風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

映画/たかが世界の終わりに、Juste la fin du monde

2017年07月26日 | 映画


ひどい駄作です。
更に、この大仰な題にはもう二の句がありません。
さて、有名作家のルイが12年振りに帰省した一日のお話。
彼はゲイで12年前に家を出、歳はたしか30代前半です。
理由はわかりませんが死期が近づいた彼は家族にそのことを言いに帰ったのです。
ところが、彼が家に入ると、妹はどうして高いタクシーを使ったのかと延々と大げんか。
次は、兄嫁が子どもの話をすると、兄は下らない話しをするなと大激怒。
母親は、マミキュアをドライヤーで乾かしながら、何か大声で叫びます。
家族中が、全く下らない内容で大声で怒鳴り合いの喧嘩を延々と続けるのです。
ウッデイ・アレンの様にしゃれている会話なら面白いのですが、下らないの一言の内容ですから、もうウンザリ辟易です。
そして、ルイは、何故か激怒した兄の「帰れ」の一言で、ルイは「世界の終わり」を言い出せず帰り、映画は終わります。
この映画では、登場人物の生活感が全く無いばかりか、お互いを思いやるなどという感情も皆無、
おまけにマリファナを吸いまくっています。
カナダ・フランス映画で言葉は、フランス語なのですが、舞台がどこなのか私には、はっきりわかりません。
そして冒頭と最後に英語の歌が流れる奇妙さなのです。
家族は、ルイからたくさんのポストカードをもらっているのに、長い間詳しい音沙汰がないと文句を言っています。
そもそも子どもが成長すれば、家を出るのは当たり前、頻繁に連絡などしないものです。
たった12年なのに、なぜ連絡しないのだと大怒りしているのです。
と言うのに、第69回カンヌ国際映画祭でグランプリ受賞と言うのですから、驚きを通り越して「何てこった」、です。
やっぱカンヌって感じ。カンヌはこうした意味不明の駄作に賞をあげることに自らの存在価値を感じているのでしょう。
「Juste la fin du monde」(ちょうど世界の終わり)と、大それた題を恥ずかしげも無く付けられたものです。
映画は、つくづくギャンブル、大いなる失望・落胆でした。     【7月24日】
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映画/わたしは、ダニエル・ブレイクL,Daniel Blake

2017年07月17日 | 映画


秀作です。
大工のダニエルは、59才、心臓発作で倒れます。妻は、数年前に他界し、一人暮らしです。
さて、これから彼はどうやって生きていけば良いのでしょうか?
「ゆりかごから墓場まで」を謳う歌うイギリスの田舎町・ニューカッスル、彼は職安や社会福祉事務所に行きます。
職安では、「心臓病で仕事は出来ない、福祉事務所に行け」と言われ、福祉事務所では「求職活動をしろ」と言われます。
手続きは「オンライン」=コンピュータを通してと言われます。「マウスを画面上で動かして」と言われます。

受け狙いでイヤ味なシーンでしたが、桂文珍の新作落語・「老楽風呂」を思い出しちょっぴり笑いました。
社会福祉事務所で彼は、ロンドンから移住してきた若いシングルマザー、ケイティが事務所で「冷たい仕打ち」を
受けているのを見て、「何故手を差し伸べないのだ」と、大声をあげます。
屈強な職員とガードマンによって彼らは排除されます。
私は、「福祉の国」と言われるイギリスやユーロ諸国の福祉の実態については全く知りませんが、
日本と同じように、役所は「貧者、弱者に冷たく」、窓口をあちこちたらい回しさせられます。
それを契機にダニエルとケイティは親しくなります。もちろん男女の関係ではありません。
ケイティを巡る印象的三つのシーンがありました。
一つは、フードバンク(食糧支援施設)で、ケイティはもらった缶詰の封を開け手づかみで食べてしまうシーンです。
何日も食べてこなかった彼女でした。ここの職員の彼女への何とも暖かく優しい態度は感動的でした。
二つは、スーパーで万引きしてしまうシーン。ガードマンに呼び止められ、「困った時は電話を」と言われます。
頑張った彼女ですが、子どもが貧しさの故にいじめられ、彼に電話をし「危うい仕事」に手を出してしまいます。
三つは、ダニエルが倒れた時、彼女は敢然と「福祉事務所」と渡り合い、支援のボランティア団体を紹介するシーンです。
ダニエルは、福祉事務所の「お情け」を拒否し、「俺は、誰でもない、ダニエルだ」と福祉事務所の壁に落書きします。

それは、「オレは其の他大勢」ではない、名を持つ、一人の人間なんだと言う、強烈なメッセージです。
それがこの映画の"題名"となりました。
ボランティア団体での面接の時、トイレに立った彼は、そこで心臓発作で倒れ、死にます。
ハッピィエンドでない、残酷な結末でしたが、映画としてはそれはとても良かったです。
ケイティは、葬儀で、「敬意ある態度」こそ大事だと言います。
葬儀の場には、福祉事務所の女性が参列していました。彼女は、パソコンが使えない彼に優しく接するのでしたが、
上司は、「特例を作ってはダメだ」と指示されたりして居たのです。
その他、彼のアパートの隣人や、職安で職を求める人々、街頭の庶民など、「貧しき大衆」の優しさと、人への共感、
そして最後に敢然と前を向いて歩いていくケイティに、私達は勇気づけられるのでした。
弱者に目を向ける作品を撮り続けてきたケン・ローチ監督の面目躍如の作品でした。      【7.10】
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映画/未来を花束にしてSuffragette[女性参政権]

2017年07月13日 | 映画


とても刺激的でした。
イギリスの女性参政権運動に関する映画です。
舞台は1912年、ロシア1905年革命、第一次世界大戦、1917年ロシア革命の直前の時代です。
先進国では、猛烈な帝国主義が席巻し始め、たくさんの農民が都市に流入し労働者となりました。
彼らは、職と食を得るため、資本による苛烈で劣悪な労働・生活環境を強いられました。
特に、女性と子どもを取り巻く環境は凄まじいものでした。
女性参政権運動を展開するWSPU(女性社会政治同盟)は"言葉より行動を"と直接行動をよびかけ、活動も活発となり、
アイルランドでテロ対策に辣腕をふるったスティード警部が赴任してきます。
彼は歴史上初となるカメラによる市民監視システムを導入した人物だそうです。
WSPUのカリスマ的リーダー、エメリン・パンクハーストをメリル・ストリープが演じていますが、
その演説はまるで詩の朗読の様にきれいで、力強かったです。
イギリス英語は私には耳触りがとても優雅できれいですが、階級間でその違いはあったのでしょうか?
しかし、運動は行き詰まります。彼女たちの中の一人が選んだ戦術は、「ダービーのレースの馬の前に飛び出る」でした。
このシーンと音響はとても素晴らしいものでした。
今日、こうしたシーンをや運動を描くことは商業的にはかなり勇気が要ることは疑う余地がありません。
しかし、当時先進国では、共産主義運動や無政府主義者の運動やテロリズム運動など今日から比べるとかなり過激な
行動が行われていました。
Suffragetteは馴染みの薄い英語で、ちょっと前までは「婦人参政権」と訳されていました。
ところが、邦画の題名は"未来を花束にして"、これは陳腐を通り越して、二の句が継げない、です。
しかし、残念ながら映画の出来としては、傑作とは言えません。
主人公モードの視点からストリーを展開しているのですが、この種の映画として参政権運動の啓蒙・紹介を
どうしても避けて通れないことから、彼女の内面の葛藤や苦闘を充分に描くには少し時間が足りないのです。
当時置かれた男性労働者、女性・子ども労働者の苛酷さをことさら描かなかったことも良かったです。
映画の最後に、女性参政権を獲得した国々が獲得順に紹介されます。
トップは、ニュージーランドでなんと1893年です。
女性参政権運動は、18世紀からフランスで始まったそうですが、オーストラリア(1902年)、フィンランド(1906年)、
ソビエト=ロシア(1917年)、カナダ・ドイツ(1918年)などと続きます。
日本は、何と1945年12月でした。スイスは、1970年になってでした。
モードは、子どもを夫に奪われ、さらに彼は息子を養子に出します。
映画は子どもの養育権についても最後に少し触れています。それは、女性の参政権よりはるかに遅れています。
女性、子ども、人の人権についての「不条理」は今なお強固に存在しています。  【2017.7.10】
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映画/淵に立つ・Harmonium

2017年07月06日 | 映画


69回カンヌ「ある視点」審査員賞を受賞したそうですが、よくわからない映画でした。
深田晃司の同名の小説が原作で、脚本も彼の手です。
日本フランスの合作映画だそうです、英題はHarmonium これまた良く意味がわかりません。
元の意味は、リードの付いたオルガンらしいのですが、日本語のハーモニー・調和も意味するのでしょうか。
八坂と利夫は何年か前に人を殺します。八坂だけが服役し、服役後、彼は利夫の家に転がり込みます。
映画では、何時、どんなわけで殺人を犯し、八坂だけが服役したのか、そもそも八坂と利夫とはどのような関係だった
のか等の重要なことについて全く説明しません。
この事情にこそ、この映画で登場する人物とその関係を解き、理解する重要なカギがあるのに、です。
おそらくサスペンス仕立て・謎解きに観客をミスリードする意図としか思えません。
あるいはそれらに触れれば以後の一人よがりで無理なストリーを展開することが出来くなるからかもしれません。
ともれ、リアリティ、現実性の無さ、どうにでもなる勝手な筋書きがこの映画の致命的失敗です。
「崖の淵に立つ、人間の心の奥底の暗闇をじっと凝視する」等と言いますが何と虚ろなことか。
映画の途中から、サスペンスから八坂と利夫の妻・章江との関係、いつ二人は肉体関係に入るのか
に興味・焦点を移行させます。
口づけまでしていた章江ですが、土壇場で八坂を拒否します。
拒否された彼は、小学生の娘を乱暴するんです。もう何をか言わんや、です。
しっちゃかめっちゃか、です。
それを「淵に立った人間の奥底の暗闇」というのですか。
その事件後、八坂は一家の前から消えます。その8年後、八坂の息子なる男が、彼と同様に一家の前に突然、現れるのです。
この展開には、もうあきれて、「口あんぐり」です。
事件以来、男を娘に近づけ無かった章江なのに、その息子にも好意を抱き、彼を娘の部屋に入れ、絵を描かせます。
たまたま電話がかかって来て、彼女は何と彼だけを残して部屋を出て行きます。
その直後のシーンは、彼が娘に口づけしているようなシーンです。
娘の服の汚れを取る為に彼女に近づいただけというのですが、思わせぶりの信じられないシーンです。
映画では、赤と白の色がかなり象徴的に使われます。

「普通」の時は白、「異常」な時は赤が使われている隠喩のように感じましたが、映画ではシーンは「巻き戻し」出来ません。
後でどんな場面だったかなどと振り変えられません。
八坂の服が、赤色になる時、彼は統合失調症のように「異常」なるように思いました。
章江の娘が彼に乱暴された時、彼女は真っ赤なドレスを着ていましたが、その意味は何だったのでしょう。
その後も、橙とピンクの服を娘が着てました。おそらく意味があったのでしょうが、私にはわかりませんでした。
何度か、自分に、相手に、ほほを平手打ちするシーンがあります。
このシーンと意味も不明というより、余分としか言いようがありません。
最後に、自殺は罪であるクリスチャンの章江が娘と無理心中を試みるなど、最初から最後まで安易な筋書きでした。
彼女らが川に落ちた後、車椅子の娘が、一瞬、息を吹き返し、自分の力で泳ぎ出すシーンがありました。
ほんの数秒です。実際に起きたことなのか、誰かの頭に浮かんだ幻影なのか、全く意味不明なのです。
何度も途中で席を立って帰ろうかと思うほど、何とも「むかつく」作品でした。
しかし、「カンヌ」は、この作品に「ある視点」審査員賞を与えたというのですから…。 【6月26日】
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