長く続けさせていただいた「ことばの教室」。思えば23年間もの間お世話になりました。最初にお世話になったのは、私が当時の教頭先生の思いをくんで命名した「にじ組」。開設を命ぜられての転勤でした。何も分からず「貴方がプロじゃないのか!?」と当時の校長先生をがっかりさせた覚えがあります。通級制度も始まったばかりで、まだ誰も「通級とは何か?」という質問に答えられる人がいませんでした。教育委員会でさえ、制度的なことを話してくれるだけで、現場のことはさっぱり。私は手探りで頑張るしかなかった。そんなひよっこ(一応20代最後)の私も、言聴研の事務局などを歴任させていただき、愛知大会の切り盛りもして、気がつくと23年。愛知県全体で見ても通級指導教室の「最古参」になっていた。立場の弱かった通級に長く居続けようとしてくれる人がいなかったのだ。名古屋は新卒さんばかりあてがわれて6年後には関係ないところに飛ばされることがほとんどだったため、私が跡継ぎの人材を育てても全く無意味に指導室人事で異動させられるから、言難を率いて立ってくれる人が育たなかった。15年目を経過した時の会長先生がその事態を憂慮してくださって、やっと新卒さんではなく私のような「特別支援学級経験者」を連れてきてくれるようになった。それでもなかなか流出は止まらない。みんな3~5年で転勤してしまう。しかし、やっていく中で気がついた。やって来る人の大半は、例え短い年月しかいなくても、言難に全力投球してくれている。言語・聴覚の専門家としての学習会を熱心に開いてくれる。「自分がいなきゃ!」などと驕り高ぶった気持ちをもっているからマイナス面しか見えてこなかったのだと。頼られているうちは確かに気分がいい。だが、いつかきっと「古いことばかりいっている鼻持ちならないオヤジ」でしかなくなっていく。人は頭を下げなくなったら終わりなのだ。
教職7年目の時から持ち続けていた言難の資料は段ボール4箱分。大事な書籍と、自分が苦労してまとめた足跡を除いて、全て溶解処理に回してきた。23年分のゴミ処理の大変だったこと!!立つ鳥跡を濁さず、なんて言うけれど、3月31日を過ぎて4月1日午前0時15分、ある程度片付いた(掃除機はかけたけど雑巾がけを忘れてた)こだま教室前と、8年間お世話になった最後のN小学校の通用門で、深々とお辞儀をして「去って」きた。
夜が明けて、車の中身はそのままに、久しぶりの電車通勤。近いから大丈夫とは思っていたものの、流石にこれはヤバい!タクシーか!?という時間にしか電車に乗れなくて焦ったが、余裕で間に合ってしまった。近いということは嬉しいことだ。
新しい職場では、今年度の転勤者がずらり。その中に知った顔が。2つ前の学校で一緒だった用務員さんだ。気のいい優しい若者で、これは幸先いい!だが、この並び順、校長先生の名前を呼ぶ順番からして、私は最年長者!?そうか、60歳定年時代なら最後の転勤だもの、オジサンだわなぁ・・・。もちろん、再任用講師さんもいるから職場最年長ではないが。
新しく担当する発達障害の教室は、これまた嬉しい名前で、2つ前の教室の英語バージョン。2つ前の教室といえば、このブログを始めるきっかけになった思い出深き教室。しかも、同じ特別支援の教室に「にじ組」もある。しかも、特別支援学級が3つと通級で特別支援教育に携わる人が4人もいる学校なんて、一大勢力だ!新しい出会いに気をよくして、家で祝杯を挙げて風呂に入ったら、湯船で滑って転んで左肋骨を二本も骨折してしまうという失態を犯して、早くも4月2日を欠席しなければならないという情けなさ。3日目の出勤時に皆さんの気の遣いようが「痛い」!最初の転勤時も4月1日に熱を出して早退し、2日には急性糖尿病で入院決定という失態を犯した。50歳過ぎて同じ過ちを繰り返すとは・・・。情けない。
新年度、分からないことだらけ。あれこれ聞きたいところだが、4月の初めなんてみんないっぱいいっぱいで仕事してる。自分で調べて対応できることは何とかするしかない。伊達に30年間教員やっているわけじゃない。だがしかし、新しいIT機器に手惑うことが多く、管理職や教務さんの手を患わせてしまう。誠に申し訳ない。しかも自分のせいで全て1日遅れになっている。スタートでしくじるとは一世一代の不覚。まぁ、始まったばかりだから焦ることもないのだが、少しでも余裕を持って臨みたい。どこまで頑張っていけるか、52歳で新しいことを始めるこのときめき!!皆さんに伝わりますかねぇ!!ワクワクしています。令和2年4月、教職30年目・通級指導歴24年目のスタートは「発達障害」で!「やってやるぜ!!by藤原忍(分かる人はかなりのオタク?)」