夢の翼with皇大26期生のブログ

私と関わる全ての人たちが繋がりあえるように、大学時代の思い出から現在の環境までをまとめて1つのブログにしちゃいました。

大叔父の加護

2014-08-30 11:00:05 | 剣道
 毎年、尾鷲の我が家の墓と、高山の母方の先祖累代の墓をお参りに出かけるのは、子どもの頃からの我が家のお盆イベント。今年のお盆は両親の都合と我が家の都合がなかなか合わず、家族旅行のあとになってしまい、お盆の最終日にラッシュにおびえながら尾鷲に、その前日に高山に墓参りを敢行した。高山は豪雨に出くわし、我々が帰宅したと同時に高速道路が封鎖になるという危機一髪状態。久々に大変な思いをした墓参り。でもお参り中は全く雨に降られずに、高山観光も無事に行った。先祖のご加護か。
 明けて翌日、大本命の我が家の墓参りに赴く。天気は快晴。尾鷲で快晴は珍しかった。あまりの天気の良さに、墓参りと伯母の老人ホーム伺いとやることを済ませてから、子ども達のために川遊びに連れて行く。とても綺麗で冷たい流れが、ほてった身体を冷やしてくれる。気持ちよい。かれこれ1時間半水につかり、身体が冷え切ったので、尾鷲の熊野古道センターの温泉へ向かう。胃袋も満たしながら温泉にもつかる。今回の旅はかなり詰め込んだ旅になった。これで終わってまっすぐ帰ればいいものを、お土産を買ってからふと思い立ち、尾鷲から墓を引き払って四日市へ移した大叔父の墓を探そうということになった。高速をひた走り、久居で一度下りて梨を買う。久居の梨を食べないと夏を終われない我が家。そこから下の道を走って、幼い頃に曾祖父の墓参りに来たときの記憶だけを頼りに、大体の感で大叔父の墓を探し当てる。考えてみればこの場所を忘れなかったのは、私は曾祖父が大好きだった。両親は早くに父親を亡くしているので、私には祖父がいなかったのだ。曾祖父は私の祖母の父。祖母の旧姓・東(ひがし)家は我が家の墓の隣に位置していた。当然、曾祖父はそこに埋葬された。しかし、それから1年ほどで、長男である大叔父が、自分の家からほど近いところへ墓地を買ったからと、東家の墓をまるまる引っ越してしまった。そのあと1度だけお参りに行ったことがあるのだが、中学に入ったばかりで、近鉄電車で向かったので、道も住所も分からなかった。墓を作った大叔父も今は亡く、東家の親族とはその後つきあいがないことから、家がどのあたりだったかも分からない。そんな中、たった1つの情報が私の頭の中に残っていた。楠の木がぽつんと立っている光景を覚えていたのだ。近鉄の駅からほど近いところに、楠がそびえ立つ墓の光景。確かに、近鉄沿線には2ヶ所そんなところがある。父の曖昧な記憶にある大叔父の住所をある程度参考にしながら、墓地を探すが、見当たらない。諦めて帰ろうかとしたとき、沿線を走りながらその向こう側に墓地が見えるのを発見。思い切り脇見運転である。しかも、夕暮れ時で見えにくい。危ないことこの上ない。そこに目星をつけて車を横付けする。両親と私が探す。あった。見つけたのは私。これも大叔父の加護か?我が家の剣道のルーツ。大叔父こと、範士八段・東春雄。三重県警の剣道師範で、国体三重県チームの監督もしていたらしい。墓には建てた本人である大叔父の名が刻まれていた。翌週に剣道の大会を控えていたので、子ども達の武運を祈りながら娘に大叔父のことを語ると、必死で祈っていた。活躍できるといいね。そう言って墓をあとにした。
 1週間後、長男が団体戦で4回戦まで進み、娘は先生方に褒めていただけるような、なかなか良い試合をした。次男は骨折して泣きを見たが、二人の戦果は大叔父の加護があったのだろうと話題になっていた。やはり、先祖は大切にするものだとしみじみと思うのであった。
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デイキャンプにようこそ

2014-08-30 10:07:20 | 教室経営
 今年も21日(木)にデイキャンプを行いました!ありがたいことに、お天道様が厚い雲で覆われて、直射日光はほとんど浴びず、おいしくカレーを作ることができました。焦げたご飯もなかなかうまくできていました。校長先生をはじめ、スタッフ陣も大活躍!今年は揃いのTシャツなんて作っちゃうくらい、ノリが良い!自分で言うのも何ですが、回数を重ねてきたおかげで、みんなの要領がいい!自分がばたばた走り回らなくても、お母さん達の手際がいい!低学年が多くどうなるかと心配していたけど、お母さん方のおかげで怪我もなく、スムースに事が運びました。御礼申し上げます。しかし、それに引き換え、自分の動きがだんだん悪くなってきていることに気がつきました。病気のデパートと呼ばれる身体になり、何をするにも動きが遅く、重労働に耐えられない。視力低下と視野狭窄は動きを鈍らせる一番の原因かな。いや、運動不足による体力不足もあるが…。一番迷惑をかける存在になりつつあるので、今後のことも考えていかなければならないかも。
 しかし、そう思っているさなかに、我が校のデイキャンプに交わりたいと言ってくれる、他の通級の先生方が現れ始めた。広まっていくことは嬉しい。単純に、人手が増えるだけでもありがたい。引退とか言っていられなくなっていく。身体の調子を整えることを最優先に生活を送り、来年のデイキャンプにつなげていけるようにしたいですね。
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4回戦

2014-08-23 14:09:01 | 剣道
敵の先鋒は尾張最強!前の試合から続けて10人抜きされて敗退!悔しい負け方でした。
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3回戦

2014-08-23 13:19:42 | 剣道
有り難いことに、3回戦も出番があり、相手の中堅と副将を倒して大将と引き分けて4回戦進出を遂げた!活躍してるじゃん!ご長男!
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2回戦

2014-08-23 12:32:32 | 剣道
先鋒の主将が引き分けたため、次鋒の長男にも試合をするチャンスが!出鼻小手の練習が活きたのか、相手次鋒と中堅を倒す快挙を遂げた。副将に手こずり引き分けたが、チームの中堅が相手の大将と引き分けてチームが勝利した!3回戦進出だ!
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高校生剣道

2014-08-23 11:57:58 | 剣道
愛知県尾張地区の夏季高校生剣道大会を観に来ました。日頃、中学生や小学生の剣道ばかり観ているせいか、高校生剣道がやたら大人っぽく見えるのは気のせいか?とりあえず、長男の所属する学校は、先鋒の主将が独りで5人抜きしてくれたので、次鋒の長男は出番なしで2回戦に駒を進めました!次は頭脳明晰な旭野高校戦!勝てるかな?
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武蔵と兵庫助!?

2014-08-02 14:08:30 | 剣道
 昨日、いつも懇意にしている防具屋さんと、他の客がいないのをいいことに剣道談義をしていた。本当は注文してあった剣道着が到着したから、との連絡を受け、受け取りにやってきただけなのだが、長男が「竹刀が欲しい」などと言うものだから、なかなか出かける時間を作れない長男に代わって38の竹刀を物色し、1本作ってやることにした。そんな中、息子と柳生新陰流の話をしていたことを思いだし、その話題を振ってみた。すると、店のおやじさんは柳生厳長先生の元で新陰流を学んだ方だそうで、話題がヒットしたらしく、珍しくいろんな話をしてくれた。いつもはおばちゃん(店の奥さん)と話し込むことが多く、職人気質のおやじさんとは、あまり会話したことがない。しかし、ただ者ではないと思っていたが、柳生新陰流の使い手とは恐れ入りました。新陰流は剣道とは全く違って、実践的な古流剣法ということは知っている。2校目の職場で一緒だった事務員さんの旦那さんが枇杷島SCで新陰流を学んでいるから、一緒にどうか?と誘われたことがあり、厳長先生の指導ビデオを見せて戴いたことがある。当時は仕事も通級に替わったばかりでとても忙しく、県武道館のお膝元にいたにもかかわらず、剣道に関わる暇もなく、結局、新陰流を学ぶ機会を逸したが、考えてみれば、その時に剣道を再開していたら、県武道館で現役特錬隊選手だった頃の中村先生にも巡り会っていたことだろう。土古公園で陸上部の練習をしていた頃に、同じ公園でトレーニングに励む先生に何度もニアミスしているのだ。世間は狭い。
 しかし、この日の会話はそれだけでは済まなかった。おやじさんの新陰流の元を遡れば、名古屋の、尾張柳生家が伝えた新陰流を最初に伝授されて広めたのは、あの「精勇館」の鹿嶋清孝先生だそうな!かつて、我が師・鹿嶋孝先生から「親父(清孝先生)の道場に稽古に来ていた」大叔父・範士八段・東春雄氏の話を聞いたことがある。その清孝先生は「柳生新陰流抜刀術」の継承者でもあり、大叔父・東春雄氏はその新陰流抜刀術を学ぶために、わざわざ三重県から精勇館まで出向いてきたのだそうな。だから名古屋で剣道の道具一式を買うならこの店で、と私に勧めてくれたのだ。ここでも防具屋のおやじさんと繋がっている理由が分かった。世間は狭い。今まで分からなかったことがようやく繋がった。三重県にも道場はたくさんあるのに、何故大叔父が名古屋の精勇館に修行に来ていたのかが分からなかった。しかも、若い頃ならば四日市ではなく尾鷲に住んでいた頃ではないだろうか?新陰流を学ぶためだけに一念発起して名古屋までやってきた大叔父の精神に頭が下がる。伊達に範士八段になれたわけではなさそうだ。当時50代で範士になっているわけだから、若い方である。八段には50にならないとなれない時代だったわけだし。皇學館まで出向いてきてくれたときに、会えなかったことが唯一悔やまれる。稽古をつけてもらえる唯一の機会だっただろうに…。
 最後にこんな話も飛び出した。おやじさんの父親である先代店主。私が高校生の頃、今のおやじさんより一回り小柄なおじいさんが、いつも竹刀を削って組み上げてくれたが、あの先代おやじさんは二天一流の使い手だそうだ。大正時代から栄にほど近い久屋大通に店を構えて、息子(現店主)を新陰流で学ばせ、柳生厳長先生から屋号の書を戴き、ご自身は二天一流を学んだという。そんなお店で買い物をしていたのかと思うと恐れ多い感じもするが、二天一流も柳生新陰流も、剣道を志すものならば興味を持って当然の流派。いつかその流派を学んでみたい。身近に宮本武蔵と柳生兵庫助がいたのだ!しかも、親子で!
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