夢の翼with皇大26期生のブログ

私と関わる全ての人たちが繋がりあえるように、大学時代の思い出から現在の環境までをまとめて1つのブログにしちゃいました。

武蔵と兵庫助!?

2014-08-02 14:08:30 | 剣道
 昨日、いつも懇意にしている防具屋さんと、他の客がいないのをいいことに剣道談義をしていた。本当は注文してあった剣道着が到着したから、との連絡を受け、受け取りにやってきただけなのだが、長男が「竹刀が欲しい」などと言うものだから、なかなか出かける時間を作れない長男に代わって38の竹刀を物色し、1本作ってやることにした。そんな中、息子と柳生新陰流の話をしていたことを思いだし、その話題を振ってみた。すると、店のおやじさんは柳生厳長先生の元で新陰流を学んだ方だそうで、話題がヒットしたらしく、珍しくいろんな話をしてくれた。いつもはおばちゃん(店の奥さん)と話し込むことが多く、職人気質のおやじさんとは、あまり会話したことがない。しかし、ただ者ではないと思っていたが、柳生新陰流の使い手とは恐れ入りました。新陰流は剣道とは全く違って、実践的な古流剣法ということは知っている。2校目の職場で一緒だった事務員さんの旦那さんが枇杷島SCで新陰流を学んでいるから、一緒にどうか?と誘われたことがあり、厳長先生の指導ビデオを見せて戴いたことがある。当時は仕事も通級に替わったばかりでとても忙しく、県武道館のお膝元にいたにもかかわらず、剣道に関わる暇もなく、結局、新陰流を学ぶ機会を逸したが、考えてみれば、その時に剣道を再開していたら、県武道館で現役特錬隊選手だった頃の中村先生にも巡り会っていたことだろう。土古公園で陸上部の練習をしていた頃に、同じ公園でトレーニングに励む先生に何度もニアミスしているのだ。世間は狭い。
 しかし、この日の会話はそれだけでは済まなかった。おやじさんの新陰流の元を遡れば、名古屋の、尾張柳生家が伝えた新陰流を最初に伝授されて広めたのは、あの「精勇館」の鹿嶋清孝先生だそうな!かつて、我が師・鹿嶋孝先生から「親父(清孝先生)の道場に稽古に来ていた」大叔父・範士八段・東春雄氏の話を聞いたことがある。その清孝先生は「柳生新陰流抜刀術」の継承者でもあり、大叔父・東春雄氏はその新陰流抜刀術を学ぶために、わざわざ三重県から精勇館まで出向いてきたのだそうな。だから名古屋で剣道の道具一式を買うならこの店で、と私に勧めてくれたのだ。ここでも防具屋のおやじさんと繋がっている理由が分かった。世間は狭い。今まで分からなかったことがようやく繋がった。三重県にも道場はたくさんあるのに、何故大叔父が名古屋の精勇館に修行に来ていたのかが分からなかった。しかも、若い頃ならば四日市ではなく尾鷲に住んでいた頃ではないだろうか?新陰流を学ぶためだけに一念発起して名古屋までやってきた大叔父の精神に頭が下がる。伊達に範士八段になれたわけではなさそうだ。当時50代で範士になっているわけだから、若い方である。八段には50にならないとなれない時代だったわけだし。皇學館まで出向いてきてくれたときに、会えなかったことが唯一悔やまれる。稽古をつけてもらえる唯一の機会だっただろうに…。
 最後にこんな話も飛び出した。おやじさんの父親である先代店主。私が高校生の頃、今のおやじさんより一回り小柄なおじいさんが、いつも竹刀を削って組み上げてくれたが、あの先代おやじさんは二天一流の使い手だそうだ。大正時代から栄にほど近い久屋大通に店を構えて、息子(現店主)を新陰流で学ばせ、柳生厳長先生から屋号の書を戴き、ご自身は二天一流を学んだという。そんなお店で買い物をしていたのかと思うと恐れ多い感じもするが、二天一流も柳生新陰流も、剣道を志すものならば興味を持って当然の流派。いつかその流派を学んでみたい。身近に宮本武蔵と柳生兵庫助がいたのだ!しかも、親子で!
コメント
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