風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

北千住の銭湯を歩く

2007年08月25日 | ウォーキング
2007/8/18「ノーリツ」の「銭湯博士が行く!銭湯巡りツアー」

ノーリツとは風呂釜などのメーカーで、
そのホームページに「銭湯博士が行く!銭湯巡りツアー」があり、
安易に応募したら当たった。
銭湯博士とは、町田忍さんのこと、これまで私は知らなかったがとても素敵な人であった。
町田さんのHP=http://www.edo.net/machida/index.html

     

俗には「オタク」と言われるかもしれないが、
むしろ尊敬を込めた呼称の「ハッカー」に属する人で、
銭湯・納豆ラベル・マッチラベル・征露丸等々日本に存在するあらゆるラベル・包装紙・化粧箱等を収集する博物学者、だそうです。

北千住・浅草一帯は昔、吉原など遊郭、俗に言う赤線などがあった地域と言われる。
それは、一つにはその地勢が関係していると思われる。

江戸の北端に位置し、ほとんど四方を川に囲まれ、真ん中を日光街道が通っている。

宿場町通り=旧道


横山家=紙問屋だったと思う、店先は道路より低い、客を見下ろさない工夫とか。


横山家の前は、写真は撮らなかったが絵馬を作る千住絵馬屋であった。

梅の湯・その主人

梅の湯は廃材で湯を沸かす、チューンソーが使えなくなったら廃業だと言っていた。
洗い場の壁はペンキ画でなく、モザイクタイルの壁画だった。
番台は内側=湯殿側を向いている。

大黒湯

正面は昔は入口でその上には見事な唐破風がきれいだ。
中は、すっかり現代風で、番台は入口を向いていて、着替え場・洗い場などは見えない。
昔の番台は、着替え場・洗い場を見渡せた。
若い女性には不人気で向きが逆になったが、その分置き引きが増えたという。

若手の芸術家の作で“弓射る”=湯に入るのしゃれで銭湯の看板広告、
彫刻は、屋号になった宝船に乗った大黒様。
燃料は材木・重油を使うところもあるそうだが、ここは都市ガスで沸かすそうだ。
重油の場合一日ドラム缶一缶を使い、燃料代は2万円、
これは50人分の入浴料(大人一人430円)に相当し、
その他、電気代・水代などがとてもかかり経営はとてもむずかしいそうだ。
最低でも一日160人ほど来ないと経営は成り立たないらしい。
銭湯代は、かけそば一杯の値段と同じ程度と決められてきたらしい。
組合のメリットは、親睦と融資の斡旋だけらしい。
ここには、昔の警察の通達[歌を歌うな等の注意が書かれている]等の歴史的資料をご主人が保存していて、見せてくれた。
銭湯の管轄が警察であることにはその歴史的根拠・理由があるそうで、町田さんが色々教えてくれた。

住大千門
ここからは昔遊郭地帯だったそうだ。

その名残りを残す建物。



タカラ湯

屋号由来の宝船。
タカラ湯の特徴は、日本庭園とそこに面する開放的で明るい湯殿。
ツアー一行は、午後2時半過ぎから貸しきりで入湯した。
3時には常連客が次々と入って来た。
一番湯でないことに不可解さの表情であった。


真ん中の茶色の壁様の物は引き戸で、真ん中の柱まで閉まる、
この奧は男性湯殿、つまり女性はここまでしか来られず、
ここから日本庭園を楽しめる。

人が乗っている橋は一枚岩で、
事情で不要になった人から譲り受けたがそれでも18万円[大卒者の初任給が3万円位であった昭和30年代]したそうだ。
ご主人は、フランスでカメラマンをしていたが父親が急逝したあと引き継いだとか。
池にはたくさんの鯉が泳いでいた。
水は昔からの井戸水だそうだ。
昔は、塩湯=イスラエルの死海と同じ程度の塩分濃度=があったそうで、皮膚病などにきいたそうだ。
現在の薬湯はその名残という。

タカラ湯の縁側で懇談会をした。
今回のツアー参加者は50~60才代の5人の男性であった。
募集時には無かった「ノーリツのHPに顔写真などが乗っても良い」というのが条件で、辞退した参加者もいたのだろう。
私以外は銭湯大好きという人であったが、
古典邦楽器を作っている人、フランスで長年日本語学校校長をした人、コンピュータのコンサルタントをしている人などといずれも魅力あふれる人であった。
町田さんは、単なる「納豆の包み紙をコレクトする変人」ではない、
納豆の包み紙収集から始まって納豆の歴史まで研究してしまう人=博学・博識だ。
庶民文化・街角文化は色んなことと関わり様々な連鎖を織りなす。
その入り組んだ関係を丁寧に・雑多に解き明かします。
一番最初は鉄道の好きだったが、絵を勉強し、ヒッピィを経験し、警察官になり、
警察関係展覧会で絵で表彰を受けその後すぐ警官をやめて色んなことを経験した
1950年生まれの人だ。
町田さんは色んなウォーキングツアーの案内人などもやっているそうでトットット歩く速さの健脚ぶりもとても気に入りました。

さて、日本人と風呂、について。
日本人の風呂・温泉好きは世界でも珍しいそうだが、
町田さんによると、風呂・銭湯が日本に生活様式=文化として定着したのは江戸時代である
仏教など宗教は、民衆の現世の苦しみからの開放を解く、
僧は現世の苦しみの一つ・病苦を治療する医者も兼ねてきた。
温泉の豊富な日本では、医者も兼ねていた僧は温泉を開き・湯船を作り布教した。
その名残は日本各地に残っている。
入浴が日常の生活習慣になったのは、江戸時代になってからで、
始めは蒸し風呂と湯船に浸かる二つがあったそうでが、
蒸し風呂は少しの入浴者しかは入れないのでだんだん湯船方式が増えたそうだ。
そこで働く女性の中には性的サービスを強制され・専門とする人も生まれるようになった。

古代ローマ人は、水道・街道・コロセアム・そして浴場を作った。
そこには古代ローマ人の知恵が凝縮している。
古代の人々の恐怖の一つは病であった。
ローマ人は、きれいな水・清潔な体作りのための浴場・娯楽施設でのストレス発散等が健康によいと考えた。
病気を治療よりも、予防医療を大事にする考えだったのだ。
水源から延々と水道を引き街角には無料のたれ流しの水道を用意した[そこから家まで水道を引くと有料になる]、
仕事を終えた後はほとんど無料の浴場で体を清潔にし、休みの日にはサーカスや芝居を無料で楽しんだ。
ローマに恭順した人々にはローマと同じようにこうした施設を与えられ、ローマ式文化生活を享受した。
当時の蛮人の一部はローマへの恭順を喜んだそうである。
多神教であったローマは、蛮人の宗教の弾圧もせず、認めた。
これらは、近現代の帝国主義・大航海時代のスペイン・ポルトガルなどの植民地主義・収奪・宗教弾圧=キリスト教の強制とはまったく違う、
文明・人々の知恵・文化そのものと言える。
だいぶ脱線したが、日本においては、宗教特に仏教が医療・入浴による体の清潔と病気治療に関わり、果たしたことが
江戸時代の銭湯・入浴の定着に果たした影響は大きいと思う。
同時に、江戸の銭湯文化は、性文化・性産業とも密接な関係も持っているのも確かだろう。

関東・東京の銭湯の経営者は、北陸=新潟・富山出身者が多いと言われる。
それは、東京への出稼ぎ者が北陸出身者が多い、と言うだけでは説明付かない。
町田さんの考えは、一向宗と関わりがあるという。
銭湯の労働は厳しい、体が汚れる、水仕事特に冬場は厳しかった。
体が汚れる仕事は昔から嫌われ、差別されてきた。
例えば、屋根葺き職人・銭湯の釜焚きは、きたなく厳しい労働でありながら、差別された。
灰カグラと言ったか、失念した。
一向宗は戦国時代の荒れた時期、大名の力が及ばないほどの独自の勢力圏を北陸一帯に作り上げた。
戦国時代、子どもの間引きは一般的なことだったが、この地ではまったく行われなかったという。
それは宗教的だけの理由ではなく、その地は経済的にも豊かな地を農民達が作り上げていたからだ。
そんな歴史の中、北陸の人々は、独自な歴史的風土・精神、血縁・地縁関係を築いてきた。
銭湯に出稼ぎで来た人々の中で、北陸出身者は厳しい労働に耐え、のれん分けなどで銭湯を始める人も出てきた。
のれん分けなどで新たに労働力が必要になった時、厳しい労働に耐えられ・信頼できるのは一向宗徒同士の信頼関係が不可避だったと町田さんは言う。
関東の銭湯に北陸出身者が多いということは単に出稼ぎの関係と思ってきたが、
一向宗との関わりを聞いたのは町田さんが初めてであった。
我が意を得たり、と言う感じであった。

タカラ湯でツアーは終了。
タクシーで北千住に戻り、駅前の居酒屋で交流会となった。
お酒も入り、お話は大いに盛り上がった。

ツアー参加者と初めてあった時、自己紹介があったが、名前などまったく興味が無かったが、
お風呂やこの交流会でお話を聞くと実に人生経験の豊かな人々で、単なる銭湯オタクではなかった。
治療行為としてのドイツの温泉の話、何でも鑑定団の鑑定人の経験もある人、
NHK等多くのテレビにも出演し多くの芸能人とも交流している町田さん、などであった。
でも、こうしたマイナーな話題は、会社や家ではうるさがられて誰も聞いてくれない、
だが、この場では誰も文句も言わずにのんびり聞いてくれる。
セラピー効果は大、であった。
今回のツアーの最大の良かったのは、こうした人々がいると言うことの発見であった。
おそらく二度と会うことはないと思う。


私の銭湯の思い出
結婚当初は、風呂のないアパートだった。
子どもを入浴させるのは私で、洗い終えると真ん中の戸から、妻の手に渡った。
子ども二人の時は結構大変だった。
赤ん坊を先に洗い、次に大きい子を渡し、妻が服を着せた。
「出るゾ」で一緒に出たのだが、ほとんど待たないような思い出がある。
家族風呂のある銭湯もあった。貸し切りで家族が入る。
利用したこともあるが普通の銭湯の方がのんびり入れたように思う。
慌ただしい生活であったが、今では楽しい思い出である。