風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

栗橋を歩く

2011年10月26日 | ウォーキング
10月24日、栗橋の一部を歩いた。

地図上方の題正寺辺りから歩き始める予定でバスを探したのだが、1時間に1本以下、10時台は無いので、
タクシーを使った。1160円(約3.5km)だった。


題正寺(浄土真宗)                          本願寺(浄土宗)
  

円光寺(浄土真宗)                          光了寺(浄土真宗)
 
光了寺本堂                              光了寺聖徳太子堂
 

鶴峯八幡宮                              満福寺
 
満福寺十六夜塔(1712年とあるそうだ)                観世音堂
 
江戸時代、月の出を待って礼拝・飲食して夜を過ごす"月待ち"信仰が流行ったそうです。これはその記念碑。

利根川橋の手前は、茨城県古河市、橋を渡ると久喜市と合併した旧栗橋町です。
八坂神社                               御神木
 
八坂神社境内の庚申塔                       利根川                         
 

経蔵院                                香取神社
 

香林寺(曹洞宗)                            星福寺
  
香林寺・星福寺は、加須市です。引き返し、八坂神社前を通り過ぎ、国道4号を南下し、栗橋駅入り口を通り過ぎます。

顕正寺(浄土真宗)                          水神宮[利根川の堤防の上にあります]
 

常薫寺(日蓮宗)
    

浄信寺
  

深廣寺(浄土宗)                            六角名号塔[伊豆大島から持ち帰った石で作られた六角の塔]
   
  

宝蔵院 
    
宝蔵院境内で                  松永神社
  

千勝神社                               迎盛院
  
迎盛院境内で
  
迎盛院薬師堂                     迎盛院境内で
  

静御前の墓                              静桜
  
静御前の墓                             栗橋駅改札口前広場
   

10月24日は、曇天でとても蒸し暑かったです。
利根川は予想していたより小さい川でしたが(利根川橋も500m程でしょうか)、流れはゆったりし、水量も豊かでした。
戦国時代に、元栗橋(南東に7、8キロ)に栗橋城があったそうですが、今日ではほとんど形跡を留めていないそうです。
多くの寺などに庚申塔や観音などの石仏が多く保存されていることに、この地が古村であったことを想像させます。
栗橋町はかつては3万人弱の町でしたが、2010年、久喜市、菖蒲町、鷲宮町と合併し久喜市(約15万人)となりました。
北は、加須市に面し、利根川は茨城県との県境です。
特別大きな寺社はありませんでしたが、浄土宗、浄土真宗のお寺が多いようでした。
栗橋駅近くに、静御前の墓碑がありました。
月曜日の日中というせいなのか、道路を走る車の数は少なく、それ以上に街を歩いている人は本当に少なく驚きでした。
道ですれ違った三人から「今日は」と声をかけられ、それも少しびっくりしました。
栗橋駅西口(地図左側)は、一面広大な駐車場で、道路は広く、碁盤目状でした。
おそらく昔は田んぼで、ここの地主は駐車場料金で莫大な利益を上げているんだろうな、
他方ここに車を預ける人は駅からかなり離れた所に家も持ち、ラッシュの電車で通勤しているんだろうな、
そんなことを思い、日中の「過疎」とダブってもの悲しさを感じました。
上野まで宇都宮線で1時間です。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
栗橋は今やこんな町なのですね (匿名 希望)
2017-12-27 13:42:46
昔住んでいたことがあります
栗橋を検索してこちらへ迷いこみました。
美しい写真に目を奪われました。
こんなに神社仏閣があるのは知りませんでした。
東京に比べて、とても寒い街でした。


地元の名士?Tの甥が同じクラスにいましたが、
勉強は全くできず、乱暴で、ジャイアンのような
体格。子分がひとりいました。

下校時、ジャイアンは尾行して来ては、
ほら見てろ、
スーパーで好きなものを持ってこれるんだぞ!
いいだろう!

等と公然と万引き。
叔父さんの店だ、とか言っていました。

また、小学校では、毎日そばに来ては、
拳骨でいきなり小柄な女子たちの腹部を激しく殴るの
ですが、担任Yに何度訴えても、無視でした。
名士?が力を持っていたのでしょう。
母も我慢していましたが、もし担任に言ったら何か変わったでしょうか。
子供の喧嘩に親が?と言う人は、大半が加害者側。
被害者の親(大人)が校長か教育委員会に言わないと、
やる気のないベテラン担任は聞こえない振り。

こんな6歳は、末恐ろしいですね。腹部も、今思えば、
鳩尾(みぞおち)で、急所です。息もできなくなり鈍痛で
動けなくなり、登校自体が苦痛でした。

私が大学の時、どうやって調べたのか、彼から電話があり、自分が作新学院野球部で活躍した話、大学へもいかずに公務員として働いている話をしてきて、懐かしいから会いたい、と。

あなたには、殴られた腹部の鈍痛やいじめっこ嫌われ者のイメージしかなく、怖くて会いたくないからもう電話はしないで、
と告げました。

僕は記憶ないがそんなことしていたんだね、と言い、
ろくに謝らないので、再会はありませんでした。

当時は、駅から、このブログの地図の地域にかけて、
広大な空き地ばかりのさびれた街でした。
田んぼだったイメージはないです。
野犬もたくさんいました。

駅までは歩くと30分、ほとんどタクシーでした。

町立小学校の給食は恵まれていて、焼きたてほかほかの食パンを食べていました。ミルクは遅れていて、まだなまあたたかいスキムミルクが支給されていたので、やはり埼玉北部は地方なのですね。
既に、都内は、瓶の牛乳でしたので。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。