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風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

布川事件の画期的判決

2019年05月31日 | 学習

5月28日毎日新聞朝刊は、次の画期的な判決を報じました。この判決は、冤罪事件で苦闘する人々に励ましと希
望を与えます。特に、第三次再審請求をしている狭山裁判の石川一雄さんへの最高のエールです。
以下は、その記事の一部抜粋です。
【1967年に茨城県で起きた強盗殺人事件「布川(ふかわ)事件」で再審無罪が確定した桜井昌司さん(72)が、
国と茨城県に計約1億9000万円の賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は27日、国と県に計約7600万円の
支払いを命じた。市原義孝裁判長は、県警の警察官の取り調べと、証拠開示を拒んだ検察官の対応をいずれ
も違法とし、「2審段階で無罪とされた可能性が高い」と認めた。公判でも、警察官が取り調べの録音テープ
の一部を隠す虚偽証言をしたと認めた。さらに、2審で検察官が開示を拒んだ捜査報告書や目撃証言の記録
を「判断に影響を与えるもので、開示の必要性は大きい」と言及し、開示拒否は違法と認定。 布川事件とは、
1967年8月、茨城県利根町布川で男性(当時62歳)が殺害され、県警は桜井さんと杉山卓男さん=2015年に
69歳で死去=の2人を別件逮捕後に強盗殺人容疑で再逮捕した。2人は捜査段階で殺害を自白。公判では否
認したが、78年に最高裁で無期懲役が確定した。96年に仮釈放。09年に再審開始が確定し、11年に再審で無
罪が確定した。】
桜井さんは、自作の歌のCDを制作し、歌手の顔も持ちます。

元気な頃の杉山卓男さん
   【終わり】
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映画/モリのいる場所

2019年05月27日 | 映画



画家・熊谷守一の数日を描きました。私は、この画家のことはよく知りません。東京の池袋付近
に住んでいて、庭の草木や虫などをつぶさに眺め、長年その敷地の外に出なかったそうです。
前半は、彼(山崎努)と彼の妻(樹木希林)のとぼけた型破りの日常を淡々と描きおもしろかっ
たのですが、中程から完全にタネ切れ・息切れ、工事業者との酒盛りの場面にはすっかり興ざ
めとなり、大失敗でした。     【5月13日】
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映画/日日是好日

2019年05月27日 | 映画



何とも退屈でした。金持ちのディレッタンティズムと化している「茶」をくどくど「説教的に解説」し、
その上に黒木華のまったりブリぶりですから、もう辟易でした。 樹木希林のとぼけた味だけが「せめ
て」でした。   【5月13日】
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映画/カメラを止めるな

2019年05月25日 | 映画



予算300万円ながら、多くの映画賞を受賞し、30億円以上の興行収入を上げたと言われる映画です。
300万円は宣伝用でちょっと胡散臭い気がします。目新しいストーリーではありません。私の嫌いな
「ゾンビ」をテーマにした撮影をテレビ局からワンカットで撮るように依頼を受けたクルーの物語。
裏から見ると偶然のハプニングのドタバタだったという次第。私は、コメディにしたのは良かったと
思うのですが、映画鑑賞中はちょっと退屈になり、事故って本当に殺してしまう「ブラック」にするの
がいいと思いました。映画館に行ってわざわざ見る大騒ぎする映画ではありません。 【4/15鑑賞】
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映画/万引き家族

2019年05月24日 | 映画



ピースボート帰国後初めて見た映画でした。面白かったですが、騒ぐほどではありません。やはり
「カンヌ」のセンスは私には、?です。上の案内には「犯罪(=万引き)で生計を立てている」とありま
すが、正確ではありません。万引きをしなくても生活できる水準です。親の死を隠してその年金を
不正に手に入れる日本社会のあり様を描く、と言うことでもありませんし、互いの関係が稀薄に
なっているような家族だけど不思議な縁で結ばれると言った家族を描く、のでもありません。駄
菓子屋の店主(柄本明)の、万引き常習の男の子に「妹にはさせるな」、が素敵でした。【4/15】

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狭山事件の再審を求める市民集会、2019.5.23

2019年05月23日 | 学習



2019.5.23、日比谷野外音楽堂で『狭山事件の再審を求める市民集会』が開かれました。
1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状が届けられました。多数の警官が張り込みながら、
警察は、身代金を取りに現れた犯人を取り逃がす大失態を犯しました。女子高校生は遺体となって発見されました。5
月23日、付近の被差別に住む石川一雄さん(24歳)が、なんの証拠もないまま逮捕され、1963年一審は死刑判決、二
審は無期懲役、そして1977年無期懲役判決が確定しました。石川さんはただちに再審請求を申し立てました。1994年仮
出獄しました。この裁判については、「石川さんは犯人である」とする見解をはじめ様々な見解があることは確かです。
日本の法制度では、「裁判の再審」は砂漠で針を探すほどの”とてつもない壁”があります。弁護団が次々と出している
新証拠・鑑定書と、検察が持っている全証拠を開示しそして再審すれば、この裁判が「差別」、「冤罪」である事は明々
白々です。袴田巌さんは83歳、石川一雄さんは80歳、二人の命には限りがあります。お二人が生存中、一刻も早い再審が
実現し、無罪と裁判所、検察、警察そして有罪と言った諸団体が誤りを認め、謝罪し、の人々をはじめいろんな人へ
の偏見・差別がなくなりますように……。
                         朝日新聞の全面広告
 
  
袴田秀子さん(袴田事件)     菅谷利和さん(足利事件)      桜井昌司さん(布川・冤罪犠牲者の会) 
   
客野美喜子さん(再審法改正をめざす市民の会事務局長) 鎌田慧さん(狭山事件の再審を求める市民の会事務局長)
  
------------------------------------------------------------
夏の参院選(比例区)で日本維新の会から立候補を予定する長谷川豊さんは今年2月,東京都内の講演会で、江戸時代の
被差別民について身分を示す差別的な呼称で取り上げ、「士農工商の下の、人間以下の存在の人たちも、性欲などがあり
ます。当然、乱暴なども働きます。プロなんだから、犯罪の」と述べたと報道されました。    【終わり】
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第100回ピースボート船旅/総集編

2019年05月22日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

第100回ピースボートの特徴は、南半球の西回りで、ウリは南極です。しかし、私は南極観光は興味が小さい上に、料金がべらぼうに高い上に、船酔い必至の荒れた海を通らなければなりませんので、私は南極クルーズは選びませんでした。私は、一つの町に数日滞在し、都会の街歩きを楽しむ旅が好きですが、今回の旅・クルーズはそれとは趣が異なりますが、クルーズにはそれと違った良さ、楽しさがあります。ヨーロッパなどの都会とは違って、アフリカのビクトリアの滝や南米のイグアスの滝、ウユニ塩湖やパタゴニアは日本からとても遠く、個人ではちょっと訪れるのが易しくない自然豊かなところを訪れる旅でした。
レユニオン島 マダガスカル ビクトリア滝 テーブルクロス ナミブ砂漠     
     
イグアスの滝 ペリト・モレノ氷河 パタゴニア ウユニ塩湖 ラパヌイ
    
これらは寄港地から離れているので一日では行けない場所にあるので、オーバーランドツアーと言って、一度船を離れて観光し次の寄港地へは飛行機で行き、船に合流します。当然かなりのコスト高ですが仕方ありません。また、今回訪れた多くの所(特に都市部)は治安の問題があるので、魅力的な自由行動は難しいと言わざるを得ないので、ツアーを申し込みました。団塊世代が増え、また100回記念と言うことも相まってクルーズはほぼ満席、約1000人と、とても多いです。そのうち40%はリピーター、20%が外国人で、台湾人が一番多いそうです。日本人の新規参加者が少ないようです。私がわかっただけでも、中国、香港、マレーシア、シンガポール、タイ、インド、スイス、ポルトガル、アメリカ、カナダからの乗船者がいました。日本人が少なくなっている理由はわかりませんが、どうせお金を使うなら、「あすか」などの豪華の方が良いと思う人が増えているのかもしれません。2022年からは環境にやさしいと謳う新しい「エコシップ」クルージングが開始されるようですが、その価格は、最グレードで1000万円近く、一番安い部屋でも200万円ほどで、ほぼ倍になるようです。それまでは、中国・台湾・香港などのアジアの富裕層獲得に力を注いでいるようです。今回は、格安料金で集客し、そのミニコミでの拡散を狙ったのではないかと思います。 そして、クルーやスタッフには、インドネシア、インド、フィリピン、バングラデシュ、エジプト、グアテマラ、エルサルバドル、ペルー、ホンジュラス、ニュージーランド、韓国、コスタリカ、などの国々の人がいました。もっといたと思います。艦内(放送)言語は日本語、英語、中国語です。レセプションは、中文スタッフが多いのですが、如何せん訓練・教育がまだまだというのが実情で、難しいことはわかりませんでした。 夕食はセットメニューで早い組(17時から)と遅い組(19時から)に分かれます。私は乗船前に19時を希望しました。食事場所は、メイン食堂が4階のリージェンシーレストラン、9階にパノラマ食堂(軽いコンチネンタル風洋食、夜は居酒屋)、同じく、9階に昼は麺類・夜は丼物の小さなリドレストランがありました。メインレストランの朝・昼食は概ね日本食をメインにしたビュッフェスタイルでした。三カ所全部で食べても良いです。私はランチは9階で麺、そして4階で日本食でした。チーズはリド食堂の朝しかありませんでしたので、チーズとハムだけをここに食べに来ました。 私の一般的朝食の感じ
 
昼食 麺でない時のランチ
 
これは特別のお節料理 ナミブ砂漠でのボックスランチ
 
早朝6時からモーンイングコーヒー、3時からクッキィ付きアフタヌーンティがありました。私は、今回船内の食事やツアー中の食事を含めて、ほとんど食事の写真を撮りませんでした。船内には、有料のバーやラウンジそして居酒屋もあります。私は、居酒屋の利用は皆無でした。 お菓子や日常品を売る売店、写真プリントサービス、美容室、銭湯とサウナ、マッサージルーム、診療室があります。売店は何回か利用しました。診療室は、マダガスカルでの旅行者下痢で1回(6500円)、高山病薬(3500円)を求めるために利用しました。私の入った保険は、一症状で1万円を越えた場合だけ支払われるので、私の場合は該当しませんでした。 海外旅行保険について 70歳以上で入れる海外旅行保険ほとんどありません。あってもほとんどが90日までの期間で、すごく高額です。丸井のエポスカードと楽天カードには無料の海外旅行保険がついています。そのためエポスカードを作ったのですが、両方ともやはり90日まででした。 [楽天カードは、出発時にカードを使用しなければなりません。] 仕方なく、私は、ジャパングレースが損保ジャパンと提携した特別の海外旅行保険(8万円)を申し込みました。賠償補償と救援補償が付いていますが、前述したように疾病治療補償は1万円以上です。私は、今回も海外旅行保険の請求はありませんでしたが、この保険はやはり重要で必要と思います。今回、何人かが急病で緊急搬送されました。ジャパングレースから彼らへの「遅延」などの損害賠償請求があるかはわかりませんが、、船内で処置できない病気やケガ(骨折や盲腸など)は起こりえますし、治療や搬送費用は、日本国内と違って高額となります。また、自分のミスで店の商品や博物館の展示物やホテルの備品などを壊したりすることは起こり得ると思うので、保険加入は絶対必要と私は思います。 クルーズの良いところ  クルーズは、おおむね寄港地に早朝着き、当日の夜寄港地を出発し、だいたい3~5日のクルーズの後に次の寄港地に着きます。なんと言っても時差が無いこと荷物の持ち運びをしないことです。そして、寄港地に立ち寄らない、洋上だけの日々・時間がかなりあります。今回のクルーズでは、シンガポール出港後10日間、ウォルスベイ(ナミビア)出港後9日間、ラパヌイ出港後8日間、アピア(サモア)出港後11日間という長期間寄港しない日々がありました。そんな時は、ひねもすぼぉーと海を眺め、トビウオ、イルカやウミガメをながめたり、夕焼けやスコールを楽しんだり、星空を眺めたりするもできます。 3食の準備や掃除などの一切の家事をしないこともゆっくりできて、時には良いです。音楽を聴いたり、本を読むこともできます。一番の問題は、日常的運動不足です。プールはありますが泳ぐほど広くはありません。甲板や廊下を歩くのが一番良いのですが、人に迷惑になりますし、退屈です。何十年も前に作られたこの船は、昨今の「健康志向・対策」がまことに稀薄です。ジムエリアはありますがランニングマシンは3台、あと3つほどの筋トレマシンとダンベル、ベンチがあるだけの貧困です。上半身のウエイトトレーニングは少しできますが、一人30分のランニングマシンはいつも大混雑です。その上、問題は、このエリアには家庭用エアコンが一台設置してあるだけなので、室内はまさに「サウナ状態」でいるだけで汗びっしょりです。私は、何度も公的に「エアコンをもう一台増やす」か、ドアを開け放しして海風を入れられるように要求・訴えましたが、改善されませんでした。この状態を知っていた私は、今回、安いエアロバイクとウォーキングマシンを買い、それを持って行きました。しかし、ウォーキングマシンは動作が難しく使い物になりませんでした。エアロバイクは、負荷がほとんどかからないので、余り運動にはなりませんでしたが、無いよりはましと、せっせと漕ぎました。その他、ヨガマットと床に敷くマットを持って行き、体幹トレーニングやストレッチを充分楽しみました。左は、エアロバイク、奥は使わなかったウォーキングマシンとストレッチ用マット

スマホの普及で艦内はWifiが利用できるようになったと案内にありましたが、インターネット利用料金(100分2100円)は安くありませんし、そもそも私はスマホを持っていません。洋上は、衛星回線のため通信速度が極めて遅い上に、電波事情が悪いので途中で遮断されることも多々です。私は今回、クルーズ中、有料インターネットは全く使用しませんでした。もちろん、PCは持って行きました。ナミビア砂漠でPCが壊れるまでは、キャビン内で、PCに取り入れた音楽をスピーカーを使って聞いていました。また、撮った写真の保存や編集や日記やツアーメモなどを記録しました。PCが壊れたのは大ショックでした。数日は手書きで日記を書きましたが、手書きは訂正が面倒、長時間書くと疲れるのでこの作業は止めました。撮影した写真のメモも十分でないので帰国してからのブログ作成は苦労しました。撮った写真のバックアップはどうしても必要なので、友人のPCを借りて、USBにコピーしました。PCはやはり無くてはならない必需品だと痛感しました。音楽はMP3で聞きました。しかし、インターネット・スマホ、新聞、テレビは3か月間ほどはなくても何の問題もなく生活できます。それらに束縛・支配されない日常は時にはすこぶる良し、です。妻は船酔いするので今回も同行できませんでした。また私は、わがままなので相部屋はイヤなので少し値がかさみますが、シングル部屋にしました。有料の英語学習のプログラムは、プライベートレッスンとグループレッスンの2つを申し込みました。プライベートレッスンの2学期目は時間が早朝の8時からでした。このクラスを受けるためには、目覚ましも必要ですし、朝食、朝の体操など忙しすぎるので、もったいないけれども、プライベートレッスンは2学期から止めました。その他、ダンスなどの習い事や講演やサークル活動などは一切しませんでした。その他の行事やアクティビティなども時々見るだけでほとんど参加しませんでした。私が、参加したのは、鎌田慧さんの講演1回、高橋政夫さんの講演2回、東ちづるさんの映画会1回とGETの先生の「マオリ文化語と文化」、「ラテン語」、「ユダヤ語」の特別学習だけでした。中国語の学習会は、初めの頃、時間の都合が付くときは参加したのですが、英語グループレッスンと時間が重なったため参加でず、残念でした。大森恵美子さんの筋トレも魅力的でしたがなかなか時間が合いませんでしたので数回だけしか参加できませんでした。部屋の大きさは、約2.9m×4.8mほどでしょうか。日本のビジネスホテルより広いので、一人では充分ですがダブルベッドでなくシングルにするべきです。4人分のロッカー、ダブルベッド1、トイレ・洗面台・シャワーがあり、かなり広い窓があります。やはり窓は必要です。テレビとその台、引き出し付きのテーブルと椅子1があります。以前には無かった、室内に湯沸かしポットがあり、とても良かったです。また、以前は飲み水と氷はバーやレストランにもらいに行かなければなりませんでしたが、今回は自動製氷機2とウォーターサーバー1があり、良かったです。でも氷は需用者が多く多くの場合製造中でした。ウォーターサーバーは各階に1個ほど必要です。飲み物の自動販売機はかなりありました。

クルーズ遅延とき帰国寄港地変更 3月20日、急病人緊急搬送のためサモアのアピアに戻りました。その翌日(3/21)また急病人が出たため、サモアのアピアに再度戻りました。数日後、緊急搬送で予定の日程が遅れたので硫黄島沖は通らないとの一方的な知らせがありました。その翌日、また新たな緊急搬送人が出ました。今度は、アピアに引き返すよりグアムの方が近いのでグアムに向かうことになりました。グアムでは接岸しないでヘリコプターで搬送することになりました。「航路の大幅な遅れが生じたため、硫黄島沖を通り、横浜では無く神戸に向かう」との今度もまた一方的変更の報告のみがありました。硫黄島のいきさつについては詳しい説明をしたのに、この航路変更の詳しい事情、そう判断した理由や根拠、個人が予約していたホテルや飛行便がキャンセルとなってしまうことの補償などなどについての説明は皆無でした。
 「硫黄島から帰国先が、横浜ではなく神戸に変えた」のは、「横浜にすると着岸は深夜になる」と理由を説明していますが、精確ではありません、距離では横浜の方が神戸より少し近いのです。深夜となるなら、沖で朝まで待てばいいだけの話です。横浜港大さん橋接岸及びターミナル施設等利用代金がいくらかはわかりませんが、決して安い料金ではないはずです。その料金が必要な上に、さらに神戸までの船の燃料費、さらに神戸で予定されている船内見学会の変更等の連絡やメンテナンスや物資の搬入計画の変更、そして今回は多くのアジア人が乗っていて彼らは飛行機で帰国しなければならず、変更の手配と料金など多額の費用が必要です。次のクルーズ出発も遅らせなければならないかもしれません。横浜への無料バスなどは桁外れに安いはずです。ジャパングレースが説明会を開けばこうしたことへの質問に一切答えられるはずがありません。 帰国寄港地変更の案内を意識的に遅らせた感もあります。遅らせることによって、「抗議」などをする時間がないようにした、姑息な時間稼ぎです。そして、3月28日、突如、「神戸から横浜への無料送迎バスの案内」(翌日12時までの申込)の紙が配られました。一切説明がないので、「詳しい説明を」という"壁新聞"が張り出されました。いつの間にかそれははがされました。再度"賛同署名を求める壁新聞"と他の数名の「要望書」が張り出されました。にもかかわらず、ジャポングレースから何らの説明も無く、またピースボート事務局も閉鎖されました。オープニングセレモニーで「私の事務所のドアはいつも開かれているので、いつでも来て下さい。」と大見得を切っていた狭間俊一ジャパングレース事務局長ら幹部は逃げ回っていました。狭間さんが船の航路を示す地図の記入にたまたま現れたので「説明をして下さい。」と言うと、「会社の方針です。」とだけ言って逃げるように去りました。甲板を散歩中の彼にジムエリアのエアコンを増やしてほしいと話した時も「レセプションを通して下さい。」だけでした。 こうして、大きな抗議や抵抗などもなく「大過無く」時が過ぎ、騒ぎも収束しました。
張り出された”壁新聞”
 
壁新聞を見る人々
 
 私が、11年前初めてピースボートに乗った時「事件」は、こんな「軽微」な物ではありませんでした。63回クルーズは、帰国が一ヶ月も伸びたのです。ダナン、シンガポール、クサダシ、イズミール、ピレウスで、強制的に留め置かれました。驚く無かれ、この当時はクルーズが終了して2日後には次のクルーズに出発する、つまりメンテナンス等の十分な時間が無かったのです。キャビンの消毒・メンテナンスが二日間で出来るとは私には思えませんのに…。 イズミールで突如、非常時誘導設備等[暗くても非常口の存在場所とそれへの経路がわかる等の装置]が設置されました。つまり、それまではそれらが全くなかった、ということです。キャビン内では、電気が消えてもライフジャケットの存在がわかる装置もありませんでした。イズミールでは予備バッテリィーの不備が指摘され、新しいものが準備されました。エンジンのフル運転検査が義務づけられているそうで、船はピレウスに全速で向かったのですが、船は激しく左右に揺れスクリュウの軌跡も不規則だったように思います。 62回クルーズでは、船体に2.5インチの亀裂が見つかりアメリカ沿岸警備隊に約一週間にわたって止められたと言います。そもそもそんな小さな亀裂の存在がどうしてわかったのであろうか、との疑問が残りますが…。これらの事象は、乗客の安全・生命に関わる重大な問題です。そんな重大な問題をピースボート・ジャパングレースが知らなかったことです。だからと言って彼らの責任が無いということにはまったくなりません。さらに自分たちには全く責任が無いと言い張り、船の不具合などについての詳しい情報を全く公開しないこと、にあります。私は、実はピースボート・ジャパングレースは63回クルーズの出発前にクリーッパー・パシフィック号に重大な欠陥があることを知りながら、航海中に修理すれば何とかなると思っていたのではないか、つまり「確信犯」です。もしそうなら重大な犯罪行為です。 イズミールに長期停留されていたとき、船内放送でしきりに船会社の副社長が呼び出されていました。おそらくそのとき、代替船や損害賠償などについての交渉が行われていたのではないかと思うのです。説明会が何回か行われました。まるで、全共闘時代の大学の「大衆団交」の様でしたが、熱烈な「ピースボートファン」もいるので、半々の感じでした。ジャパングレースの社長がイズミールに来て初めて謝罪し、代替船を探していると説明してからわずか一週間後に"モナリザ号"への代替えが決まり、大引っ越しとなりました。帰国後、一連の不始末について、300米ドルの解決金と次回以降のクルーズの12万円の割引券は提供するが、クルーズを途中で止めて帰国する人に飛行機チケットを提供する、延びたクルーズ代は支払わない、と言うものでした。 以上の経過を見て明らかなように、ピースボート・ジャパングレースは普段は平和や人権や情報公開などを主張しているのですが、自分達に関わることや批判されると秘密主義・無責任・曖昧になり、情報公開どころではないのです。他人に対しては厳しく、自分については超甘え、なのです。決められた事はマニュアル通り出来るのですが、予想外の出来事への対応能力ははなはだ希薄で、危機意識・危機管理能力がきわめて弱いと言わざるを得ません。【この時はそう思ったのですが、第100回クルーズを経て、私は、ジャパングレース・ピースボートは「危機をすり抜ける」手練手管に実にたけている「海千山千のつわもの」と思っています。徹底して時間稼ぎと「よくわからない・会社に任せている」です。それができるのはやはり「熱烈なピースボートファン・支持者」がいるからです。】この”事故”については、帰国後、乗船客から損害賠償の裁判が起こされました。この裁判の結果は、「請求は棄却」だったそうです。また75回クルーズでは、突然エンジンが停止し3日間漂流、停電したそうです。 さて、今回の遅延については、一つ、難しい問題があります。今回クルーズで、持病を持つ人は長期旅行に耐えられるとの医師の診断書が必要ですが、かなり高齢でいかにも「病弱」と思われる人が乗船していたことです。医師がOKを出している以上、ジャパングレースが乗船前に断るのは難しいとは思いますが、何らかの処置・対策が必要と思います。車椅子利用者はエレベーターがあるので大丈夫ですが、聴覚障害者の乗船は「バリアー」があります。音声放送だけですから…。乗船するとき「通訳保障」や「電光案内」を申し込めば、それら対応するかもしれませんが…。--- 暗い話が続いたので楽しい話題を変えましょう。帰国間近、嬉しいサプライズがありました。クルーズ中、友人になった中国人から、私の「似顔絵」、そして兵庫県豊岡市の女性から手動のミニルーターで私のイニシャルなどを彫刻した”ショットグラス”(サモア製)をプレゼントされました。とてもうれしかったです。
 
 今回クルーズ、最後の最後にとんでもない「大事件」が起きましたが、私は総じてこの旅を十分楽しみました。私の生涯で行けるとは思っていなかった多くのところに行くことが出来たからです。また、遅延も「前向き」にとらえて、神戸に2泊して、神戸の街散策を楽しみました。 自然の雄大さはもちろんですが、人類はそれに果敢に挑戦して来ました。この観点からいえば、人間は偉大ですが、同時に欲深い人間の残虐さと暴力性も感じました。その一番は、「先住民」と言われる人々が、「文明人が持ち込んだ細菌やウイルス」、「暴力的侵略・搾取・強奪」によって滅ぼされたこと、イギリス、フランス、スペイン、ドイツ、アメリカなどの「先進大国」は、今なお世界各地に「軍事的拠点」を置いて、世界を監視、威嚇しています。さて、私も「人生を終える」時機を迎えています。気力・情熱そして体力がある間にもう少し人生を楽しみたいとの「欲」が髣髴としてきました。そのために、せっせとジムに通いたいと思います。そして、もしもう一度ピースボートに乗れる機会があれば、本も少し読みもっとのんびりした船旅をしたいと願っています。~~~ サモアからの長期航海中、塩野七生さんの大著「ローマ亡き後の地中海世界」(上下)を読みましたが、面白かったですが、残念ながら得ることはあまりありませんでした。
費用について 一人部屋早割料金234万円、ビザ取得やチップなど雑費10.5万円、英語18万円、保険8万円、ツアー代金209.5万円 (バオバブツアー17.2万円、ビクトリア滝ツアー41.9万円、ナミブ砂漠ツアー26.9万円、イグアスの滝ツアー35.9万 円、ペリトモレノ氷河ツアー29.8万円、ウユニ塩湖ツアー41.9万円のオーバーランドツア+1日ツアー計15.9万円)、現金155米ドル、カード(宅配便や、船内でのお酒や自動販売機やお菓子代、土産代やハウスキーパーなどへの土産) 6万円ほど、計500万円ほどでしょうか。思っていたよりかかりました。 ツアー代金が高いと思われるかもしれませんが、「格安」での事故やアクシデント、例えばホテル内のトラブル(盗み等)、バスのチャーターやドライバーのアクシデントを避けるため、飛行機チケット確保など、仕方ない面があります。海外でも日本でも、バス事故やホテル内アクシデントは起こりうることなので、それらをできるだけ避けたいからです。【終わり】
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ピースボート番外編3・神戸大仏、4・大震災慰霊と復興

2019年05月22日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

兵庫大仏・能福寺・天台宗
花隈駅から三宮駅に戻り、地下鉄海岸線で中央市場前駅に向かいました。

中央市場 築島水門
 
来迎寺・浄土宗
  
 兵庫城城壁跡 
 
清盛くん 法蓮寺・日蓮宗
 
能福寺・天台宗(兵庫大仏寺)本堂
 
清盛廟
 
兵庫大仏
 
滝善三郎碑(神戸事件)
 
津の道大壁画 清盛塚十三重塔・平清盛像
 
真光寺・時宗、一遍上人没地
 
 
遊行柳 一遍上人廟入り口
 
一遍上人廟
 
薬仙寺・時宗、後醍醐天皇の病気がこの地の井戸で治ったという。
 
その井戸跡 神戸空襲慰霊碑
 
踊り念仏碑
 
萬福寺・時宗 福海寺・禅宗
 
福海寺本堂 遍照光院・真言宗
 
福巌寺・臨済宗
 
蛭子神社 JR兵庫駅
 
もう少し付近を散策したかったのですが、五時近くになってしまったので残念ですが帰りました。このあたりは、平清盛や豪商高田屋嘉兵衛などの縁の歴史的地のようで、和田岬砲台などもあります。また、寺町もあるようです。JRはとても混んでいました。
4月3日 午前中、震災のモニュメントがある地・東遊園地を訪れた後メリケン・パーク、ハーバーランドなどベイエリアを訪れる予定を立てていたのですが、とても回りきれないと思ったので、東遊園地だけにしました。

ポートライナー線で貿易センター駅に向かいました。ラッシュ時といえすごい混雑でした。

 
 地下に、震災で亡くなった人々の名前がありました。
  
 希望の灯り
 
ふれあいの滝
  
 
スペースアイ
  
Mozart像 命の灯台(LED発光体タイル)
 
 
 阪神大震災の記憶
 
日本近代洋服発祥の地碑
 
ACシム記念碑 震災の記憶
 

 
神戸市役所展望台
 
 
24階展望台からの景色、私一人でした。
 
 
 
係留中のピースボートが見えました。
 
 
10:26発ののぞみで帰京しました。入社関連があるので自由席は混んでいるので指定席(15300円)にしました。
神戸は思っていたより広かったです。ベイエリア、寺町などの寺社、六甲山エリア、そして友人から勧められた淡路島の野島断層などを見るには、あと3~4日は必要かもしれません。阪神大震災の断層をそのまま保存した野島断層保存館を訪れる予定でしたが、アクセスが余りにも悪いのでとても残念ですがあきらめました。
 引用です。 ピースボートの思わぬアクシデントで、予想外の神戸訪問となりました。ジャパングレイス、ピースボート事務局の無責任さは言語道断、決して許されるものではありませんが、私は、このアクシデントを充分に楽しみました。南回りの100回クルーズは、雄大な自然が大きな魅力ですが、いかんせん治安的に不安があると同時に、公共交通機関のインフラがまだまだ未成熟です。従って、私は今回全ての寄港地でツアーを選びました。久し振りに日本の町を歩きました。一日目の「北野エリア」は、よく言えば外国風、有り体に言えば、ちゃちな西洋ミニチュアそのものでした。二日目の「須磨エリア」、「兵庫津の道エリア」は、私好みで興奮し、次々とシャッターを押しました。落ち着いていてどことなく凜とした空気が流れる寺々と安全に私は、強烈に日本・帰国を感じました。神戸は、横浜と同じような地名、元町なども多く、同じような町の雰囲気でした。グルメ派でない私は、神戸牛やローカルフードには全く関心がなく、普通の食事でした。しかし、うどんや日本そばはとても美味でした。船のそれはお世辞ににもおいしいとは言えませんでしたから。壊れていたパソコン内のデータ復帰を業者に依頼していました。
わずか一日で、初めの頃のデータが復元されて来ました。18360円でした。次回からは、写真が復元されたので、100回クルーズのブログを開始こととします。【番外編終わり】                       
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ピースボート番外編2・須磨寺、モダン寺

2019年05月22日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

須磨寺本堂
4月2日


三宮が初めての私にとって、しかもスマホ無し・PC無し、交通機関がよくわからず難儀しました。JR、阪急、阪神、地下鉄などが入り組んでいるのですが相互が1つにまとまっていないのであっちうろうろでした。神戸高速鉄道→山陽電鉄本線・須磨寺駅を利用しましたが、須磨寺は各駅しか止まらないので行き過ぎ戻りました。
須磨寺駅 弘天さん
 
現光寺・浄土真宗
  

須磨寺・真言宗須磨寺派大本山
亜細亜万神殿・ネパール大地震物故者追悼の施設
  
 
 
 
正覚院・愛染明王殿                      
 
須磨寺

仁王門
 
 
山本周五郎碑 子規句碑
 
五鈷(弘法光)                      
 
桜寿院 源平の庭
 
蓮生院 寺務所・納経所
 
宝物館
 
 
 
唐門 本堂                      
  
 護摩堂
 
奥の院参道 弁慶の鐘
 
写経輪堂 大師堂
 
大数珠
 
 
義経腰掛けの松 八角堂  
  

出世稲荷 三重塔
 
五猿(怒らざる、聞かざる、見てござる、言わざる、見ざる)
 
親子地蔵 一畑薬師
 
シベリア慰霊碑 敦盛塚
 
奥の院参道 奥の院
 
 
 穴の先には
 
青葉殿
 
萬霊堂 書院
 
本坊 庫裏
 
正い覚院、塔頭、道場
 
阪急電鉄神戸線で花隈駅に向かいました。

モダン寺、本願寺神戸別院 築地本願寺を想起させます。
 
 
走水神社 旧第一銀行神戸支店外壁
 
本寿寺・日蓮宗                      
 
関帝廟
  
 日本キリスト教団神戸教会
 
福徳寺・浄土宗
  
みなと元町「シティー・ループ」(観光スポットを1周65d分で回るバス)に乗り、市内を一周(260円)しました。その後、兵庫大仏を参拝しましたが、項を変えます。                    
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ピースボート番外編1・神戸北野

2019年05月22日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

ピースボート100回クルーズ私の場合は、昨年12月26日発→今年3月31日横浜着でした。ところが、最後の寄港地サモアのアピアを3月19日発った後、急病人が出たため2度アピアに戻りました。そのため、当初予定していた硫黄島を寄らずに横浜に直線的に戻ることになりました。ところが、新たに急病人が出たためグアムに向かうことになりました。グアムから横浜に向かうと、予定より大幅に遅れるので、横浜に立ち寄らずに神戸に4月1日直帰することとなりました。皆、エイプリルフールかという冗談も出ないほどでした。横浜には高速バスで8時間かけて輸送するというのです。私は、そんな疲れ楽しくない旅はごめんだと思い、神戸に2泊ほどして神戸の町歩きをすることにしました。この間の事情は、最後に記すことにし、『ピースボート番外編』を記すことにしました。
 
 
 神戸ポートターミナル
 


一宮神社
 
桜は満開ですが、寒波が訪れ真冬並みの寒さでした。冬服は宅急便で送っていたため何枚も重ね着です。 街角で
 
神戸ハリストス正教会 神戸バプテスト教会
 
英国館 洋服長屋(仏蘭西館)
 
ベンの家 神戸北野美術館
 
神戸北野美術館 ラインの家
  
プラトン装飾美術館(イタリア館) 坂の上の異人館
                          
 メモをなくしたため場所名不明・神社
 
神戸トリックアート・不思議な領事館  パラスティン邸(喫茶店)
  
 神戸北野ハンター迎賓館
 
北野天満神社
 
ガラス館 北野町広場
 
風見鶏の館
 
カトリック神戸中央教会 北野町交番
 
ジャイナ教寺院
 
浄福寺・浄土宗 関西ユダヤ教会
 
旧ビショップ家住宅(現中華料理店) 神戸ムスリムモスク
 
北野工房のまち 生田神社楼門
 
生田神社拝殿 生田の森
 
神戸空襲で焼け残った木の幹
 
時折冷たい雨に降られました。各施設は、いずれも500円ほどの有料で驚きました。私はいずれも入りませんでした。空襲や地震の被害を受けなかったのでしょうか、細い路地が入り組み、地図がとてもわかりづらかったです。それ以上に、高級住宅地なのでしょう、広い敷地に豪華で瀟洒な豪邸も沢山ありました。私は、スマホを持っていませんし、携帯もウエブを見ることができない上に、パソコンも壊れてしまいました。地図やホテルを探すのも一苦労でした。初入社の時節、ビジネスホテルの空きも少なかったです。空いているアパホテルを仕方なく選びました。朝食無しで9000円、8000円でした。三宮駅前の「神戸市総合インフォメーションセンター」は細かい問いにも親切丁寧に教えてくれとても助かりました。
     
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第100回ピースボート船旅㉔-2、㉖-2/ピトケアン諸島(バウンティ号の反乱)、ブリッジツアー&硫黄島

2019年05月22日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ


3月10日 日 ピトケアン諸島、何の変哲もない絶海に浮かぶ小島です。驚くなかれ、太平洋における唯一のイギリスの海外領土です。ピトケアン島をはじめとする5つの島からなり、バウンティ号反乱に参加した水兵の子孫ら約60名が住んでいます。バウンティ号反乱の顛末は、何度も映画化されました。その舞台が、タヒチから2千キロ離れたこの島々だったのです。さて、その反乱ですが、18世紀末近く、ジャマイカへ運ぶ奴隷用食糧のパンノキの苗木を入手するためタヒチ島へ向けて英国を出航した英軍艦バウンティ号、その船長は、乗務員を酷使し、ちょっとした罪でも拷問したり、鞭打ち刑などを処しため、船員たちの反乱が起き、映画チックなドラマが起きました。船内でも、変哲もないどうってことないこの島の沖を通ると言うので大騒ぎでした。ブリッジから、大げさな案内放送が何度もされました。見る角度のよってこのように
 
日が前後しますが、3月7日”洋上夏祭り”が行われました。私は、写真を少し撮っただけで参加しませんでした。私が思うに、寄港地のない日が長く続き、退屈(特に、厳しい日本での現実的生活がちらつき始める若者のフラストレーション)を発散させる行事と私は、偏屈しました。この日のために、浴衣を持ってきている人がたくさんいるのに私は驚くやら、でした。
 

3月10日 日 上記と同様のような”ポリネシアンナイト”が深夜まで行われたようです。私は、ほんの少し見ただけで引き上げました。

3月12日 火 ブリーッジを見学できるツアーが何回かありました。いつも申し込みは長蛇の列でした。今回は最終回でしたが、並ばずに申し込めました。海に落とすとドラムが自力で開き、35人乗りのまゆ型救命イカダになります。
 位置情報を発信する装置
 
ブリッジ・操舵室 レーダー
 
 
 
左右に、船腹を見ることが出来る出っ張ったところ
 
出港の時使うドラ 今では使われなくなったフロッピィ
 
公式時計                     
 
自動操舵なのでここは触ってもいいです。 このツアー中、職員は二人だけでした。
 
スタビライザースイッチ(揺れが激しい時、これを船腹から出して揺れを軽減させるもの)  図は引用 
 
レーダー アルファベットの手旗信号
 
3/21、3/22、3/24、3/26、3/28 1時間の時差調整 3月20日、急病人緊急搬送のためサモアのアピアに戻りました。その翌日(3/21)また急病人が出たため、サモアのアピアに再度戻りました。明け方の4時頃でしょうか、私は船の異常音で目が覚めました。私は、船が故障したのかと思い、外を見るとアピア港に入港するためにバックしていたのです。船は、バックする時大きな音になります。救急車らしきものが見え、しばらくして船から病人が搬送されるのが見えました。数日後、緊急搬送で予定の日程が遅れたので硫黄島沖は通らないとの一方的な知らせがありました。その翌日、また新たな緊急搬送人が出ました。今度は一番近いグアムに向かうことになりました。グアムでは接岸しないでヘリコプターで搬送することになりました。航路の大幅な遅れが生じたため、硫黄島沖を通り、横浜では無く神戸に向かうとの今度もまた一方的報告のみがありました。硫黄島については詳しい説明があったのに、その詳しい事情、そう判断した理由や根拠、個人が予約していたホテルや飛行便がキャンセル料などについての説明は、皆無でした。船内では、帰国後の仕事の予定が立たない、故郷へ帰る手段の不安や不満などがあちこちで噴出、あっちでひそひそこっちでひそひその「大動揺」でしたが、この事件の不始末の顛末については、重要かつ長くなるので、項を改めて記します。
硫黄島 3月29日 金

地図を見ると細長くないですが、目で見ると延々と続く感じの長さでした。
 
映画で有名になった硫黄島擂り鉢山
 
反対側からの硫黄島 二度ほど鯨のジャンプを見ましたが、カメラではしっぽだけでした。
 

映画ですっかり有名になった硫黄島です。後の沖縄戦への前提としての軍事攻撃と言われます。おりしも3月26日、日米の組織的戦闘は終結しました。日米合わせて5万人近くの将兵が戦死、負傷し、フィリピンの戦い、沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線の最激戦地と言われます。私には、これらの戦史について詳しく知りませんし、その分析・評価は私の手に負えるものではありませんが、島を眺めている時私は、日米双方の指導者の「無能さ・無責任さ」を痛感しました。とても不謹慎ですが、物量を誇るアメリカに至っては、もっと空と海から徹底して破壊しつくせば、自軍にこんなに多くの犠牲者を出す「陸上戦」を避けることが出来ただろうに、そこにはきっと何か深い思惑・意図があったのだと、強く疑問に思いました。
3月10日 Emily-Rose Reidさんの『マオリ語』、3月18日『マオリの神話と歌』に参加しました。ちなみに、ニュージーランドの人口は約470万人弱、「自分はマオリである」と答えた人は60万人(人口の14%弱)ほど、その中でマオリ語を話せる人は人口の1/5にあたる12万人、3%言われています。ちなみにニュージーランドの公用語は三つ=英語、マオリ語、そして手話です。「わずか3%」のマオリ語を公用語にしたのです。手話人口はおそらくもっと少ないでしょう。でもニュージーランドは、世界で初めて手話を公用語にしました。また、ニュージーランドは世界で初めて女性参政権を認めた国でもあります(1893年[明治26年])。私が、一番尊敬する国です。この学習会でまず基本的挨拶を学びました。この紹介・詳細は省きます。興味深かったのは、自己紹介です。名前・住所は当然ですが、自分の祖先がどこから来たのか、自然環境(山や川など)等のルーツと現在つまり自分の”アイデンティティ”を紹介する、文化でした。タトゥやトーテムポールにも同様の意味があると聞いたことがあるように思います。ポリネシア人の自然観・宗教心=感情には日本と同様、「万物、特に様々な自然の中に神々が宿る」=アニミズムがあり、共感を覚えます。『Maor Legends and Song』も楽しかったです。彼女が紹介してくれた、神話に関するビデオ神話1、Panginui and Papatuanuku (パンギヌイとパパトゥアヌク)  神話5、Te Orokotimatanga o te ao (第二次世界大戦)

ビデオにある、スティックダンス[パフォーマンス](若いマオリの戦士がスティックを使って訓練した)のお遊びをしました。私も参加しましたが、とても難しかったです。マオリ人のファイトパフォーマンス=ハカの言葉の中に、”Ka mate au”があります。私には「ガンバッテ」と聞こえるのですが、「Alas I will die.」の意味=「悲しいかな、私は死ぬだろう」でした。3月12日 アシュリーさんの『ユダヤ教の祭日』の講演を聞きました。食べ物や行動様式など日常生活の忌避的事項は、半端ではありません。挨拶[Shalom]や過ぎ越し祭り、脱エジプトなども学びました。しかし、私は、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教などの一神教はやはり「非寛容」と思います。また、ユダヤ教の「選民意識の強固さ」には、私はどうしても違和感を覚えました。
3月21日 アシュリーさんの『ラテン語学習会』に参加しました。今日、ラテン語はすでに「死語」だそうです。なのにどうして学ぶ意味・意義があるのでしょうか? ラテン語は、イタリア語、英語、スペイン語などヨーロッパの主要言語の”大語源”です。古代ローマの教養語はラテン語、ギリシャ語でした。アシュリーさんが言うには、ラテン語学習にとって重要なのは、「読み」ではなく、とにかく「文法」、語源だというのです。ラテン語のAguaは、英語の水ですが、スペイン語ではagua、イタリア語ではacqua です。Agricolaは、英語では、farmerで、農業はagriculture、スペイン語ではagiricultorAmo,Amareは、英語ではlove、イタリア語ではamore Doneは、英語はgive、寄付はdonation Aquariumは水族館、英語ではaquarium、イタリア語ではacquario、スペイン語ではacuarioなどなど、フランス語やドイツ語は調べませんでしたが、とても興味深いです。私が一番好きなカエサルの有名な手紙、「来た、見た、勝った」は、ラテン語では、「Veni,vidi,vici」でした。
3月26日GETの『スピーチフェスティバル』が行われました。一人2分間

落語の「ときそば」を元に私がオリジナルに考えました。だじゃれ・親父ギャグの下らないものですが、私は結構面白いと自負していたのですが、外人にはなかなか難しくわかりにくかったようです。でもスピーチフェスティバルの指導教官のSam Hongさんは「おもしろい」と言ってくれました。多くのスピーカーが「感動的・教訓的」内容を話す中、砕けた話をしたのは、山形の若い女性の「ヤマガタラーメン」と私の二人だけでした。長く話すのは易しいですが2分間のスピーチは本当に短く、難しいです。ほとんどの人は、聞いていないのですが、私は楽しかったです。翌日、3月27日 GETの卒業式がありました。私のクラスは、参加者が少なくびっくりしました。同日、『The Final(最後の発表会)』が一日中ありました。このクルーズ中、ダンスや楽器演奏など色々な習い事・アクティビティがあり、その発表会です。沢山の観客で満員の大盛況でした、が私はほんの少し覗いただけで帰りました。3月20日以降、カルチャースクールなどの発表会、おりづるプロジェクト演劇発表会、ピースガイド発表会、地球大学発表会などが連日行われました。私が参加した英語スピーチフェスティバルもそうですが、これらはいわば「生涯学習の発表会」のようなものです。私は、英語スピーチフェスティバル以外はいずれも参加しませんでした。3月29日、『フェアウェルセレモニー&ディナー』がありました。航路の変更のため、セレモニーの雰囲気は陰気で、スタッフ紹介が長々と続く退屈極まりものでした。私は、シャンパンをお代わりしましたが。3月30日は、下船に向けての荷造りデーでした。この作業日程[宅配申し込み、宅配荷物事前預けなど]の混乱・変更もありました。3月28日には「4月1日神戸発→横浜への無料送迎バスの案内(申込)」のペーパーが配られました。トイレ休憩は、あるものの途中下車は認められません。(昼間便の料金は、1800円~程です。) この項は、多くの時間がかかってしまいました。今回のクルーズのブログの<各論>は、今回で終わり、次回は最終回《まとめ》です。 【終わり】
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第100回ピースボート船旅㉖/アピア(サモア)

2019年05月16日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ

サモアの海

トスア・トレンチ

アピア港
3月19日 火 朝6時アピア入港 3/15、1時間時差調整 ツアー集合は7:15と早いです。アピア出港が早いからです。
 

Papapapaitai Falls
 
オレプププ国立公園 トギトギアの滝
 
 
ソポアガ滝、この滝は個人宅の庭から見ることが出来ます。
 
 
もちろん入園料が必要です。
 
ココナツミルクの採取の実演、試飲などができます。 屋外の台所
 
楽器のドラム ココナツのかけらを食べる小鳥
 
実演用の低いヤシの木 植物に丁寧な説明がついていました。
  
トスア・トレンチ(地下で海水とカーブにたまった雨水などによる池がつながっているそうです。)泳ぐ人がいますが、当日ガイドを務めた大学の先生に聞くと、水はきれいではないと言っていました。私は、もちろん入りませんでした。このツアーのガイドは、現地大学の観光学科の先生と学生でした。私のバスは、2名の初々しい女子学生でした。サモア語の挨拶を教えてもらいました。Talofa(今日は)、Faafetai(ありがとう)、faamolemole(Please)など。
 
 べつのトレンチ
 
 
 
この公園の入口
 
レストラン
 
バスで港に戻りました。私は、スーパーマーケットでツアーを離脱し、アピアの町を自由散策しました。
 ゲームに興じる人
 
 
混んでいるバス  学校の歯医者さん
 
地元の人が立ち寄る大衆食堂 魚市場のバスターミナル
 
図書館
 
図書館の中 アピアのランドマーク・時計塔
  
政府機関ビル 郵便局
 
教会 メソジスト教会
 
アピア大聖堂
 
 
 
インフォメーションセンター    
 
オーストラリア大使館 ニュージーランド大使館
 
消防署
 
職員が歌を歌っていました。  警察署
 
旧政府機関ビル アピアプロテスタント教会
 
以下二つの教会は名前がわかりませんでした。
 
カジノ
 
日本の援助でできた橋
 
 
15:30頃帰船しました。アピアは暑く、1時間ほど歩いただけで汗びっしょりでした。そんなわけで、市場、スーパーマーケットに立ち寄りましたがクルーたちへのお土産は買えませんでした。シャワーで汗を流しました。タヒチ、ボラボラ島、サモアは暑かったです。おそらく30度を超えていたでしょう。サモア社会にはいろいろな特徴を見て取ることが出来ます。その一つに、宗教があります。キリスト教が多数ですが、セクトが多くそれぞれが立派な教会があります。 学校制度については、飛び級、留年制があること、全国統一試験によって中等・高等・大学が決められるそうです。また、サモアは母系社会で、村落ではマタイ(村落の首長)の権限が強いことなどから、治安もよく、村落ごとの特色も強いそうです。家々の多くは、フェンスで囲まれていませんし、壁のない建物=「ファレ」を持ち、庭に立派な墓もあります(これらは無断で撮影しないのがマナーです)。以下、引用
 
村落の独自性は、学校の制服(色やデザイン)にも表れ、学校によって様々違っています。写真は撮りませんでした。サモアの自然風土はとても豊かです。アジア式集約農業とは無縁のようで、バナナやココナツなどの果物が自然に実り、また主食の一つタロイモなどの栽培も手間暇が余りかからないなど、とても豊かです。学校の授業料は、無料ですが、自費の教材などや現代の商品文化は、多額の現金を必要とするため、出稼ぎや海外からの仕送りの必要性が大きくなっているようです。18:30最後の寄港地サモアのアピアを出港しました。以後、12日間ほど上陸しません。
アピア港 大聖堂が見えました。
 
 

サモアの場所を検索している時、アメリカ領サモアの文字が飛び込んできてびっくりしました。私は、サモアの歴史を全く知らなかったからです。ウィキペディアで調べるとかなり複雑なことがわかりました。なんと、サモア諸島の領有を争っていたドイツ帝国とアメリカ合衆国は、1899年に東西に分割することで決着した、と言うのです。ドイツが占領した西部は現在、サモア独立国となり、東部分はアメリカ合衆国の自治領、準州だそうです。国家元首はアメリカ合衆国大統領だそうです。これで今回クルーズについての「各論ブログ」は終わりと思っていたのですが、ピトケアン諸島(バウンティ号の反乱)や硫黄島のことをすっかり忘れていました。そこで、項を改めて、ピトケアン諸島と、ブリッジツアーについて書こうと思います。 【終わり】


            
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第100回ピースボート船旅㉕/ボラボラ島(タヒチ)

2019年05月13日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ




3月14日 木 朝8時ボラボラ島ヴァイタペ沖に到着、大型クルーズ船が接岸できる桟橋が、ラパヌイ同様ありません。しかし、ここはたくさんの人が一時に乗ることのできる大型テンダーボートです。私は、午前は島をバスで一周するツアー、午後は小さなボートで海から島を眺めるツアーに参加しました。

ボラボラ島はサンゴ礁で囲まれた島で、出入り口は一ヶ所しかありません。
ファアヌイ教会
 
ツアーバス 太平洋戦争時アメリカの軍事基地跡、その後も海軍が居座りました。
 
海岸沿いにかろうじてマラエが残っていました。 
 
ポリネシアの伝統的衣装・パレオ(巻きつけるという意味で巻きスカート、スカーフなどとして使われます。)の染め物工房、テキパキした実演と即興ファッションショウは面白かったです。染料の多くは草木、彩色・デザイン後天日で乾燥させると定着するそうです。布は、中国製だそうです。
 
 
来店を歓迎する楽団
 
音楽を聴いて踊る少女
 
この周辺の風景 ボートは、サビやペンキの剥離を防ぐために海水に触れないように保管します。
 
海水の色は、水深によって変化するそうです。 ボラボラ島特有の海上コテージ
 
海辺に落ちているヤシを採取している人がいました。私は、近寄って話しかけると、彼は陸上に落ちているより波に洗われたヤシの方が熟していて良いのだ、と言いました。
 
ドライバーが葉を投げると、カニが穴から出てきて食べ始めました。 ヤシ園
 
ボラボラ島の代名詞のようなコテージホテル
 
コンクリート製の高層ホテルにしないのは、単に環境との融合という景観の問題だけではないようです。一番の意義は、産業と雇用の創造と言うことです。屋根は葺き替えの必要があります。屋根材となる植物を育て、製品とし、屋根を葺かなければなりません。その人材を育成し、雇用を創出つまり地場産業を作り育て持続させると言う素敵な思いがあると言うのです。ホテル経営は、大資本だそうですが…。 オテマン山と巨大ケーブルの見えるポイント
 
マティラビーチ 私は、サンダルを脱いで、ズボンを脱いで着て来た水着になり海水につかりました。ツアーでは、スイミングしないように言われていましたので泳ぎませんでした。
 
ブラッディ・マリーズ(ホテルやレストラン、トイレ)
 
 
ほぼ島を一周し、11:15バイタペ港に戻りました。午後のラグーンクルーズは15:25から、そのまま島にとどまって、昼食を取り、港周辺を散策するのもアリですが、港周辺はそんなに広くないし、気温が30度以上もあったので、私は一度船に戻り、無料の船の食事を取り、少し昼寝をすることにしました。ボラボラ島のテンダーボートは大型のため、乗船は制約が少なく時間などの自由があるので、ツアー開始より少し早い時間に島に渡り、暑い中、港周辺の散策を少ししました。道でばったり仲間と一緒のハウスキーパーのマニに会いました。こんなところで会うとは思っていなかったのでお互い少し驚きましたが、彼も気づき、ハイタッチで別れました。たった2時間だけのフリータイムだそうです。港には、インフォメーションがあったので、地図をもらいました。また、船着き場には、ピースボートのテント設置されていて、無料の冷水提供サービスをしていました。汗びっしょりのペルー人の清掃係・ネストルが水をくれました。
インフォメーションセンター
 
 
消防署 タヒチは黒真珠の一大産地です。
 
教会
 
ラジオ局がありました。 クルーズ船、客は8人ずつ2艘でした。
 
私のボートには日本語通訳者が乗らなかったので、ドライバーの時々の英語説明を私が片言通訳をしました。
 
 
 
 
エイです。
 
ビーチに上陸 女性たちが、さばいた小魚の内臓を洗っていました。
 
 
ラム酒と果物のおやつでした。
 
ドライバーが面白いことを言っていました。島全体が少しずつ沈んでいること、毎年1cmほど日本方向に近づいているというのです。日本にぶつかる時は島は沈んでいるのでしょうか。自然の時の流れは実に雄大です。17:30港に戻り、ボートで帰船しました。沖に停泊している外国のクルーズ船、私たちが出航すると汽笛を鳴らしてくれました。
 

ボラボラ島は、小さな島ですが、美しいサンゴ礁と険しい山が海に迫っています。高層ホテルではないコテージホテルは安くはないようですが、新婚旅行者や家族連れに人気だけでなく、地場産業・雇用促進の役割を果たしています。アメリカは、太平洋戦争中、軍事基地を建設しました。そのプラスの側面は、飛行場や島周回道路などのインフラを整備したこととも言われています。幸いなことにここでは戦火はありませんでした。ボラボラ空港、辺野古米軍基地を連想しました。

私は、短い時間の午前・午後の二つの、決して安くないツアーを申し込みました。陸上から海を眺め、海上で海の美しさと刻々と変わる山々の姿を楽しみました。海で泳ぐ誘惑は強くはありませんでしたので、つかるだけで充分でした。気温が高く、冷え冷えの水を買いました。 【終わり】 
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第100回ピースボート船旅㉔/タヒチ(パペーテ)

2019年05月11日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ
タヒチ・パペーテ港



ポリネシア伝統の祭壇=マラエ

3月13日 水 朝6時タヒチパペーテ港着岸 3月7日、8日、9日、10日、11日連日1時間時差調整


8:40ツアー出発 ビーナス岬 イギリスから贈られた灯台 ↑パペーテ港
 
 
 
 
 
アラホホの潮吹き穴
 
 
 
レストランで昼食
 
レストランの外

タヒチと言えばゴーギャンですが、ゴーギャン博物館は閉鎖中、写真は土産品
 
バイパヒ・ガーデン(植物園) トイレ
 
 

 トイレの案内
 
園内に、洞窟があります。
 
洞窟前で、背中のタトゥーを見せていた男性。 洞窟内で泳いでいた女性たち。
 
 二つ目の洞窟
 
三つ目の洞窟
  
のどかな海岸道路

アラフラフのマラエ(=ポリネシア伝統の祭壇)、天の神々達が降臨する神聖な場所とされています。侵略した西洋人は、マラエの石材などを教会や家々の建築材料に略奪利用し、多くのマラエが破壊・消滅しました。
 
 
ここには涼しい風が吹いていました。それは、日本の村鎮守神社などでも感じます。周囲が緑豊かな木々に囲まれている環境だけのせいではないように私は感じます。風と人の通り道のような場所にそれらが祭られたからと私は思います。ポリネシアのティキ像(神々が最初に作った人類と言われます。現在はその模型は魔除けとして使われています。)
 
ニュージーランドのティキ(引用) ハワイのティキ(引用)
 
世界共通の、多産の女神像の感じがします。16:00バスで港に戻りました。ツアー終了後、少し時間があったので、再度船外に出て、パペーテの町をほんの少し散策しました。
パペーテ大聖堂
 
 
 
 
別の教会
 
バス停前でダンスする人々
 
市場
 
船から、夜のパペーテの街
 
ほぼタヒチ島を一周しました。夕方になると港内に多くの屋台が出るので、パペーテの町はもう少し散策したかったです。私の 2008年訪れた63回ピースボート・パペーテ/タヒチ島編 のブログは、左です。 【終わり】
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第100回ピースボート船旅㉓/ラパヌイ(イースター島)

2019年05月10日 | 第100回ピースボート南半球クルーズ



この島は、三つの名前があります。現地語はラパヌイ、スペイン語はPascua(パスカウと私は書きましたが、youthhostopiaさんからそれは間違いで正しくは”パスクア”とのご指摘がありました。訂正します。ありがとう
ございます。=復活祭島)、英語名がイースター島 2月27日、3月1日1時間時差調節、 3月4日 月 8:00ラパヌイ到着。ラパヌイは、大型船が着岸できる大桟橋がありません。船は沖合に碇を下ろし、
10人乗りほどのテンダーボートで島の港に接岸しなければなりません。また、全島がラパヌイ国立公園なので入園料(US$10=チリペソ$5000))が必要で、何らかのツアーに参加する必要があります。テンダーボートや観光バスなどのキャパシティがあるので、大型船の場合は二日に分かれて上陸するのが一般的のようです。私は、「英語ガイドツアー」に申し込み、私の上陸は二日目の3月5日でした。環境保護の観点から食品や動植物などの持ち込みも厳禁です。ランチは、現地支給のパンとジャムだけです。
沖に停泊する船 テンダーボート
 
ライフジャケット
 
 1960年のチリ地震による津波でアフ・トンガリキは倒壊しました。1988年11月、前イースター島知事セルジオ・ラプさんは日本のテレビ番組で「クレーンがあれば倒れたモアイ像を起こせるのに」と訴えました。この番組を見ていたタダノの社員が「自社のクレーンで援助できれば」をきっかけに、日本のクレーン製造会社・タダノが無償で援助し1995年復元されました。さらにそのクレーンは、そのまま島に寄贈され、他の復興にも役立ったそうです。
以下ニ葉はタダノHPからの引用
 
このプレートをを探したのですが見つからないので案内所で聞くと風雨で無くなってしまったそうです。
 ラパヌイのモアイ像文明の崩壊については諸説あります。多数意見は、19世紀、人口増加とモアイ像建設に伴う森林破壊です。18世紀〜19世紀にかけてタヒチのフランス人らの手によって、島民が奴隷として連れ出され、さらに彼らが持ち込んだ天然痘や結核などで人口は激減し島民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時ではわずか111人になってしまったと言われます。この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は断絶してしまいました。 私は、ピースボートで2008年12月4日訪れました。その時と比べると、森林と緑の復活が進んでいると感じました。



私達が停泊したのは、一番大きな集落ハンガロア村沖でした。 ハンガピコのモアイ
 
モアイ像が海岸で海に背を向けて立つアナケナビーチに山を越えてバスで向かいました。
 
入口でユニークな像(出産の場面)が迎えてくれます。
 
ここのモアイは砂に埋もれていたため保存状態が良いです。帽子あるいは結った髪とも言われるプカオ。
 
 
 
トイレ、ツアー参加者にトイレチケット2枚が付いています。3回目は1米ドル
 
 
アフ・トンガリキ、 冒頭に述べたチリ地震の津波で崩落したものを日本のクレーン製造会社・タダノが無償で1995年復元しました。 
  
 
  
  
 
 
プカオと言われるモアイの帽子or髪の部分
 
ラノ・ララク トイレ
 

ラノ・ララク山は、モアイ像の石の採掘、製造場所です。作りかけの、放置されたモアイ像などもあります。
 
 
 
 
公園のレンジャー、遺跡に上ったりする人がいるとホイッスルを鳴らして警告

茂みに姿を消す人、警告はありませんでした。 私は、レンジャーに許可を得てここでパンの食事をしました。
 
膝まづくモアイは珍しいそうです。
 
 
 
 
 
オロンゴ 島の南端、鳥人儀式(部族の代表の青年が、沖に浮かぶ島に這い上がり、鳥の卵を取ってくる、勝者の村は政治の長を務めたと言う、村同士の争いを防ぎました。西洋人の来訪とともにこの伝統文化は衰退しました。) 小さなビレッジセンターがあり、トイレもあります(確かここは無料でした。)
 
 
 
 
オロンゴ島 手前の高い島

住居とも、儀式のとき使用したともいわれる石組みの家様の構造物跡
 
 
ここを過ぎると、カルデラ湖のあるラノカウ山

ここには、神話伝説由来と言われる鳥人とされる様々な特異な像が岩に刻まれています。それらは、鳥人儀式と強いつながりがあることは疑いないのですが、その解釈は諸説あるようです。私は、この絶海の孤島にあって、鳥のように自由に遠くに羽ばたきたいという強い願望という素朴な感じがします。
 
 
 
 
 
強い日差し、しかしさわやかな風が流れる中、14:30頃ツアー終わりました。港に戻って、テンダーボートで帰船しました。この島では、携帯電話の電波が届く範囲が限られているそうです。ハンガロア村の港周辺を少し散策したかったのですが、帰船時間があるのでできません。

18頃出港、少し島を回遊しました。 オロンゴ アフ・トンガリキ
 
ラパヌイは、2回目です。来ることは容易ではありません。私が2008年訪れた時のブログは、63回ピースボート・イースター島/チリ編 です。~【以下、余談】長いツアーが終わって、2月28日からGETプライベートレッスンの後期が始まりました。開始時間は、なんと早朝8時から、プライベートレッスン担当のKebinは、私の好みのテーマに従って学習を進めてくれたのですごく良かったのですが、私のクルーズの第一の目的は、なにより「くつろぎながら旅を楽しむ」ことです。プライベートレッスンは、前後期計20回で8万円、決して安くはありませんが、8時に学習を始めるには、少なくとも7時には朝食を取らなくてはなりません。そんなべらぼうなことは強大なストレスでできないので、4万円を捨てることにしました。すると気分は楽になり、朝早く目覚めた時は、7時からヨガのクラスに出て、8時からのんびり朝食、その後、のんびりと散歩することにしたら、とてもゆったり気分になりました。時間変更を頼みましたが、ダメでした、イヤハヤです。この決断は大正解でした。GETのグループラスは、11:20~12:20でちょうどよい時間でした。12時を過ぎるので食堂も空きます。しかし、人気の8階の「麺レストラン」は売り切れが度々ありました。私は、まず8階のデッキレストランで日本そば、ラーメン、うどんなどの日替わりの麺を食べて後、4階レストランで日本食がメインの日替わりビュッフェランチをたっぷり・ゆっくりいただきます。後日、麺数が増加されたので良かったです。最後のひと月は、寄港地も少なく、ジムでのウエイトトレーニングや時々ある100回筋トレのクラス、部屋での自主エクササイズやストレッチ、そして講演会やイベントにはほとんど出ないなど、空いた時間は読書とすっかり私の生活リズムが出来てのんびり穏やかで、本当に良かったです。 【終わり】
コメント (2)
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