕方なくすべての髭も生やすことにしました。
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今回のクルーズの全体の印象 中国は初めてでした。広いです。自由な個人旅は難しいようです。スリランカは内戦が終わり穏やかさを取り戻し豊かな自然と人々が魅力的でした。スエズ・パナマの運河は雄大で魅力的でした。ナポリでクルーズを離脱しフランス小旅行を楽しみました。この小旅行は大成功でした。最も、スイス国境越え鉄道の旅は薄氷ものでしたが。パリとパリ郊外の旅を十分楽しみました。北欧とバルト二国も十分堪能しました。オプショナルツアーをキャンセルし、フリーの街歩きにしてとても良かったです。ユーロが使えない国があるなど事前の調査が必要ですが、個人旅行は十分可能で再訪したいです。カマイマ(エンジェルフォール)は、アクシデントの連続でしたが楽しかったです。ティカル遺跡は迫力不足でした。テオティワカン遺跡は素敵でした。国立人類学博物館ももう一度訪れたい所です。ベルファスト~ベネズエラ間、メキシコ~横浜間はどこも立ち寄りませんでした。これはクルーズ計画の失敗です。カリブ諸島、ハワイ諸島に寄港するべきです。思い切って小笠原なども良いです。寄港地の停泊は1日がほとんどですが、寄港地数を少なくして2~3泊するのも良いかもしれません。オーバーランドツアーのホテルはピースボートに不釣り合いなほど豪華です。もっとリーズナブルなホテルで十分です。クルーズの一人部屋の料金は高すぎます。安くすれば希望者は増えるはずです。キャビンが大幅に空いているのですから。レストランの席も余裕があるのですから一人分のスペースをもっと広くし席も自由にした方が良いです。ジムは狭すぎで全く不満でした。少なくとも今の倍は必要です。五年前はベトナム反戦運動や全共闘運動を経験した人が少なからず乗っていて話題になったのですが、今回は彼らがいなかったのか、話題になりませんでした。その反面、高齢者の中に改憲、原発推進、集団的自衛権の見直しなどを言う人が少しですが乗っていて様変わりを感じました。
おおざっぱな費用(単位:円)、無粋ですが。一人部屋:2,970,000(定価は3,130,000のところ早割160,000引きとなります。) 経費:103,650(ビザ:10,750、ポート料:41,400、チップ:51,500) オプショナルツアー:1,034,000 英語:120,000 以上クルーズ合計:4,227,650 カ ー ド:252,300(内、ホテル:79,365、鉄道:45,840)[船内諸費用;飲食、ツアー追加、現地飲食、チケット、宅配便代、海外保険など] 使用した現金:345ユーロ(44,850)、618ドル(61,800) 【終わり】
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79回ピースボート、メキシコ人類学博物館・マンサニージョ

2013年08月31日 | 79回ピースボート
6月23日(日) 人類学博物館・マンサニージョ
 
 
エントランス 
  
圧巻でした。時間が無いのがつくづく残念でした。全部を見ることが出来ませんでした。私は大英博物館には行ったことはありませんが、ギリシャの考古学博物館も素晴らしいですし、メキシコ国立人類学博物館も素晴らしいです。入場料を聞くと60ペソ、約600円でした。ギリシャの考古学博物館も撮影出来ましたがここも出来ます(ビデオは有料)。入り口を入ると円形大噴水が天を支えるかのようです。第5室のテオキワカンの入り口、第7室・メヒカ(アステカ)の太陽の石、第10室・マヤ(チチェン・イツァー遺跡のチャック・モール像)、その地下の「地下パレンケの墓」を約一時間ガイドの説明を聞きながら回りました。第7室・メヒカでは、チソッケの石、テノチィトランの復元模型、島、市場の模型、太陽の石、コアトリクエ像=蛇のスカートをはいた像(蛇は大地の母の分身)、花の神の像などを見ました。自由時間は30分でした。残り、全て見ることは出来ません。第1室・先住民文化、第2室・人類学入門、第3室・アメリカの起源、第4室・先古典期、第11室・西部、第12室・北部、2階の民俗学フロアはパスせざるを得ませんでした。第5室・テオティワカンのケツァルコアトル神殿復元を見、第6室・トルテカ(トゥーラの戦士像)。第8室・オアハカ(金銀の装飾、モンテ・アルバンの「踊る人」のレリーフ)、第9室・メキシコ湾岸(オルメカの巨大人頭像)を小走りで見ていてタイムアップとなりました。
 
 
 
 
 
 
 
 

素朴という表現がぴったりです。と同時におおらかです。この博物館の大きな特徴は各国・各地の遺物を一同に集め展示していることです。ゆっくり全体を見学するとマヤの全体像の一部が理解できるかも知れません。マヤ、アステカ、インカの断絶性と連続性や最近相次いで発掘されているインカなどが総合的解明が本当に待たれます。 
~~~~
メキシコ盆地はかつては広大な湖でした。その中に浮かぶ島を中心にアステカ文明が繁栄していたのですが、侵略したスペインはアステカの地を埋め、その上に都市を築きました。従って、メキシコは土台が軟弱で地盤沈下が深刻な問題となっているそうです。私は、マヤ文明とメキシコの歴史についてて知識がありませんでした。おそらく私達は西洋が優れているという先入観を植え付けられているからでしょう、私達は古代ローマとほぼ同じ時代に素晴らしい文明を築いたマヤについて知らないのです。世界の歴史的三大文明は、エジプト・メソポタミア・ガンジスと言われその後、世界各地に色々な文明が生まれては消えました。今日までその影響を強く残しているのは古代ローマだけです。中国をそれに入れることが出来るか私は迷うのですが、モンゴル・満州・漢など総体を中華とすれば入れることが出来るかも知れません。テオキワカンは古代ローマの後期に当たりますがティカルやオアハカなどマヤ文明総体は、ほぼそれと同じ時代だったかと思うと私はぞくぞくしました。古代ローマファンの私は、ローマは今日まで影響を及ぼし、現代にも生き、ひとりローマだけが1000年にも及ぶ年月を生き延び、今日なお生き続けているのかに思いを巡らせます。ローマはゲルマンなどの北方民族の南下に常に脅かされました。彼らは人口が増える度に暖かで実り豊かな南に行かざるを得なかったのです。秦もモンゴルの南下に常におびえました。秦は長城を築くことでそれを防ごうとしました。一方ローマのカエサルはローマの城壁を壊し、水道橋を作り、そして侵略されやすい高速道路を作りました。重装備したローマ軍はこの高速道路を一日50kmも進軍したそうです。ローマは攻略した地域の民族がローマに従い同盟関係に入り、10%(確か)の税を払えば彼らの命・財産・宗教や慣習をそっくり認め、一定の条件を満たせばローマ市民権をあたえました。ローマは、その地にローマ軍基地を作りローマ軍を駐留させないで要の所だけにローマ軍を置きました。各地に要塞を作り常備軍を常駐させるには莫大な費用と人員を必要するばかりで無く、その地の人々に侵略者ローマを想像させ人々に反感を抱かせてしまうからです。外部からの侵略があった時はまず同盟国が自身で抵抗している間に拠点に駐留しているローマ軍が進軍し、さらにローマから軍団が高速道路でたどり着いたと言います。各地の人々にとっても自衛するよりローマによる平和の方が安上がりでリスクが少ないのです。この「パックス・ロマーナ」は古代ローマを繁栄させました。ローマと秦との単純な比較や優劣を考えるのは軽々過ぎますが、ローマの開かれた寛容さは計り知れない優位さと私は思います。ローマはインフラに大変な力を注ぎます。ローマは攻略した地にローマと同様の飲料水を確保するための水道橋や衛生のための浴場を作りました。高速道路は軍の移動だけで無くそれ以上に人々と各地の物資を交流させ各地も富ませました。ローマも秦もそしてマヤも多神教であったことは興味深いことです。カエサル以前のローマは共和制、カエサル以後は帝政(ローマの帝政は王が絶対権力を持っているのではなく、いわば市民が皇帝を選びます)ですが、マヤは宗教関係者や王が権力を握り宗教と政治は不可分一体でした。マヤでは投資は社会的インフラにではなく、神殿などの非生産的部門に費やされました。人々の日々の生活を富ませるためにでは無いところに社会的富が費やされたのでした。マヤの文明の崩壊の一理として食糧増産が人口過多に追いつかず、その諍いと内紛・内戦説があります。当時のマヤの人口は、一説によると20万人を超えていたそうです。東西に分裂した東ローマのコンスタンチノープル(今のイスタンブール)の人口が2万とも3万とも言われていますのでその大きさはすごいです。また、巨大でたくさんの神殿の表面は全て分厚い(30~40cm)漆喰で覆われていました。漆喰は石灰を焼いて作るそうでそのため大量の木材が伐採、焼かれ、荒れ地化しました。森林がすさまじい勢いで荒れ地になり環境破壊が進行し人口増加と食糧難に悩まされたに違いありません。私は神殿建設・漆喰製造のために大量の森林が焼かれ農地が荒れたことがマヤの崩壊の一大要因と思っています。今日、周辺は森林で覆われているのはこの地が亜熱帯性気候で年9ヶ月は雨季と言われる多雨の地域ですから、森林の復活にも多くの時間がかからなかったのかもしれません(これは私の想像です。) 神殿の偉大を感じると同時に私は生産に関係ないことに富を使うのは今日のバブル以上のむなしさも同時に感じるのでした。国立人類学博物館に行ったとき、こんなに豊かな人々なのに人は文明はもろく滅んでいくのだな、と思うと同時に今後の研究と発掘が期待されます。インカ文明との断続性はどうなのでしょう。また、アメリカンインディアンとの関係も私は全く知りません。スペインが中南米に侵略したのは16世紀大航海時代です。北欧バイキングはそれ以前に北米に移住していたと言われています。中世16世紀のスペイン人が奪ったのは主に金銀だけでしたが、19世紀のイギリスは歴史的遺産残らず略奪しました。スペインが中南米を侵略したのは16世紀だったので、当時そこに眠っていた"国宝的遺物"は持ち去られることが無く現地に残り、国立人類学博物館で見ることが出来るのは奇跡としか言いようがありません。イギリス、アメリカ、フランス、スペインは各地から略奪した宝物を本国に返すべきです。
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18時ホテルに戻りました。夕飯は別のホテルのレストランで取りました。集合時間は19:20なので大急ぎでお風呂に入り、最後のブログを発信しました。その時、カメラからパソコンへ取り込みの一部が失敗しました。ちょうどテオキワカン遺産の所だったのでがっかりしましたが、時間が無いのでとりあえず発信しました。食べ物は撮り忘れました。

12人の男性が大中小のクラシックギター、トランペット、バイオリン、ハープなどで演奏するマリアッチと言われるメキシコの伝統的音楽スタイルの楽団の演奏付きでした。150人ほど入るその店の90%以上は日本人観光客だったようです。気取っていないバンドでステージに昇っての記念写真はOKがウリなのですが、多くの日本人女性客が傍若無人的にステージに上がり、記念撮影をするのですがノーチップで降りて来ました。ホテルに戻ったのは9時過ぎでした。ダメ元でネットを開くとまだ時間(インターネットは有料で24時間)が少し残っていました。カメラのメデイアからパソコンへの取り込みを再試みすると出来ました。理由はわかりませんが真ん中の100枚ほどがパスされていました。大急ぎで先ほど更新したブログを訂正し、ニュースとメールのチェックをして休みました。【テオキワカン終わり】
6月24日(月) マンサニージョ 7:45ホテルを出発し、メキシコシティ空港へ向かいました。ホテルの窓から 空港まではかなりの渋滞でした。

11:00発の予定が10:25に変更になりましたが出発したのは11:15分、マンサニージョ空港に着いたのは12:20でした。この便はチャーター便で、国内便なので搭乗手続きにはパスポートの提示など無くエージェントが事前に手続きしていたので時間はかかりませんでした。ホテルの宿泊を一人部屋にした数名がビジネスシートに優先されました。足下座席ともゆったりしていますがこの席でヨーロッパなどへの12時間はやはりきつそうでした。国内線ですがドリンクはウイスキーが飲めました。マンサニージョ空港はとても小さい空港で出るときはセキュリティチェックなどは全くありませんでした。

バスで、浜辺の“海の家”のレストランで、タコスのランチでした。
 
体を動かしていないのでちょうど良いボリュウムでした。3米ドルのビールを飲みました。そこから船までは30分ほど、15時過ぎに船に戻りました。舷門に10階のクルーであるネストレが涙目で待っていて私のスーツケースをキャビンまで運んでくれました。オーバーランドした我々には入国審査と出国審査もありました。マンサニージョには特別な観光名所も町並みに特徴があるわけでは無いので買い物を目的に雨中出かけました。

二人の老婆が店番しているマンゴーを売っている一角がありました。私が覗くと「マンゴ、ワンダラー」というのです。大きな袋に8個ほどは入っていたでしょうか。船に戻ってハウスキーパーや私の気に入っているツアー添乗員と友達にお裾分けしました。こうして最後の寄港地もあっけなく終わりました。マンサニージョを出航すると横浜まで18日間どこにも立ち寄りません。 マンサニージョ出航
  
【メキシコ終わり】
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79回ピースボート、テオティワカン遺跡(メキシコ)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
6月22日(土) アカプルコ・テオティワカン(メキシコ)  

テオティワカン遺跡・太陽のピラミッド

メキシコは日本の5倍以上の広さを持つ大国です。米墨戦争でアメリカ合衆国はかつてメキシコに属していたテキサス州やカリフォルニア州など広大な土地をわずかな金額で買収したのでした。その後、これらの地はゴールドラッシュや石油の一大産地となりました。歴史に"もし"は無意味ですが、USAがこれらの広大な領地を略奪しなければ、今日のUSAはあり得なかったことは確かです。アカプルコに正午に着きました。アカプルコ港の案内人 警備艇

私は、2泊3日のオーバーランドツアー『テオティワカン遺跡ツアー』に参加しました。集合時間は、12:15分でしたので、慌ただしい昼食でした。集合場所には、ペルー人クルーのネストレが待っていて、私の荷物を舷門まで運んでくれました。日本公園・支倉常長像
 
アカプルコは、メキシコの真ん中より少し南の太平洋側にある港で、リゾート地しても有名です。 アカプルコ空港
 
アカプルコ16:27発、メキシコシティ着は17:48、シェラトン・マリア・イザベル・ホテルに19時にチェックインしました。連泊です。シェラトンホテルは有名なホテルですが、ここは建物・設備も古く、やたらダブルベッドだけが豪華で、私の部屋はそれが二つもありました。私は9000円の割増料金を払っての一人部屋ですので何とも滑稽でした。インターネットは光ケーブルのランケーブルなので早く便利なのですが、料金が24時間20米ドル(米ドルは使用できないのでカード決済です)と高かったです。ホテルの部屋から
 
一日目は移動日。船を1時に出てバスでメキシコシティ空港に向かいました。メキシコシティは大都会で道路には車があふれていました。メキシコシティは盆地になっているので自動車の排気ガスが盆地内にとどまり、大気汚染に悩まされているようです。メキシコは貧富の差が目に見える形で現れるようです。一番は、住んでいる地区、どんな家に住んでいるか、次が交通手段、子どもの通う学校の格差です。教員の給料が非常に安いため、教員のなり手が少なく、公立学校の教育レベルがとても低く、中間層は私立の学校に子どもを入れます。その私立学校にもたくさんのランクがあるそうです。スクールバスは交通渋滞のため時間が当てにならないのと安全でないので、子どもの学校の送迎に親たちが自家用車を使います。メキシコのラッシュは、早朝、学校の帰宅時間である昼過ぎと夕方の通勤の帰宅時間の3回あるそうです。【一日目終わり】
6月23日(日) グアダルーペ寺院・テオキワカン・国立人類学博物館  早朝8時にホテルを出発しました。 
  
グアダルーペ寺院を初めに訪れました。カソリックの三大奇跡の一つです。フランスのルルドの泉、 ポルトガルのファーティマの聖母とこのグアダルーペ寺院です。かつてそれがあった教会は地盤沈下のため傾たのでその隣にバシリカを建てられました。新しいバシリカ

奇跡を起こした褐色のマリア像、着衣が本物と言われています。聖母の絵の前は動く歩道です。写真撮影のためずっと立ち止まると大混雑し、後の人が参拝できないからでしょう。
 
有料トイレ 同じ敷地内のある教会 跪いて参拝する人 その教会からの展望 グアダルーペ寺院の壁の大砲(教会は要塞も兼ねていたそうです。) 

バスで、テキーラと黒曜石のお店に 黒曜石の加工職人 タイヤの空気圧を調節する道具だそうです。
   
サボテンの一種類、繊維質で紙の材料ともなるそうです。テキーラの材料となる竜舌蘭とは別種とのことでした。このお土産屋への立ち寄りは私には不要でその時間を次の二つの観光に当てるべきでした。

テオキワカン遺跡 は、「すごい」の一言でした。上:太陽のピラミッド 下:太陽の神殿から死者の道・中央入口

私達は、月のピラミッドの入り口から入りました。 住居跡 


月のピラミッドから、月のピラミッド広場、死者の道[中央]、太陽のピラミッド[左端]
 
月のピラミッド 

 
ジャガーの神殿 土台に勾配があるのは水はけを良くするためです。太陽のピラミッドに向かう壁の中にきれいなジャガーが
                                   
太陽のピラミッド
 
  
太陽のピラミッドのてっぺんからの眺望 ケツァルパパロトルピラミッド(遠いので行けませんでした。)  太陽のピラミッド前広場

博物館、ケツァルパパロトルピラミッドゲート方向 月のピラミッド 月のピラミッドと死者の道 漆喰跡・木片の先まで漆喰が塗られたいたそうです。30~50cmはあるでしょうか。


漆喰を作るには大量の熱源が必要で、木々が大量に伐採され森林が荒廃したそうです。ケツァルコアトルの神殿は遠いので行けませんでした。テオキワカン遺跡は高度2000メートル以上あるので、ピラミッド登坂は息が苦しくなり、踊り場に着く度に休憩して昇りました。ピラミッドは何代かに渡って作られるのが一般的ですが太陽のピラミッドは一代で作られたそうです。太陽の神殿は、高さ65m、底辺225m、エジプトのギザのピラミッドより少し小さく低いですが、世界で三番目の巨大建築物です。遺跡全体の広さはテオキワカン遺跡の方が広大と言えそうですが、太陽の神殿は、トップまで歩いて昇ることが出来、遺跡群を360度眺望できます。ギザのピラミッドは、一つの石が何十トンもある巨石で作られ、人力では昇ることが出来ませんが、テオキワカンは天に近いところで宗教的儀式が出来るように作られた階段状でで上り下りできるのです。このまま多くの観光客が訪れると遺跡が傷んでしまうので、将来は立ち入りが制限されるかもしれません。市内のレストランで、音楽演奏付きのランチでした。レストラン中庭
 
午後はメキシコ市内に戻り、歴史地区であるソカロ地区を30分散策しました。ソカロ広場、その横に国立宮殿があります。国立宮殿の一部は博物館でありまた大統領官邸もあるそうです。
  
その横にメトロポリタン大聖堂、サグラリオが右側に併設されています。
 
この部屋は特別料金が取られましたがいくらかは忘れました。

サグラリオ メトロポリタン大聖堂の右に隣接します。

国立人類学博物館に向かいました。 ここは写真が多いので、項を変えます。【テオティワカン終わり・続く】
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79回ピースボート、プエルトケツァル・ティカル遺跡(グアテマラ)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
6月19日(水)  プエルトケツアル・ティカル遺跡(グアテマラ) 

ティカル遺跡


プエルトケツアルは小さな港で、大きな客船が着岸できる桟橋がありません。
 
簡易橋でつながれた浮き桟橋に朝6時過ぎ着岸しました。大きな港は倉庫やコンテナやクレーンなど殺風景なことが多いのですが、ここプエルトケツァルは緑できれいに覆われた穏やかで優しい風景でした。私は、1泊2日の『ティカル遺跡』ツアーに参加しました。船が2日停泊するのでオーバーランドとは言いません。ゆっくりした朝食を食べ、船を出発したのは9時でした。飛行場まではほんのわずかな距離なのですが、道路はスピードが出ないように頻繁に突起が作られています。車窓からうかがわれる人々の生活は決して豊かではないのですようです。小川は汚れて道路の所々にゴミが捨てられていますが、通り全体にはゴミが散乱していません。人々は私達に笑顔で手を振ってくれました。
 
9時30分発の飛行機に乗る予定でしたが、30数人乗りの小型チャーター機が来ていません。ここは民間飛行場では無く、軍との供用飛行場のようで民間の定期便などは無いらしいです。
 
結局、待機していた飛行機は整備不良で飛行できないのでした。そこで私達の前に出発した飛行機が引き返すことになりました。往復では2時間半以上もかかるので私達は船に戻って船のランチを食べた後再出発と言うことになりました。10:30頃、軍の落下傘訓練の終了演習が行われ、演習を終えた兵士三人が私達の所に来て記念撮影に応じてくれました。

11:20船に引き返し12:45に集合し出発。こうしたアクシデントに起こりうるもなのですが、「金を返せ」と怒って落下傘部隊の降下演習を見ない人もいました。13:30分のフライトでフローレスの空港に向かいました。軍用空港というのに行きは全くセキュリティチェックも搭乗手続きもありませんでした。  窓口・構内に人はいません。

X線のセキュリティチェックの機械はなく、人の手で荷物検査をする人もいないようでした。一日目と二日目の日程を入れ替えて一日目はフローレス島の観光となりました。14:40にフローレス島に着き観光を開始したのですが、かなりの雨が降っていました。フローレス島はティカルへのベースキャンプのようなところでホテルと土産物屋だけです。この島はとても狭い上に特別の観光名所があるわけではないので20分も歩くと終わりです。
 

17時にはカミノ・レアル・ティカルホテルに着きました。ティカル国立公園の近くに位置し湖を見下ろす山の中腹にあります。ホテルはロッジ風コテージとでも言うのでしょうかしゃれていて文句なしでした。私は10ドルのWiFi使用料を払い、溜まっていたメールのチェックとブログ更新を夜10時頃までしました。
 

6月20日(木) フローレス島からティカル遺跡
ホテル出発はなんと7:30。私は5時に目が覚めたので再度メールやインターネットを楽しみました。この時、のどに少し違和感があったのですが深刻ではありませんでした。船に戻る頃のどは本格的に痛くなって来ました。8:45からティカル遺跡巡りが始まりました。遺跡全体は24km四方あるそうでその中心の4km四方が発掘されただけでその全体像・全貌はまだ明らかになっていません。トルティーヤが道ばたで作られ売られ繁盛していました。ティカル遺跡入り口 CEIBA(国の木)、樹齢140年
 
最初に訪れたのはコンプレックスQ  ピラミッドを作った王のモニュメント 

1号神殿
 
ジャガーの神殿 セントラルアクロポリス
 
グラン・プラザ
  
失われた世界 ウモリの宮殿(窓の宮殿)
 
仮面は雨の神
      
トイレ 4号神殿(いわばティカル遺跡のシンボルで昇ることが出来ます。)

まだ発掘されていない遺跡 マホガニーの木 アライグマの一種(?) 

12:30公園の入り口に戻りレストランでランチ。豪華なバッフェスタイルでしたが写真は撮り忘れました。気温・湿度が高くだいぶ汗をかきこの後は歩かないのでビールを飲みました。13:30バスで出発、15:00飛行場に着きました。この空港も軍用飛行場ですがフローレス飛行場より大きく職員も多く、X線によるセキュリティチェック機械は無いようで鞄を一つ一つ開けてチェック、時間がかかり、爪切りなどもだめで預け荷物となりましたが、水の持ち込みなどは無頓着でOKでした。結局飛行機が出発したのは15:55でした。飛行機は30数人乗り、チャーター便でアテンダントが二人がいて飲み物とスナック菓子を配りました。ホテル一人部屋利用者にはビジネスシートが割り当てられ快適でした。フローレス空港に着いたのは1時間後でした。そこで最後のハプニング。機内に持ち込めない物は添乗員が集め飛行機への預け荷物になりましたが、その荷物が飛行機に乗っていなかったのでした。添乗員も旅行代理店職員も大汗で機内を探したり連絡したり、約15分後到着したもう一機の飛行機にそれは乗っていたのでした。バスの中から 港ターミナルで

私のどはかなり痛んで来たので港周辺のお土産屋には寄らず帰船しシャワーを浴び少し休んで食事を取りました。のどが渇いたのでハヤシライスをおかずにきんきんに冷えた缶ビールを2杯飲みました。
~~~~
マヤ文明はインカ文明と同一視、混同されやすいですが同一ではありません。マヤ文明は紀元前数世紀から紀元7世紀頃までメキシコ・グアテマラの熱帯ジャングルの中に栄えた都市・神殿国家連合です。単一の中央集権的な国家では無く、メキシコ半島やユカタン半島の各地に神殿を中心とした地域国家が緩やかに連合、並存していたようです。彼らはジャングルや山を越えて相互に交流してしたことは遺物からわかるようです。そのいくつかが今日ティカル遺跡やテオキワカン遺跡として今日残っているのです。彼らがどこからやって来て、この地を捨ててどこに向かったは今もなぞで定説は無いようです。有力説はアジアから来たモンゴロイドで中南米各地に散らばりインカやアステカ文明につながっがたとする考えですが、その連続性と断絶性は簡単には説明できないようです。彼らの滅亡は人口増加による食料を巡る内紛、内戦、病気、自然災害などいろいろありますがまだ明らかにされていません。多くの巨大ピラミッドは分厚い漆喰で覆われていました。漆喰を作るにはたくさんの火力=木材を必要で、広大な森林が伐採され大地が荒れ、また人口の増加が相まって内紛・内戦に至ったと私は思います。いずれにしてもヨーロッパでは古代ローマ時代、アジアでは秦の時代で日本はまだ弥生時代です。マヤ人は独特の文字体系と天文学に特に優れていたようです。天文というと私達は農耕を思い浮かべますが彼らの主食はトウモロコシでした。アマゾンの段々畑は有名ですが、この地にもあったのでしょうか、それとも森林が伐採され広大な農地があったのでしょうか、現在はジャングルで想像が付きません。古代文明だけで無く中世・近代でも大きな都市が開かれ発展したのは水が豊かな地域が多いですが、マヤには大きな河川や湖などはありません。。熱帯性気候は一年の9ヶ月は雨季で水は豊富で、人工のダム・湖・貯水池を沢山作り水を蓄え、また地下には豊かな水が潜んでいるのでしょう。支配者はダム・湖・貯水池などの潅漑力に力を注いだと思います。その技術が神殿ピラミッド建設に使われたと思います。社会的インフラより宗教的意味が強いピラミッドに心血をより注いだ理由が私にはやはり理解できません。この地全体が霊的スポットで人々はこの地に頻繁に巡礼して来たと言われますが、インカ道は巾1~3メート、マヤ道は100メートルほどあったと言われますが、たくさんの人が巡礼に訪れるからと言う説明は私には釈然としません。マヤの人口は最盛期では20万人ほどと言われています。20万人が毎日巡礼する訳では無いのですから道幅100メートルは必要無いはずです。私達が現在通る道でも10~15mです。雨の多いティカルのピラミッドはエジプトのそれとはだいぶ違って、大地より数メートル高い台を作り、水はけを良くするためわずかに勾配・傾斜しているそうです。ピラミッドは一つでは無く左右対称の2基だったり東西南北の4基だったりするそうです。それらの塊は今日コンプレックスと言われ時代によってその様式が変化しているようです。さて、同時代のローマはその後長く繁栄し、マヤはそうではありませんでした。単純な比較で軽々には言えませんが政治体制と社会的インフラの問題が大きかったと私は思っています。ローマは共和制から帝政となりましたが王の独裁体制ではありませんでした。ローマでは水道橋や道路などの社会的インフラという生産に効果的な設備に資本が投下されましたが、他方マヤは非生産的な宗教的施設に多くの富が費やされました。これは一面的すぎるでしょうか。ティカル遺跡、規模は広大ですが発掘・調査はまだまだ十分行われていません。ティカルについてはほとんど予備知識がありませんでした。もう一日グアテマラに滞在してグアテマラ市内のほんの一部でもゆっくり歩けたら良いなぁとつくづく思います。【ティカル終わり】
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79回ピースボート、パナマ運河

2013年08月31日 | 79回ピースボート
6月15日(土) パナマ運河航行

  

パナマ運河の大西洋側の町はクリストバル市、港はコロンです。コロン港に着岸したのは朝9時と言うことです。私は、6月12日からオーバーランドツアーに参加し、船に合流したのは15日の夕方でした。パナマ運河はフラットではありません。海抜0mの海岸から中央部は標高26mのガトゥン湖です。この高低差を埋めるのが閘門式と呼ばれる水門です。イラストは埼玉県見沼用水閘門からの引用です。

パナマ運河を通ることが出来る大きさのことをパナマックスサイズと言い、現在通過出来る船舶のサイズは全長:294m、幅:32.3m、喫水:12m以下です。多くの船の幅が狭いのはこのためです。現在、拡張工事が行われており、来年の完成後は、それぞれ最大366m、49m、15mまでの航行が可能となるそうです。ピースボートの船巾は26.5mと狭いのでまだ余裕があります。

船の自走だけでは壁と始終接触するので前後左右4台の電気機関車(日本製で一大億円とか)が船を牽引します。閘門箇所  また水先案内のパイロットも乗船します。 電源を取る装置

ガトゥン閘門

狭い航路では進路計に頼るより遠近の柱が重なるように進路を取る方が安全だそうです。センティニアル橋 見る見る真っ黒な雲が

ミラーレス閘門 ミラフローレス閘門を見る施設
    
アメリカ橋                               
 
パナマ運河の航行は丸一日かかります。航行船舶数に限りがあるのでかなりの前から申し込みが必要で、OK後の変更などは難しいそうです。この日の気温は今回のクルーズで一番の高温でした。おそらく40度を超えていたでしょう。私は、何回かキャビンに戻って休憩したり昼寝をしたりしました。パナマ港から太平洋に出る次の二枚の写真は、キャビンの窓際に座って撮ったもの。

パナマ運河の通航料は、1トン当たり1.39ドルだそうです。オーシャンドリーム号の場合は49000ドル・日本円で約500万円位でしょうか。2009年の時はパナマ運河を船上からは航行しませんでした。マチュピチュへのオーバーランドツアーを選んだからです。今回のクルーズではスエズ運河とパナマ運河の両方を船から通ることの出来るツアーなどを選びました。パナマ運河は1914年完成以来1999年パナマ政府に返還されるまでアメリカが管理して来ました。現在もアメリカの影響はとてつもなく大きくその軍事的プレゼンスは計り知れないほど巨大です。パナマのガソリンはアメリカのおかげで1リッター当たり1ドル以下だそうです。【パナマ運河終わり】
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79回ピースボート、カナイマ国立公園・サポ湖・エンジェルフォール

2013年08月31日 | 79回ピースボート
6月12日(水) カナイマ国立公園 カナイマ国立公園に向かう大湿地帯

エンジェルフォール

テーブルマウンテン

テーブルマウンテン

私は『カナイマ国立公園4日間』のオーバーランドツアーを申し込みました。9:30バスでカラカス空港へ。カラカス空港からカナイマ国立公園の玄関・プエルトオルダス空港へ。12:00発の予定が1時間30分以上遅れて出発、空港で水を買いました。店で買うと20ボリバル(約300円)、自動販売機だと8ボリバル(120円)、恐る恐る自動販売機に挑戦しました。20ボリバル札を入れ無事買えましたが、おつりは1ボリバルコイン12枚でした。セスナは3人他は小型機、私は抽選でセスナになりました。セスナの運転席 セスナは運転手を含め4人乗り、もの凄い振動と騒音で、雲の中に入ると大きく揺れました。

カナイマ空港までは約1時間 途中大湿地・湖沼地帯を越えて行きます。

テーブルマウンテンが近づく頃に大雨となり、エンジェルフォールもテーブルマウンテンも見ることは出来ませんでした。カナイマ空港からトラックに座席を付けた車でロッジに向かいました。ロッジに着いたのは4時を過ぎ、昼食はロッジですることになっているのでおなかはぺこぺこで、慌ただしいランチを食べてサポ滝に向かいました。水着に着替え上半身は裸、ビニールのレインコートを羽織りました。レインコートは雨や滝から濡れるのを避けるためでは無く寒さ対策です。サポ滝まではボートで行くのですが途中にいくつかの滝があるのですが、雨のため写真は全く撮れませんでした。雨季のためサポ滝に水量はすごい勢いでした。滝の裏を歩きます。風と水しぶきが下から巻き上がります。


カメラをぬらさないように注意したのですが、とうとう途中でレンズの窓が開かなくなり、手で開けました。でも壊れなくて良かったです。帰る頃にはすっかり暗くなっていました。

5年前訪れた時は11月で、帰りは寒くブルブル震えました。今回はレインコートを着、気温も高かったようで寒くはありませんでした。ロッジは二人部屋、相手は武陵源で一緒だったFさんです。水道水はタンニンが溶けているので茶色に濁っています。雨用のレインコートを船に置いてきたのは失敗でした。夕食は、19:30からで豪華なバッフェメニューでした。川の水はタンニンで濃い茶色です。明日は早朝5時出発で4時起床です。【カナイマ1日目終わり】
 
6月13日(木) 二日目・エンジェルフォール 今日はこのオーバーランドのメイン・エンジェルフォールが見える地点までジャングルを片道2時間半以上歩きます。4:20分にドアをたたくモーニングコールがあり、クラッカーとコーヒーでお腹を少し満たし、朝5時の出発。天気は雨、私は昨日と同様、下は水泳パンツ上はTシャツとヤッケとビニールカッパ、スニーカーは濡れるとマメが出来そうなので止め、紐付きサンダルにしました。正解でした。ジープでボート乗り場に行き、小一時間ほどボートでオルキデア島に行きました。蟻塚
 
オルキデア島でチーズとハムのサンドイッチとミカン、ジュースとコーヒーの朝食を取りました。再び30分ほどボートに乗って、30分ほど歩きました。川が浅瀬で急流になるのでボートでは無理なのです。

更に1時間ほどボートに乗っていよいよジャングルトレッキング。天気は依然と大雨、ジャングルなので野外のトイレ。体調の良くない二人はここのベースキャンプで待機を選びました。最高齢は81歳の女性でした。いかに自己責任とは言え暴挙としか言いようがありません。ジャングルトレッキングはかなりハードでした。下は木の根っこが蔓延んだり水たまりだったり滑りやすい岩だったりでした。約1時間ほど歩くと今度はかなりの急勾配が30分続きました。目の前にエンジェルフォールがありました。。

雨と風で写真をゆっくり撮るゆとりはありませんし、岩場の先は絶壁です。おそらくこの場には5分ほどしかいなかったのでは無いでしょうか。たったこの5分間のために私たちは大変な苦労と努力をしたのでした。帰り道は下りでしたのでとても楽でした。私は四つん這いで降りました。ベースキャンプの入り口に行く川はなぜか水かさが減ってボートでは渡れないというのです。そこでなんと無謀にも手をつないで渡河すると言うのでした。スタッフは、ライフジャケットやロープを準備していません。流れはかなり急でおまけに下は滑りやすい石と木の根が沈んでいるので、背の小さい人や力の無い人にはとても危険でした。何事も無かったのは幸いとしか言いようがありません。皮肉なことにこの渡河を終えた頃雨が止んで来ました。ベースキャンプに戻るときれいな虹が私たちを迎えてくれました。2時を過ぎていたのでは無いでしょうか。ここで遅いランチを頂きました。胡椒と塩が効いたチキンはおいしかったです。来た道と同じ帰り道はちょっと退屈で疲れていたのですが私たちはエンジェルフォールを見ることができ、また険しい道を歩き通すことが出来た喜びとで疲れを支えていました。

川の水は植物のタンニンが溶けて茶色で、浅瀬ではかなりの急流です。

ロッジに戻ったのは6時半を過ぎていたのでは無いでしょうか。雨が降っているので時間などをメモしたり悪路や険しい道を写真に撮るするゆとりはありませんでした。夕食は19時半、高いワインをたっぷりのんびり頂きました。
 
【二日目・エンジェルフォール終わり】 【2009年訪れた時のエンジェルフォールのブログ】
6月14日(金) 今日はパナマシティへの移動日、晴れ。しかしこの先、想像を絶する事態が起きたのでした。7時のモーニングコールでゆっくり起床し、朝食もゆっくりたっぷり頂き、ゆっくりロッジ内の庭を散歩しました。

庭から滝と川と山が見えます。
          
2009年に訪れたのは2月で乾季で夜空はまさに満天の星、天の川がピンク色に染まっていました。私がこれまでで一番すばらしい夜空でした。撮影を試みたのですが上手く撮れませんでした。私が今回この地を再訪したいと思った最大の理由はその星空カメラに納めたいと言うことでした。しかし今回6月は雨季で連日雨で星は全く見ることが出来ませんでした。その代わりエンジェルフォールの水量は豊富ですごい迫力でした。近くのお土産屋で買い物。日本人観光客が多いのでしょう、「定価販売です」の看板がしっかりありました。私は60ボリバルほど残っていたので絵はがき一枚と木の実などで作った安いネックレスを買いました。もう一軒あるお土産屋でサウジアラビアで帽子を無くしたのでつばの広い安い帽子とバッグを買いました。9時にロッジを出発し、カナイマ空港にトラックバスで向かいました。小型機とセスナに分乗してエンジェルフォールへの遊覧飛行があったのですが、小型機からは滝が近すぎて水しぶきしか見えませんでした。これはパイロットのミスでもっと離れるべきです。

プエルトオルダス空港に12時過ぎに着き、ボックスのランチはおいしくはありませんでした。

~~想像を絶する事態とは、飛行機の故障~~ プエルトオルダス14:00発の予定ですが、ゲートや搭乗時間の案内が皆無でした。スペイン語の放送があり長い行列が出来ました。私は遅延証明の発行かと思ったのですが、証明書をもらった人がレストランで食事をするので私はおかしいなとは思って見ていました。すると我々のツアーの中の一人が行列している人に事情を聞いて、自分だけ軽食をもらい、フリーだと自慢気でした。添乗員に言えば皆にも行き渡ることが出来るのに実に嫌みな奴でした。私が「手続き時間は終わってしまったようだがどうも無料の軽食サービスがあるらしい」と添乗員に告げると、彼女はまずレストラン、次は航空会社と交渉するとサンドイッチと飲み物が全員に配られました。そのサンドイッチを食べている最中にカラカス行きの飛行機の搭乗手続き開始の放送がありました。サンドイッチを慌ててしまい飛行機に搭乗したのは18:20でした。しかし、エアコンの音が全くせず機内はすごい暑さ。最初、機長は天候不良のため遅れると言いました。確かに雨が降り遠くで稲光がしていましたが、エアコンが入らないはずはありません。19:40になってやっとエアコンが故障しているので代替機に乗り換える予定だと放送があり、20:00代替機に乗り換えました。飛行機の故障は初めての経験でした。パナマ行きの飛行機が無いようで、今日中にパナマシティに行くのは全く不可能です。最初の航空券の半券を処分してしまった人もいたので新しい飛行機では席は自由です。私はこの飛行機が墜落したときは搭乗者名簿も搭乗席の記録もないのだから、誰が死んだのかわからないだろうなどと想像していました。この間搭乗員の片淵さんは上司や現地のエージェントに電話して飛行機やホテルの手配などに奔走していました。空港内はWiFiがあるようなのですが電波事情も悪く携帯電話の充電装置も十分でなく苦労したようです。20:40無事プエルトオルダス空港を飛び立ち、カラカス空港に着いたのは21:40でした。ベネズエラのカラカス市内に泊まることになりました。空港で明日の飛行機のチケット確保の手続きにかなり時間がかかり、空港を発ったのは11:30頃だったと思います。乗ったバスは壊れそうな古いマイクロバスでエアコンは無く、運転席には彼の妻と子どもが同乗していました。着いたホテルは船が停泊していたラグアイラ港からすぐ近くの下町で見るからに治安が悪そうでした。ホテルの駐車場入り口は頑丈な鉄扉で、周囲は高い塀で囲まれていました。現地エージェントから敷地外には絶対出ないようにとの要請がありました。ホテルの名前はサンチャゴホテルという美しい名のついた三つ星ホテルでした。ルームサービスの夕食が12時過ぎに配られました。

ホテル内にレストランはあるのですが金曜の夜と言うことも相まって夜中なのに客が飲んだり踊ったりしていました。我々日本人がそこで食事を取るのは簡単では無いと判断してルームサービスの食事にしたのでしょう。シャワーはお湯が出ません。仕方なく水で体を洗いました。私はあまり空腹では無かったのですが何があるかわからない、食べられる時食べておこうと塩胡椒のちょっと効いたチキンをおかずに持参したウイスキーを飲んで寝ました。【三日目終わり
6月15日(土) 5:20分激しいドアのノックのモーニングコールで目が覚めました。6:10にホテルを出発しカラカス空港には7時前に着きました。

チケット予約は昨日終わっていてパナマ行きは11:30なのですから4時間半以上も前に飛行場です。搭乗手続きにすごい時間がかかるからだとわかりました。パスポート番号と氏名が記入されたEチケットのような物が発行され、後にセキュリティ番号受付でそのEチケットナンバーとパスポートナンバーが手書きで一覧表に記入し、その後で搭乗手続きが行われるようで、その度に行列するのでした。搭乗手続きが始まったのは8:10でした。無事全員のチケットと搭乗手続きが終わり遅い朝食を空港レストランで取りました。皆疲れてはいましたが見通しが立って表情は晴々しく楽しい朝食でした。マメと牛肉の煮込みとパンと卵というベネズエラのローカル料理でした。10時過ぎにゲートに集合しました。少しは遅れるだろうと思っていたのですが10時40分頃搭乗開始とのアナウンスがあり、私は慌てて散歩を切り上げ引き返しました。なんと出発予定の5分前に飛行機は離陸したのでした。予定時刻より早い出発も初めての経験でした。順調なフライトでパナマシティ空港に着いたのは13:20分でした。飛行時間は1時間30分なのですが30分の時差があるためです。


14時空港を出発して高速道路料金所入り口でバスがエンスト。代車を手配したと言われましたが、5分後にエンジンは直り快適に出発したのでした。

レストランでランチ、ビール小瓶が4.5ドルと安い上、何かトラブルがあっても船には簡単に帰れる安心感のため2本飲みました。
     
カスコ・アンティグオを歩いて散策しました。大統領官邸 コロニアル様式の建物
 
カテドラル 博物館 

サント・ドミンゴ(1678年の建物) フランス大使館
  
正義と法(文化センター)とフランス広場
     
港にあるカラフルな建物は大学博物館 アメリカ橋 パナマのコロン港

太平洋側のコロン港を17:40出発し、大西洋側のクリストバルに向かい、帰船したのは18時を少し回っていました。クリストバルで船と合流しパナマ運河を船に乗って通るのです。パナマ運河を通る船を陸から撮りました。クリストバルはとても治安が悪いそうです。港のフェンス内に大きいショッピングモール、スーパーマーケットがあります。

スーパーの出口で首から下げていたスマートフォンを取られた人が複数いたそうです。私は自分用とクルーのお土産にバナナやリンゴなどの果物とお菓子を沢山買いました。米ドルは使えますがお釣りはパナマドルでした。
『カナイマ国立公園4日間』オーバーランドツアーはいろんな事がありました。私は予想外の出来事を十分に堪能しました。マチュピチュのオーバオランドツアーは聞くところによると私達よりも大変だったようです。飛行機のエアコンが故障したため別の飛行機に変更になり、ホテル到着が大幅に遅れ、睡眠時間がほとんど無いまま出発となり、体調を崩し高山病になった人が多かったそうです。私達のツアーもマチュピチュツアーも大事故にならなかったからがら良かったものの薄氷ものでした。いずれの場合も大事故になる危険性はとても高かったのですから。【カナイマ国立公園終わり】
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79回ピースボート、ラグアイラ(ベネズエラ)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
6月11日(火) ラグアイラ(ベネズエラ)  


 
早朝6時ラグアイラ港に着岸しました。市内の治安は良くないので船内で現地通貨ボリバルへの両替サービスがありました。ヴェネズエラは公式には米ドルは使えません。首都のカラカス市内では全く使えませんが、観光地カナイマ国立公園では米ドルは使えます。1パック30ドル190ボリバルでした。私は、『ベネズエラの美術と文化に触れる』ツアーを申し込みました。8:45バスでカラカス市内に向かいました。 
 
1時間ほど走ってカラカス市まであとわずかな所でエンジンがストップ。1時間後代車が到着。最初に国立美術館に行きました。お世辞にも立派とは言えません。ピカソの絵が2点ありましたが所蔵品がとにかく少なく30分ほどで見終わってしまいました。

歩いて、現代美術館に向かいました。

現代美術館入り口 現代美術館 国立美術館よりだいぶ立派でした。ピカソ作品が2点、その他ミロとシャガールの作品がそれぞれ一点ずつありました。圧巻はピカソ室。神話を題材にした一連の作品集です。いずれも小さいモノクロ習作作品集です。たまたまあるオークションで手に入れたそうです。まとめ上げての購入だったのでとても高かったそうです。


13:50の遅いランチでした。右は、蜂蜜入りのお茶
  
コンビーフのような牛肉と塩味の小豆の煮物とライスという典型的な中南米のランチでした。素朴な食事で味はシンプルで決して美味では無いですが、まずくはありませんでした。小豆の煮物はあんこのようですが甘くなく塩味で結構行けます。この食事は中南米ではとてもポピュラーで以後何回か食べました。米ドルが使えるのでグラスビールを飲みました。歩いて世界無形文化遺産「ディアブロ・ダンサンテ(悪魔の踊り子たち)」[テレサ・カレーニョ劇場]を見ました。私達のために特別に設けられ、30分ほどのショーで、政府関係者が挨拶ありました。


バスまでの通りで。 バスで船に戻りました。
   
夜はベネズエラ政府と地元の州政府主催の歓迎イベントが行われました。シャトルバスで10分ほどの所ですが、バスの本数が少なく道路が混んでいて1時間以上かかりました。私は翌日オーバーランドツアーがあるので30分ほどで引き上げました。 港の看板
           
船から、ラグアイラの町 船を訪れていたベネズエラの学生達
 
石油が出る以前のベネズエラは最貧国の一つでした。無くなったチャベス大統領は反米を掲げて社会主義的政策を進めましたが、社会的インフラの整備と国民生活の安定はまだまだでたくさんの困難を抱えているようです。強烈なカリスマ性を持ったチャベス大統領が亡くなってアメリカのベネズエラ懐柔とCIAの策動が心配です。【ラグアイラ一日目終わり】
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79回ピースボート、ベルファスト(北アイルランド)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
5月30日(木) ベルファスト・北アイルランド


ベルファスト着岸は11時過ぎ。北アイルランドは入国に際し個人面談があり上陸許可が下りるまでかなりの時間を要しました。私は、「奇景の世界遺産、ジャイアンツ・コーズウェイ」を訪れるツアーに参加しました。出発は午後2時過ぎ。 羊の標識

途中「ブッシュミルズ・ウィスキー蒸留所」、ショッピングでした。英国皇太子も来たという。

ワイシャツでも暑かったのですがコーズウェイ(巨人の石道と言う意味)に近づくにつれ、曇り空になり風も強くなり、コーズウェイに着いたときは寒いかったです。私はオーバーズボンをはき、ウインドブレーカーの上にレインコートを着、手袋、マフラーの異様さ。ジャイアンツ・コーズウェイとコーズウェイ海岸は8kmほどの起伏に富んだ海岸線で、大量のマグマが冷却し6角形の柱状に凝固した柱状節理の奇岩群が続きます。割れ目のある石柱玄武岩の柱状が高さ100mほどの断崖から海中まで無数に密集しています。ビジターセンターから無料のシャトルバスが運行しています。

ビジターセンターで無料の日本語オーディオガイド貸してくれるのですが、あまり有効ではありませんでした。四つのトレイルコースがあります。難コース・超難コースはかなりの時間が必要す。私は行きはシャトルバスを使い、普通コース+ほんの一部難コースを歩き1時間以上かかり、帰りは歩きで、集合時間に間に合うため、急ぎ足で汗をかきました。この世界遺産を見るためだけでは北アイルランドに来ないと言う程度の奇景です。その後ダンルース城に向かいました。

ダンルース城
 
出発が遅かったのでホテルのレストランでツアーの夕食となりました。巨大なジャガイモとその他の野菜が少しと牛肉がの大盛りの「アイリッシュシチュー」、その実際はまさに「日本の肉じゃが」、日本のように出汁が効いていないのでおいしいとは言えません。

ベルファストの町に戻り、バスから町を見学しました。

路上ではアルコールはだめです。 クイーンズ大学 ピンぼけですがタイタニック記念館
 
『ガリバー旅行記』の作者、ジョナサン・スウィフトは北アイルランド出身でこの丘はガリバーの横顔に似ているとか。
 
右の写真はレストランのトルコ人ウエイター・アータン、北アイルランドに姪っ子が住んでいて久しぶりに会ったとか。ベルファストの町はそれほど広くは無く特別な観光スポットも無いようです。今日、北アイルラン・ベルファストはとりあえず「平穏」を取り戻していますが、町の中にはまだ両地区を隔てる壁が存在し、夜間の自由な出歩きは安全とは言えないそうです。バスからだけで無く、少しベルファストの町を歩きたかったです。北アイルランドの内戦の責任はなんと言ってもイギリスにあります。私はカソリックとプロテスタントとの宗教対立は表向きの理由に過ぎ無いと思います。イギリスは昔からアイルランドを不当に侵略し、富、特に小麦と酪農と漁業を略奪し、アイルランドを差別・収奪してきました。彼らはそのことを今なお謝罪していません。北アイルランドのゴルフチャンピオンズ杯が行われるゴルフコースでは、今でも上流階級、労働者階級、女性、男性、医師や弁護士などそれぞれの専用のゴルフクラブハウスがあり、そうした差別を高級性の証として自慢気に宣伝する時代錯誤さです。今でもバーやパブにはこの区別・差別があり、「イギリスのアイデンティティ」などとうそぶきます。アジアやアフリカやイスラムに対する彼らの腹の底の差別意識は推して知るべしです。イギリスを「紳士の国」などと言うのはとんでもない。大英博物館は世界一の博物館・入場無料と誇らしげに言いますが、それらは彼らが世界から略奪してものです。彼らは、イギリスに持って来たからこれらの世界的遺産が保護されたなどとうそぶき、豪語・正当化するのですから、盗っ人猛々しいです。彼らはそれらの世界遺産を保護できる博物館を元の国に建てる責任があります。私はイギリスを訪れたことは無いのですが、テレビなどで車窓の景色が自然いっぱいのイギリスの典型的な田園風景のように言いますが、それは自然では全くありません。彼らはそこにあった森林を伐採し、羊や牛を育てる農場にしたのです。自然破壊の元凶という見本です。産業革命の出発地・イギリスは羊を育てるため貴族が土地を占有・囲い込みました。そこに住む自営農民は没落し都市へ流れ込み、ルンペン・労働者となりました。マルクスやエンゲルスが描いた当時の産業革命と労働者の原図に思いを巡らしました。彼らは世界各地で同様なことをしました。特に、彼らが強行したモノカルチャーの弊害は今日なお残っています。ニュージーランドでも同様に原生林を伐採し農地に変えましたが、ニュージーランドにはまだ手つかずのバージンフォレストの一部が今なお残り、往時を偲ぶことが出来ます。そんなわけで、私は今日のツアーは心から楽しむことが出来ませんでした。【ベルファスト終わり】
~~~~~~
ベルファストを5月30日に出航し、次の寄港地・ベネズエラのラグアイラ入港は6月11日です。6月7日船上で運動会が行われましたが、私は見るだけでした。
 
大西洋上の夕食
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79回ピースボート、オスロ・フロム・フロム鉄道・フィヨルド遊覧(ノルウェー)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
5月25日(日) ベルゲン・オスロ(ノルウェー) 

『ノルウェーの首都オスロとフィヨルド列車3日間』のツアーに参加しました。8時頃船を出発。10:20コペンハーゲン発飛行機~オスロ11:30着。ノルウェーではトイレチップ用は現地通貨クローネが必要と言うので空港で10ドルを両替しましたが、有料トイレは使うこと無く現地通貨は結局使いませんでした。北欧ではクレジットカードが現金のように使われています。トイレはだめです。オスロ市内をバスで観光。折しもノルウェーでは日本の成年式のような堅信式の行事が行われていました。15歳になると大人扱い、民族衣装を着て家族、親戚総出で市庁舎や教会に行きお祝いするそうです。市庁舎 市庁舎の壁・木彫りの神話のレリーフ

今回のガイド、市庁の壁にはめ込まれているこの木製のレリーフの神話を長々と、市庁舎の回りを見る時間も無く、イプセンやムンクなどには全く触れないピント外れの日本人ガイドでしたでした。 バスにはノルウェー生まれのムンクが 王宮
 
レストランで食事 彫刻家・ヴィーゲランの作品が多数陳列されているヴィーゲラン(フログネル)公園を散策、一時間以上は長過ぎです。日時計 
  
おこりんぼうの像 公園正面入り口

5時ちょっと前、早めのホテルチェックインでした。クラリオン・ホテル・ロイヤル・クリスチャニアは、オスロ中央駅の目の前でした。
    
オーバーランドツアーでのホテルは通常二人部屋、一人で使用するには8000円ほどの追加料金となります。私はのんびりしたいので一人使用にしたのですが、バスタブがなくビジネスホテルほどの狭い部屋のシングル部屋でした。ジャパングレースがオプションする時にミスしたようで、帰船後、割増料金が返却されました。夕飯まで少し時間があったので少し歩きました。 オペラハウス(屋根の上を歩くことが出来ます。)

市庁舎 再訪  市庁舎全容 ノーベル平和センター
 
国立劇場 国立博物館 国会議事堂 オスロ大聖堂                    

ノルウェーでは水道水(軟水)を飲めるですが、空のペットボトルを持ってくるのを忘れたのでセブンイレブンで買いました。日本円で約500円ほどです。ノルウェーの物価は驚くほど高いです。ホテルの夕飯は豪華でした。

ホテルで早速、あらかじめ作成してきたブログの発信とメールをチェックしました。サーバーが良いのかWEB通信速度は速いです。メールは不要な物が多く削除に手間取りました
5月26日(日) フロム郊外(ノルウェー)  8:05オスロ発の列車でミュールダールに向かいました。フロム鉄道列車のミュルダール駅までは約5時間です。オスロ中央駅(ホテルから徒歩5分です。)
 

5時間は長いですが、低地から1200メートルほど昇って行くので積雪の量と面積がどんどん多くなり、峠では一面の雪で湖は凍っていました。景色はみるみる変わります。1時頃ミュールダール駅に着き、フロム鉄道列車(13:30)に乗り換えてフロムに向かいました。

電車は両方とも座席指定で、団体ツアーは車両一台が割り当てられます。フィヨルド列車は広軌列車で一列2×3の5座席のゆったり車両。絶景ポイントに来ると列車は5分ほど停車し車両から降りて写真が撮れます。大きな滝で水しぶきが私たちの所まで落ちてきました。岩の上に妖精が現れては消え、踊りを踊るというパフォーマンスでした。フロム駅には2時半過ぎに着き、3時にホテルに入りました。フロム駅の海抜は2m、まるで高原の湖のようですが、ここは海です。塩分濃度は幾分薄いそうです。フレトハイム・ホテルはフロム駅の目の前です。20分ほど周辺を散策しました。 フロム博物館(無料)         
  
フロム駅  フロム駅とフロム港                       
 
今晩のホテルの食事は豪華で、ダブルの部屋でゆっくりバスタブにつかりインターネットも無料で快適でした。
 
5月27日(月) フロムからグドヴァンゲン、ベルゲンへ  オーバーランドツアー三日目です。8時にホテルを出発し、8時半発のフェリーに乗り、約2時間ネーロイ・フィヨルドを遊覧し、グドヴァンゲンの町に向かいました。

グドヴァンゲンからバスでヴォスの町に行き、ホテルのレストランでランチ。ヴォスの町

ベルゲン

バスでベルゲンへ。かなりの雨でした。3時過ぎベルゲンの町に着き、雨は小雨になりました。ケーブルカーでロイエン山に乗りました。ロープウエイの駅 山頂駅
   
ロープウエイ・ベルゲン駅周辺 学校
    
その後、ブリッゲン(ドイツ人街)を徒歩で見学、魚市場内は自由行動。

世界遺産のベルゲン漁師町 [建物の右側がブリッゲン(ドイツ人街)]

ツアーなのでこれ以外は見ることが出来ませんでした。5時半頃ツアーバスで船に戻りました。帰船リミットまで時間がありましたが、港と町まではちょっと距離があるので、出かけませんでした。船上から撮ったベルゲン市内。ベルゲン港で帰船

5月28日(火) 再度フィヨルド遊覧  今日一日は、ピースボートクルーズ船での“ソグネフィヨルド”遊覧”です。


大きな船ですがフロムの町まで行くことが出来ます。甲板は寒くはありませんでした。船はフロム港近くでUターンし、次の寄港地・ベルファスト(北アイルランド)に向かいました。【フロム鉄道・フィヨルド遊覧終わり】
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79回ピースボート、コペンハーゲン(デンマーク)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
5月24日(金) コペンハーゲン(デンマーク)
コペンハーゲンには2泊、一日目は個人で旧市街地を歩き、二日目はフィヨルドを巡るオーバーランドツアーに参加します。7時半頃コペンハーゲン港に着きました。人魚の像のすぐ近くです。港から旧市街入口もすぐです。

ニューハウンの家並み

鉄道の駅・オステルポルト駅前

コペンハーゲン市民の多くが自転車を使っています。広い自転車専用道路がたくさんあり、自転車のスピードはとても速いです。国立美術館に着いたのは9時半頃、開館は10時なのでし近くを歩きました。地質学博物館 ヒシュブルンク・コレクション 国立美術館(無料)10時開場一番で入場しました。ムンクらの作品もあるそうですがわかりませんでした。


ローゼンボー離宮
    
フレデリスク教会[昼休みだったので、後刻再訪し、中をお参りしました。]  アメリエンボー宮殿 宝物展示室 クリスチャン8世王宮殿
 
フレデリスク8世王宮殿 クリスチャン9世王宮殿 クリスチャン7世王宮殿 フレデリスク教会を望む

アメリエハウン公園をみる オペラ座 医学歴史博物館  ロシア教会  サン・アンスガルズ教会
 
デザイン博物館 12時30分頃船に戻って昼食と昼寝を少した後、1時35分に再度出かけました。カステレット要塞公園内 人魚の像
 
聖アルバニア教会と泉 再び旧市街地に入りフレデリスク教会などを再訪しました。 旧王立劇場 

マガシン・デ・ノルド(ショッピングモール)  蚤の市が チボリ公園 中央駅

市庁舎前広場 アンデルセンの像 市庁舎壁面 市庁舎内広間 市庁舎タワー
 
ビリーブ・イット・オア・ノット(「信じるか信じないかはあなた次第\という何とも素敵な博物館です。アンデルセン博物館が隣接します。)

入場料は12ユーロ前後だと思うのですが?でも私には時間の余裕が無く大急ぎで残念でした。国立博物館(入る時間がありませんでした。)
  
クリスチャンスボー城  正面 正面前 中庭から

クリスチャンスボー城内には、国会議事堂、演劇史博物館など色々の施設があります。クリスチャンスボー宮殿 演劇史博物館 トーヴァルセン彫刻美術館 アマートゥ広場

アマートゥ広場一帯をストロイエと言います。 クリスチャン5世像 聖霊教会

聖母教会 コペンハーゲン大学 円塔  ニコライ教会
  
琥珀博物館 この一帯をニューハウンと言います。 ニューハウンホテル  水上バスの駅があり、船が泊まっている港に行く予定でしたが良くわからず乗れませんでした。デンマーク王立劇場 クリスチャン教会 
    
救世主教会 港に砂で作った彫刻がありました。

時間が無くなり行きたいと思っていたいくつかは行くことが出来ませんでした。コペンハーゲンは想像していたより広く、新市街地は全く行くことが出来ませんでした。国立博物館は入りたかったなぁ。デンマークは今日では大国ではありませんが、かつては(10世紀以降頃)かなり大国で、あちこちの国と戦争をしました。市内のいくつかの宮殿や城や要塞などにその名残が残っているようです。今日は帰船リミットはありませんが、私は明日から『フィヨルドを巡るオーバーランドツアー』に参加するので夜更かししませんでした。【コペンハーゲン一日目終わり】                                                              
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79回ピースボート、リガ(ラトビア)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
5月21日(火)  今日はGETの「All English Day」で結構忙しかったです。
5月22日(水) リガ(ラトビア)  

7時着岸。一般的に港は海に面しているのですが、リガ港はダウガヴァ川の河口からかなり陸地に入ったところにありました。目の前が旧市街地です。リガの町はそのダウガヴァ川の左側が新市街地、右側が旧市街地で、旧市街地は小さなピルセタス運河で左右に分かれています。ラトビア国立劇場 ピルセタス運河

トルコ大使館 この一帯は各国の大使館がたくさんありました。イギリス大使館 スェーデン大使館 ?大使館 ラトビア国立美術館

ユーゲントシュティール建築群(アールヌーヴォ地区)
  
ベルギー大使館 ハンガリー大使館 カナダ大使館 聖ゲルトルード教会
 
救世主生誕大聖堂 自由記念碑 ライマの時計 

ライマの時計付近は旧市街地の中心地で、港まではわずかです。船に戻ってランチを食べ、小1時間ほど昼寝をして出かけました。アーセナル展示ホール外側の彫像群

国立オペラ座 フォーラム・シネマ(映画館) リガ駅 科学アカデミー

リガ駅前広場でサンドイッチを食べている男性に中央市場への行き方を教わりました。日本に行ったことがあると言って少しお話ししました。中央市場 安い食堂街

現地通貨への両替はしませんでしたので5ユーロ札を出すと山ほどのバナナでした。半分で良いと言って3ユーロをコインで出すと何故か「コインはだめ」、電卓でささっと計算しておつりは現地通貨です。おつりの一部でドロップを買いました。4つ1ラッツでした。相撲というなの日本食堂 映画博物館(工事中でした。) スポーツ博物館 リフォーム教会 レイテルン家(ラトビア写真博物館)
 
聖ヨハネ教会(エッケの修道院)
   
聖ゲオルギ教会 ヤーニスの中庭

工芸博物館  陶磁器博物館 メンツェンドルフ家博物館 ブラックヘッドの会館(裏) ブラックヘッドの会館(表)
 
ラトビア・ライフル部隊の彫像 ラトビア占領博物館 市庁舎 コンサートホール コンサートホール・小ギルド

猫の家 目の前の公園のベンチに座って持参したパンとリンゴのお八つを食べ少し休憩しました。 火薬塔・ラトビア軍事博物館

リガ大聖堂 リガの歴史と海運の博物館
 
1991年のバリケード博物館(リガ大聖堂に隣接する博物館は、開館時間が終わっていました。) ラトビアラジオ局

聖ヤコブ教会 スェーデン門
 
ラトビア国会三人兄弟 マリア・マグダレナ教会    
 
聖母受難教会 聖母受難教会中 英国教会
 
デンマーク大使館 海外美術館 リガ城(開館時間は過ぎていました。) ラトビア博物館
  
船に帰ったのは6時過ぎでした。港からの旧市街地

リガ旧市街中心地は狭く、道はタリンほど入り組んで無くわかりやすかったのですが、簡単ではありませんでした。新市街地の一部も歩くことが出来ました。歩数計は一日で3万5千歩を超えていました。リガはユーロが通常通貨では無く現地通貨ラッツです。一部ユーロは使えますが、おつりは現地通貨。ユーロ紙幣はOKですがコインはだめです。コインは両替できないからだと思う。困るのはトイレ、2ユーロ紙幣を持っていればカフェでもバーでも気楽に使えますが、今日は気後れしながら大きいホテルでトイレを借りました。【リガ終わり】
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79回ピースボート、タリン(エストニア)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
5月20日 月 タリン・エストニア

タリン・オールドシティハーバーに着岸したのは朝7時。今日も自由行動です。港から旧市街地までは歩いて15分ほどわかりやすい道でした。旧市街地を通り抜けて南端まで行き、元来た道を戻る計画でしたが、タリンの通りは複雑に曲がりくねっていてほとんど迷子状態でした。エストニア図書館 聖ミカエル・スウェーデン教会 キーク・イン・デ・キョク
 
アレクサンドル・ネフスキー聖堂 大聖堂 聖ニコライ教会

トームペア城 のっぽのヘルマン入り口 のっぽのヘルマン ネイツィトルン(デンマーク王の庭)  ここは、デンマークの国旗にまつわる伝説があるとか。

旧市庁舎とラエコヤ広場  ラエコヤ広場にある"方位坂"(5つの尖塔が見える) 絞首を置いた石? 旧市庁舎壁

カナダ大使館 トームペアの展望台から タリン駅 展望台の有料トイレ
 
城壁 城壁にある土産屋の倉庫
   
一度船に戻り、船のランチを食べ、昼寝を1時間ほどして、2時半頃再び出かけました。
午後 エストニア号のモニュメント ふとっちょマルガレータ スール・ランナ門 機雷博物館・海洋博物館 粉挽き小屋跡 三人姉妹 聖オレフ教会

グルスバケ塔 ウクライナ・カトリック教会 壁 工芸博物館 タリン市立劇場 自然史博物館 健康博物館

キリスト変容教会 修道女の塔(1.2ユーロ)
 
大ギルドの会館、エストニア歴史博物館[外観の撮影は失敗しました]

ブラックヘッドの会館 人形劇場 精霊教会[2ユーロ]

カタリーナの通路 ドミニコ修道院(カタリーナの通路を含むこのエリア一帯)

聖ニコライ教会 町中の有料トイレ
  
ブレーメン塔 自転車置き場 聖ニコラス教会・アダムソンーエリック博物館
 
タリンの町は通りが碁盤目状ではないまさに旧市街でした。地図はあるのですが苦労しました。壁の外の新市街地も見所がたくさんあったようなのですが全く行けませんでした。写真を沢山撮ったのですが撮り忘れたり、写真と説明文が一致しない間違いが多いかも知れません。苦労しただけに楽しい街歩きでした。エストニア博物館のレリーフは特に印象深かったです。小国エストニアはデンマーク・ロシアに侵略され、長い間独立を犯されて来ました。自分たちの歴史を氷河期の終わりから初め、1991年の独立から500年先の記念日のレリーフに彼らの思いを感じました。夕方6時半頃船に戻りました。【タリンの項終わり】
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79回ピースボート、ヘルシンキ(フィンランド)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
5月19日 日 ヘルシンキ・フィンランド

ツアーを申し込んでいたのですがキャンセルしました。ストックホルムの観光でノルディック、バルトの2国の旧市街地は広くは無く、治安も安定しており自由行動が可能で十分に楽しむことが出来ることがわかったからです。直前のキャンセルでキャンセル料がかなり発生するのですがキャンセルしました。ヘルシンキ港には10時入港しました。港から市の中心までは約4キロなのでタクシーを考えていたのですが、港を出て暫く行くとフェリーの発着ターミナルでトラムがありました。自動販売機だと2.2ユーロ、車内販売だと2.8ユーロでした。前に座った女性がこのトラムが中央駅に行く路線であることなど親切に教えてくれました。ヘルシンキ中央駅(ヘルシンキの中心です)

中央駅前広場 ミュージックホール  国会議事堂

国立博物館(シニアは8ユーロのところが6ユーロでした。)

塔に十字架が無いので何の建物かと通行人に聞くと国立博物館でした。国立博物館は昔は教会だったようです。受付の女性は親切に見る順番を教えてくれました。リュックは展示物を傷つける恐れがあるのでコインロッカーに入れます。お金は戻ります。

フィンラディアホール 岩の公園(私が勝手に付けた名前です。)

テンペリアウキオ教会  場所がわからず公園で遊んでいた父親・息子に聞きました。こちらは裏側 正面入り口

正面前から坂を下ると市中心地に戻ります。今日は日曜日のためほとんどのお店が閉まっています。私は付近で開いているトルコのファストフード店に入ったのですが、トイレが無いので仕方なくマクドナルドに入りました。トイレに入るにはドアの番号入力装置にレシートのナンバー入力します。ヘルシンキ市立美術館・テンニスパラッチ モスクがありました。ここからは、地図が読めずなかなかわかりませんでした。乳母車を押したお母さんに聞くと案内してくれました。デザイン博物館 フィンランド建築博物館 ドイツ教会

ここから港方向に戻りました。海の乙女像 ウスペンスキー寺院(昼休みでした。) 大統領官邸(衛兵がたった一人いるだけでとても質素でした。)

元老院広場・アレキサンドル2世像(昼休みのため入場は暫く待ちました。)
   
ヘルシンキ大学大学図書館 さて何美術館だったか アテネウム美術館 中央駅広場に戻り、カジノ 国立劇場

植物園入り口 日曜日で多くのバーやカフェも休み、トイレを借りたバーのトイレの注意書き(チップを払いました)。 右は違うお店
 
バンハ教会 アモス・アンダーソン美術館 中央郵便局 国立現代美術館キアズマ マンネルヘイム元帥像

3時頃に中央駅からトラムで帰りました。ヘルシンキは日曜で多くの店が閉じていてトイレに困りました。ユーロとカードが使えるのは楽でやはり良いです。【ヘルシンキ終わり】
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79回ピースボート、サンクトペテルブルグ

2013年08月31日 | 79回ピースボート
5月18日(土) サンクトペテルブルグ

サンクトペテルブルグのマリーン・ファサード港に着岸したのは6:00でした。9時過ぎツアー[エルミタージュ美術館とサンクトペテルブルグ]に出発。223人バス6台でした。ロシアでは個人の自由行動は認められず何らかのツアーに入らなければなりません。サンクトペテルブルグは人工的に作られた都市だそうだ。ロシア・ピョウトル大帝が湿地だったこの未開の地にヨーロッパに負けない都市を築くことにしたそうです。ちょうどベネチアのように土台に太い杭を沢山埋めて地盤を作りました。ロシアはヨーロッパに進出したいと思っていたに違いありません。陸路を行くよりバルト海からの方が遙かに便利だから。
マリーン・ファサード港ターミナル  車窓から

ペテルブルグは明らかに他のヨーロッパの都市の雰囲気とは異なります。道路も建物も広く大きく、どことなくおおざっぱな感じがします。サンクトペテルブルグはかつてはレニングラードと言う名でした。私は一度もこの地に来たことは無いのですが、ロシア革命にゆかりの地名が随所にあってとても懐かしい気がしました。イサク教会はロシア教会でしたがロシア革命後博物館に転用されたそうです。

ロシア正教会の入り口は西側に向けられ、祭壇は反対側の東に設置され、聖人を祀る教会では真ん中の右側一番目はキリストのイコン、その右側は祀る聖人のイコンと決まっているそうです。左端:この教会の聖人はイサクでそのイコン画で、彼はこの教会の絵が描かれた絵を持っています。2番目:直径2mもあろうかという巨大な大理石の柱は重さ約100トンの一枚岩だそうです。3番目:この教会を建てたのは別宗派のフランス人だそうです。右端:真ん中のブルーの柱は本物のラピスラズリで外側の緑色の柱は寄せ木細工クジャク石、クジャク石はそうです。イサク教会の内部です。

ランチはスピルガノフの料理を発明したスピルガノフ家の見える有名なホテルのレストランでした。気取っているだけで料理はおいしくはありませんでした。グラスビールが8ユーロ・10ドル、ワインとウオッカはもっとずっと高かったです。 ホテルの一室と右はスピルガノフ家
 
エルミタージュ美術館は12:45~15:15でした。

宮殿広場からのエルミタージュ美術館 入り口 大使の階段(入り口を入ってすぐ、2階へ)から始まります。

ガイドのナターシャさんは28歳、2週間後に結婚するとはにかみながらも嬉しそうに話しました。東洋学部の大学を卒業し、完璧な日本語でした。部屋が混んでいると咄嗟に別の部屋に案内・鑑賞しUターンします。ダ・ヴィンチとラファエロの部屋はに珍しいことにほとんど人がいませんでした。マチス、セザンヌ、ゴーギャンなど多くの作品を収蔵しています。大衆から収奪した金で人類の至宝を買いあさるのですから権力者とは恐ろしいものです。聞くところによるとソビエトは第二次大戦後、ナチスが秘蔵していた美術品の多くを奪い持ち帰ったそうです。ルーブルも大英博物館もそしてエルミタージュも大きく立派ですが、結局の所、世界各地から富や宝物を略奪したものです。元の国々・人々に返すべきです。
移動の車窓から
          
地の上の救世主教会 アレクサンドル王が暗殺された地に建てられた教会で、教会内はモザイクのイコンで埋め尽くされています。

その後、外国旅行客相手の土産店で45分もです。私は何も買わずすぐ抜け出し付近を歩きました。この地区は特別なことはありませんでした。

ペテルブルグはロシア革命発端の地、レーニンらが立てこもり指令を発したスモリヌイ女学院や巡洋艦オーロラ号など懐かしい名前が残っているのですが、今は忘れられているようです。専制君主のピョートル大帝が大評価され、昔の名前に戻っています。私はかつて人々の希望であったロシア革命がかくも地に落ちた歴史の意味を考えざるを得ません。ペテルブルグはきれいでしたが、建物や道路がやたら大きくおおざっぱ過ぎるように感じました。50年後・100年後にはロシア革命の再評価がなされるかも知れません。私は生きていませんが。ナターシャさんが、「今日のロシアの離婚率はとても高く、結婚したカップルの3割が離婚する。若く結婚し子どもを産んで離婚する。多くの男性は子どもの養育費を払わないので若い女性は子育てが出来ず、子育てを放棄し多くの子どもが困難に直面している」。おい、おいセックスしか興味が無いのか、と言いたくなります。若年層の就職難と子育て支援体制の不備はロシアの今日の困難の象徴のようです。【サンクトペテルブルグ終わり】 
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