風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

覚えていない

2006年12月31日 | 読書ノート
覚えていない/佐野洋子


楽天のポイントの締め切りが近づいたので、久しぶりに新本を買った。
1990年頃の雑多のエッセイ集だが、ちっとも古くさくない。
佐野さんの本はいつも楽しい、それでいてつらくもある。

気に入った文。
【立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花に人格は必要か。バラはバラだからバラなのである。
年老いて自分の役割が終わると、男達の言語も終わるのである。
今や、私の生きる目的はいかなるババアになるかということに尽きる。
私は読むはじから忘れていくので、いくら本を読んでも何の役にも立たない。読んでいる間だけ面白いのであって、読み終えるとすっかり忘れている。】

以下余談
12月に入って剣道の道場に再び通い出した。
自分では健康と暇つぶしで行っているのに、脚が曲がっているだの、腕がどうのと人の欠点を指摘し、教えたがる人がいるのは本当にヘキヘキだ。
好きにさせろっての、いかんせんこの世界は、マイナーで、保守的で古い。
でも30秒も持たないで「参りました」と休んでまた稽古。
大汗をかくほどの一生懸命にはならない。

同じく、12月に入って英会話の勉強を始めた。
もっぱらリスニングだ。
ネットは大変便利で、外国語のラジオが聞ける。
重いカセットレコーダーに録音して通勤時に聞いている。
携帯CD、MDもデジタルレコーダーも持っていないので。
VOAのスペシャルイングレッシュは初心者向けにゆっくりしゃべる。
聞き取りはできないが耳ざわりはいい。
ゆっくり過ぎる時はスピードをちょっと速めて。
だが、女性アナは、あの過剰な英語らしい発音でなんともイヤらしい。
ラジオジャパン、ABC、CNN、などいずれも早過ぎる、を通り越して聞き難い、いやそれも通り過ぎてこれはもう騒音である。
NHKのラジオジャパンは口がマイクに近すぎて息継ぎの音がとにかくうるさい。
これは日本人アナウンサーがネイティブらしく早くしゃべるために、小声でしゃべるためだと思う。
日本人を使うのはどうしてなのだろう。
VOAは文字化もされているので、翻訳ソフトで翻訳するが、日本語に全くなっていない。わからない単語の意味を調べるには一括翻訳が便利だが。
新しいソフトはもっと良くなっているのかもしれない。
さて、いつまで続くであろうか。
そのため、しばらく読書は休止。


中山道板橋宿を歩く

2006年12月10日 | ウォーキング
中山道板橋宿を歩く
=駅からハイキング“中山道板橋宿の史跡とふれあうウォーキング”(10/21実施)のコースを歩く。12/10

スタート板橋駅東口
新選組近藤勇の墓~永倉新八らによって建立された。
近藤・土方・永倉の似顔絵もある。
墓=供養碑は工事中なので像の写真にした。


伏見稲荷


石神井川『俳句の散歩道』
紅葉のきれいな散歩道、石神井川両岸一週3.5キロ。


加賀藩下屋敷跡(加賀公園=小さい築山が残っているだけ)[写真なし]

正岡子規碑


ここら一体は、帝京大関連施設

国立スポーツ科学センター
西が丘サッカー場
赤羽自然観察公園(昼食)
善徳寺


大恩寺


ここから、中山道新道(国道17号)
薬師の泉庭園

吉宗が鷹狩りの跡、この地に立ち寄ったそうだ。
狭い日本庭園だが、管理人がいた。

志村一里塚(反対側にも同じものが立つ)


南蔵院


しばらくして旧中山道に入る
縁切榎~男女の悪縁を切りたい時、断酒したい時などこの榎の樹皮を飲むと叶うという。


板橋~中山道の第一の宿場で、江戸四宿の一つ。


板橋宿本陣跡地


板橋周辺を歩くのは初めてだ。
ここは交通の便はよい。
埼京線、地下鉄が走っている。

冬、12月だと言うのにとても温かく、30分も歩くと温かくなってきた。
上着は脱がなかったが、コートは初めから着なかった。
縦(南北)4キロ、横は300メートル位だろうか、縦長長方形の四辺の狭い地域を歩いたのだろうか。
中山道の新道(国道17号)は少なく、旧中山道が多かった。
古い街なのに寺社は少なかった。
街道沿いではなく、一本奧の道にあったのだろうか。
畑、田圃は全くなく、全て住宅地。
旧中山道は、車はほとんど走らず、ショッピングモールで、たくさんの買い物客で賑わっていた。
紅葉で、銀杏の葉が時折風で吹雪のように舞い降りた。
落ち着いた感じの道であった。
日曜で散歩の人にたくさん会った。

ウォーキングとしては、アップダウンもほとんどなく、
町並も変化があって、不満はない。
トイレも適宜にあった。





東洋大学から後楽園までを歩く

2006年12月05日 | ウォーキング
東洋大学から後楽園までを歩く 2006-12-05

『空港建設に反対し、この台地に生きてきた!三里塚40年の“たすきわたし”12.3集会』の前に、会場周辺の白山周辺の一部を歩いた。
ここも思い出がある街だ。駒込に住んでいて東洋大学の学生に向けて集会のステッカーなどを夜中に貼ったことのある街だ。
覚えているのはそのことだけ、あとはすっかり忘れている。
街の様子などは全く印象に残っていない。
東洋大学キャンパスはとても豪華になっていた。
 
 都営三田線白山で降り、春日まで1キロ弱、白山通りの坂をゆっくり下ればいいと思っていたのだが、一歩奧にはいると路地が入り組んでいて、地図が読めず道に迷ってしまい、計画していた2/3位しか分からなかった。

・最乗寺東京別院(写真なし)
・蓮久寺

・長応寺東京別院(写真なし)

・白山神社

 白山神社本堂、後ろは東洋大学


・心光寺(浄土宗)


・円乗寺(天台宗)

 八百屋於七の墓


・蓮華寺


・本念寺(大田南畝=なんぽ1749~1823歌人)の墓がある。


・浄土寺

きれいな寺だが中には入れない。

・厳浄院(浄土真宗)~蓮華寺のとなり

小さな境内だが、手入れされ、たくさんの植木が植えられている。

・善光寺


・沢蔵司稲荷・慈眼院

慈眼院本堂

本堂右下奧に沢蔵司稲荷群~14個の小さな社=神仏一体。
伝通院を守護するとのこと。

・伝通院寿経寺(浄土宗)

境内は広いが建物・施設は豪華ではない、右に隣接する淑徳学園は伝通院ゆかりなのだろうか。
幸田露伴宅跡。
家康生母於大の墓


・福寿院大黒天(写真はない)伝通院入り口参道にあり、本堂は幼稚園の建物の一部にとけ込んでいる。

・源覚寺(こんにゃく堂)

源覚寺本堂

これが本堂で、こんにゃく堂は右木の右にある。本堂左に13階のマンションが連なる。

・小石川大神宮

真ん中が入り口で、入った奧に、本宮がある。

左側は有馬記念医療財団診療所、上・右などは一般の企業が入っている。

・文京シビックセンター

写真右、木の上部は後楽園遊園地の観覧車。

晴れてはいたが、寒かった。昼前には温かくなった。

三里塚40年の“たすきわたし”12.3集会

2006年12月05日 | 学習
空港建設に反対し、この台地に生きてきた!三里塚40年の“たすきわたし”12.3集会

パネラー:左から、柳川秀夫(反対同盟世話人)、平野靖識(東峰地区・らっきょう工場)、菅野芳秀(山形・百姓)、水原博子(日本消費者連盟)、松尾康範(アジア農民交流センター)、中川憲一(元管制塔被告)、鎌田慧(ジャーナリスト)、の各氏、司会の大野和興さんは写っていない。
三里塚に空港を建設すると閣議決定して40年にあたるとのこと。

素晴らしい人は、いるものである。
・柳川さんは、三里塚反対同盟青年行動隊で活躍し今は世話人、1970年代から微生物有機農法に取り組んできた。最近はやりだした有機農法とは年期も志も違う。三里塚の地で壮大だが地道で確かな“地球的実験村”を試みている。
・菅野芳秀さんは、山形県長井市で有機農法のみならず「レインボープラン」を実践し、昨今いろんな農業賞などを総なめにした今話題の人。
では、そのレインボープランとは、
【レインボープランの概要】[ホームページから転載]
○一般家庭の台所からでる生ゴミや豆腐工場のおから、農家のモミガラなど、これまで役に立たないものとしてすれられるか、燃やされていたまちじゅうの有機質資源を堆肥にする。
○農家はその堆肥を使い、なるべく農薬、化学肥料を使わずに作物をつくる。無理をせず、土がよみがえった度合い、技術を習得した度合いに応じてそれらを減らしていく。
○できた作物は、食べものの流通の基本である「地域内生産、地域内流通」にそって地域社会に還元される。学校給食、病院食、一般家庭で消費され、地域の自給を満たしたうえで、同じ物が地域外へと送られる。
 <田畑―台所―堆肥塚―田畑……>かつてどの農家でもくるくると循環の輪が回っていた。レインボープランではそれを自治体レベルで回そうということである。
 まちの市民が堆肥原料である生ゴミの分別という役割を通じて、農業の土つくりに参加をする。農家はたんなる食料の生産者ではなく、まちの台所の健康な食生活をまもる役割を担う。「まちとむらが一緒だよ」という田舎の特性を生かし、市民みんなが参加してつくりだす「面」としての有機農業と、それを基礎とする食環境――これをつくりだすのがレインボープランの目的である。
 
 長井市は人口3万人で、農村地帯4000、都市世帯5000人で、町での生ゴミ回収は週2回、回収率は何と100%だそうである。
 菅野芳秀さんは百姓がイヤで都会・大学に逃げ出したが、三里塚と触れあうことになった。20才の時逮捕されたが、26才の時一念発起して実家に帰って、一番嫌っていた農業に復帰したそうだ。当初は自宅前にパトカーが常駐していたが、体力づくりの土方から、つまりゼロからではなく、マイナス100の地点からの出発だったという。それから30年、今や日本中から熱い視線を浴び、期待されている。
 これまで、テレビでお顔は見たことのある菅野さんは穏やかにやさしく「土」について語り、そのお話は感動的だった。小学校などの講演で話すそうである。岩や石は物の塊だが、土は違う。土には生き物(植物・動物)の死骸でできているのだ。ただの死骸でなく、それが次の新しい生き物に受け継がれていく。土は死んだもの・生きるものを途絶えることなく結びつけて来たもの、結びつけていくものなんだ、と言うのである。
 また、化石は、石で土ではないが同じように動植物の死骸を今に伝えているな。これにはこれで味わいがある。
 菅野芳秀さんのブログは、http://lavo.jp/kakinotane/

・中川憲一さん、管制塔で捕まった時、ミスターXと言われた。中川さんは、原勲[同じ管制塔被告で保釈後自死した]さんの自死を聞いた時の獄中の日記を紹介した。泣き続ける中川さんを心配して看守が何度も声を掛けたそうだ。生きている者も死んだ者も三里塚を通してつながり、会話し続けていると結んだ。

その他の人の発言も、どれも素晴らしいものであった。
 シンポジウムの前に、映画が上映された。
「抵抗の台地」~1971年強制収容阻止闘争記録、「どっこい闘魂ここにあり」~1989年労農合宿所再建の戦い、「この台地に生きている 三里塚東峰地区の人々」、やっぱりいらない静岡空港」の4本。
 映画は人影でよく見えないし、音声も映像もひどく悪い。これでは見てもらうというより見せてやる、というか観客サービスはどうでも良い、と言うことかしら。
これでお金を取るのはひどいが、素敵なお話を聞けたのだから1000円は安いと言うべきなのだろうか。でも、やっぱり見やすい会場にすべきと思うよ。

・会場で知人の西村さんにばったりあった。
本を出したそうだ。
タイトルは『女たちの共同体』。

書名が何とも固いが、定年退職後大学に行って勉強し、こんな立派な本を出すなんて素敵を通り越して尊敬です。

湾岸・お台場エリアを歩く

2006年12月02日 | ウォーキング
湾岸・お台場エリアを歩く
12/2
[駅からハイク11/18・東京湾岸物語~変わり行く新旧の町並を訪ねて~の一部を歩く]
12月というのに小春日和のような暖かさに誘われて歩いた。
約3時間。

 新橋駅からスタート[駅からハイクでは浜松町駅からで増上寺・東京タワー・芝公園を経て新橋だが、こちらは何回か来ているので今回は省略した]
浜離宮公園・汐先橋[大手門入り口]を通って築地本願寺方向に進むが、細い路地を入ったら、間違っていて中央卸売り市場に入ってしまった。
引き戻さず出口を求めて広い市場内をウロウロした。
 市場内をうろうろしていると最初の目的物・水神社に運良く遭遇した。


水神社は市場の端っこにひっそりとあった。
この周りは市場内だが出口に近いせいか一般の人もかなり入っていて、
食堂や郵便局・診療所・歯医医院などもあった。

市場を出ると、一般の人が入ることのできる市場街であった。

ちょうど昼時、それに正月用の買い物もあるようで、すごい人出であった。
脇見をすると人にぶつかるほどであった。
アメ横にも似ているが、それ以上に路地は入り組んでいるようだった(路地裏にははいらなかった)。
特に食堂の前はすごかった。
食堂と言っても、間口一間・奥行き半間ほどの店もあって驚いた。
市場街の端に波除稲荷神社があった。


にぎわう市場・商店街に小さい寺がいくつかあり、その内の一つ・円正寺。


 中央卸売市場、通りを挟んで、築地本願寺があった。
 
 日本の普通の寺のイメージとは全く違って驚いた。
境内前道路も、境内・駐車場も広く、観光バスも停まっていた。
関東大震災で罹災し、昭和9年に再建されたそうで、古代インド様式の石造りの中に桃山様式を取りいれた造りで、寺院にはパイプオルガンも設置されているという。
 本堂内部も開放されていて、広い劇場のように椅子がゆったり並びゆっくりできる。
線香の香りが心地よく流れる中、読経が流れていた。
明るくフラッシュなしの撮影。

 この築地本願寺は思い出のある場所だ。
かれこれ40年近くも前、反戦デモで地下鉄築地本願寺駅を出たところで機動隊に逮捕されたのであった。
しかしその記憶もだいぶ薄れてきている。
だが、築地本願寺をお参りするのは初めてである。

 築地川公園でお昼ご飯を食べ、勝ちどき橋に向かった。

手すりの向こうは隅田川、佃大橋方面のビル・マンション群

隅田川に架かる勝ちどき橋

昔は可動橋(跳開橋)で、船が下を通る時は橋は真ん中から上に二つに割れた。

晴海大橋(700m)を渡り終えて、新橋方向を眺めると、
 

有明コロシアム[この右側は有明テニスの森公園]


お台場海浜公園

ここの砂は伊豆七島の神津島から運んで来たそうだ。

海浜公園から、お台場[昔、江戸防衛のための砲台の跡]と
レインボーブリッジ



海浜公園内にある、自由の女神像レプリカ


ここから“ゆりかもめ”に乗って帰るのだが、場所が分からずうろうろ、標識が分からない、不親切だ。
“ゆりかもめ”お台場駅前のフジテレビビル


海からかなり強い風が吹いたが寒くはなかった。
上着だけで少し汗をかくほどであった。
お台場内、他にも面白そうな所が多そうだが、足が痛くなったので止めた。
たくさんのマンションが林立している、景色は「ここは日本かしら」と思える外観で部屋からの眺めは定めしきれいだろうが、海と川の湿気は生活にはどうだろう。
交通は便利で道路も広いが、車優先の道路=信号事情のようで、歩くには不便。
人はたくさんいるが、ここにはコミュニティはないのではなかろうか。
地震の際の液状化は心配ないのであろうか。
地価、高そう~で私には買おうにも無理ではあるが。
隅田川もすっかりきれいで、海からの風は潮の香りがした。
“ゆりかもめ”、車内は狭いし値段も高い。
あちこち工事中であり、広い空き地もたくさんあった。
まだまだ開発途上なのであろう。
まだ開発・工事が必要なのであろうか。

ウォーキングとしては変化があり楽しかった。
新しいデジカメで撮った。2万円しないデジカメでも十分楽しめる。

麦の穂をゆらす風

2006年12月01日 | 映画
麦の穂をゆらす風 11/29シネキャノン
第59回カンヌ映画祭パルムドール賞受賞
2006年/アイルランド・イギリス・ドイツ・イタリア・スペイン/126分

【あらすじ】1920年、英国の圧制に独立を求める声が起きているアイルランドの、南部の町コーク。英国の武装警察隊に若者の1人が虐殺され、村のリーダー格テディ(ポードリック・ディレーニー)、弟のデミアン(キリアン・マーフィー)らは義勇軍・独立運動に加わった。デミアンは医者としての将来を捨て、兄テディと共に過酷な戦いに身を投じていく。彼らの激しいゲリラ戦は英国軍を苦しめ、ついに彼らは講和条約が結ばれるが、アイルランドの完全独立とは程遠い。やっと訪れた平和もつかの間、条約の内容をめぐる支持派と反対派の分裂はやがて内戦へと発展する。それは共に戦ってきた同志たちが互いを敵に回すさらなる流血の戦いを意味していた。現実主義から条約をのんだテディ・完全独立を求めて拒否するデミアンの兄弟の絆にも暗い影を落とし内戦がぼっ発する。軍とデミアンが参加した条約反対派の間に[シネキャノンHPより]
 
2時間の映画で今日に至ってもなお争いが続くアイルランド・イギリスの戦争の背景を表現し、理解するのはむずかしい。
何と言っても悪いのはイギリスだ。
紳士の国・民主主義の国イギリスなんてのは真っ赤な嘘で、インド・中国アヘン戦争・パレスチナ・アメリカ・アフリカと全世界で、イギリスは本当にあくどいことをやってきた。
その非は誤解を恐れず言えば、第二次世界大戦の日本の戦争犯罪の比ではない。
 今日もなお、イラク・アイルランドでは派兵しているだけでなく「自爆テロ」という謀略さえやっている。
 映画を見ていて、イラク・アフガニスタンの今日の内戦・内乱が思い浮かんだ。
 アメリカ・イギリスは今日なお“帝国主義”で、多くの国と人々を蹂躙している。
 マルクスは、かつて「アイルランド問題を解決することなくして自分たちの本当の解放はない」と言ったが本当にその通りだ。
『ギャング・オブ・ニューヨーク』(ディカプリオ主演)はアイルランド移民とそれより先に移住したイギリス移民たちとのアメリカ・ニューヨークの対立と抗争を扱った活劇映画だった。イギリスは既に支配階級で、アイルランド移民は抑圧された。だが、アイルランド移民達は同様に黒人を抑圧した。
 この映画は、たしかにイギリスのそうした歴史と今日を告発している。だが、それは2時間では描けないし、描いてもいないし、映画のテーマもそこにはない。
 アイルランドの強烈な緑と、映画のタイトルになったアイルランド民謡“麦の穂をゆらす風”の美しく悲しい歌声は、印象的で珠玉であった。
 最近ずっと、映画では裏切られ続けてきたので、久しぶりに手応えある映画を見た感じだ。1000円は安い[水曜なので]。
 難点は、イギリス軍の描き方が一面的なこと、講和後の内部対立とその選択に至るそれぞれの葛藤の描き方が表層的なこと。
簡単な歴史を字幕で紹介したほうがよいのだが、そうすると政治的すぎるのだろうな。
 ラブシーンはあったが、裸もベッドシーンもなくよかった。
 10年位前に、アイルランド独立運動の指導者マイケル・コリンズの伝記映画[『マイケル・コリンズ』]があったが、この映画はラブ・ロマンス映画であったように思う。
 ・70%位の入りで200弱の観客だった。