夢の翼with皇大26期生のブログ

私と関わる全ての人たちが繋がりあえるように、大学時代の思い出から現在の環境までをまとめて1つのブログにしちゃいました。

理解啓発のまとめ

2011-03-27 22:19:51 | 言語・難聴
 国立特別支援教育総合研究所の主催する専門研究の、年度末のまとめとして、東京のサテライト研究室に集まって会議を行いました。東北関東大震災の影響で東京都内も計画停電が行われる中、全国各地から集まった研究協力者たち。一人一人が今年度の実践をまとめて報告をしあいました。かく言う私も昨夜、というよりも今朝未明、報告文書を作成して会場へ。新しい取り組みをやって、自信満々に会場へ入ったところまでは良かったのですが、会場でたくさんの報告を聞いているうちに「本当に自分の実践は正しいのだろうか?」という疑問に襲われてしまいました。研究協力者の先生方もいろいろな理解啓発活動を実践してみえます。そして、理解啓発は「伸るか反るか」の、いわば「両刃の剣」。今年度はほぼすべてうまくいったけれど、次年度は必ずしも成功するとは限らない訳です。そして大事なことは「障害の理解」をどこまで理解させるのかということ。低学年と高学年では理解してもらいたい内容が違うわけです。それをどの程度網羅するのかということを突っ込まれてしまいました。それだけではありません。障害があるから大変なのか?そうではありません。そのことを誤って理解されることで「障害があるからかわいそう、出来なくても仕方がない」などの感情がでてくることも有りうるのです。差別につながる発言が現れてくることが一番つらいのです。だから、理解啓発授業は慎重に取り組まなければならないのだということを思い知らされました。少しくらいうまくいったからといって、浮かれていてはいけないのだということを痛感させられた会議でした。
 が、ここで持論ですが、私は同情から始まる障害理解も有りだと思うのです。もしも小さな子供が車いすの身体障害者に対して「足が動かないの?かわいそうだね。車いすを押してあげるね!」と言ったらあなたは怒りますか?「優しい子だねぇ。ありがとう。」とまずは誉めてあげるでしょう?もう少し大きくなって、理解可能な年にならなければ怒ったりせずに誉めてあげるはずです。それは「優しい心」を育てることの方が先だと考えるからでしょう。少なくとも私はそう考えます。大人になれば同情と障害理解の差が何なのか、分かる時が来るでしょう。それまでは優しい心を優先したいものです。もちろん、小学校の高学年には正しいことを理解してほしいですけどね。理解するタイミングは人それぞれ。一番良い時期に覚えてくれればそれでOKです。
東京からの帰りの新幹線にて。
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巣立ちの会2010

2011-03-23 10:47:49 | 教室経営
 昨日、巣立ちの会を行いました。通級指導を終了して退室する子を励まし、お互いの得意なことを自慢しながら楽しく発表して1年間の成果を称え合う会です。つばさ組を巣立つ子どもは総勢4名ですが、家庭の事情等で1名だけをみんなでお見送りしました。在校生(在室生?)は6名の参加で、兄弟、保護者も含めて総勢15名の会となりました。
 言葉に限らず一番得意なことを自慢してきた今までの巣立ちの会のイメージからは「縄跳び」「バランスボール乗り」「フラフープ回し」などの体操系を得意とする子が多かったイメージがあるのですが、今回はいつもと違って「本の朗読」「思い出の語り」「作品披露」などの文化的なことが多かったようです。それだけ「話すこと」に自信がついてきた証拠なのかな?と思います。とても良い傾向ですね。でも、今まで通りの体育系が悪いとは思わないのです。何せこの会は、普段賞賛される機会の少ない子どもたちが、一番得意なことを披露して、みんなから賞賛されながら、気持ちよく1年間を終える会だからです。ことばの教室というとどうしてもその成果を発表するために朗読系や演劇系になりがちなのですが、つばさの巣立ちの会は趣旨が違います。余所ではあまりやらないことをやるのが私の主義ですから。やっぱり今年もやりましたよ!フラフープ対決とバランスボール対決!!お母さん方の参加が少なかったのが残念だけど、来年度は是非親子対決で!私も1年かけて修行しておきます。これを見越してこの会にはパンツスタイルでお越しください!
 つばさの仲間たちとの1年間が終わりました。今日は教室の床を「はつり」して大改装工事が始まりました。3月いっぱいは観察室に閉じこもって仕事かな?金槌の音が鳴り響く教室の隣の待機室(観察室の奥:私一人用の職員室)で更新中です!新しくなる床の絨毯は何色だったかな?注文したけど覚えていません。出来上がりを待ちましょう。
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卒業式

2011-03-20 15:37:28 | Weblog
 去る18日(金)、小学校の卒業式がありました。教員生活20年目にして、初めて職場の卒業式を欠席して、親として息子の卒業式に出席しました。毎年送り出す側として職員席から眺めていましたが、今年は送り出される側の保護者席。変な気分です。でも、職業病でしょうか、子どもたちの返事の仕方、証書の受け取り方、歩き方にまで文句を言いたくなってくるんです!!あれが本番の態度なら、さぞかし練習中の先生方は腹が立ったと思うのですが、よくぞ諦めずに、あの態度の悪い子どもたちを見捨てずに最後までご指導くださったと、改めて担任の先生方に御礼申し上げたいと思います。
 卒業間際までいろいろな出来事があり、平和に過ごせる学校はあまりありません。我が子の学校でも、自分の勤め先でもそうです。それでも担任の先生方は最後まで一生懸命に子どもたちの指導に当たり、晴れの日に、さんざん悪態をついた子どもたちに「おいしいところ」を持っていかれる形で卒業して行かれるのです。学校に文句を言う親は増えている。でも、私のように担任を持つことなく両者の間に立つ立場の教員は、担任の先生のがんばりを目の当たりにしているから、子どもの悪態の原因の根本が学校にあるわけではないことくらいわかる。指導力がないだの、できる子には依怙贔屓だの、暴言を吐いていく保護者を見ると、なぜ我が子のSOSを見抜いてやれないのかと思う。うまく自分を表現できないから、いけないとわかっていても、逆効果だとわかっていても、みんなの注目を浴びたいから、かまってもらいたいから、悪態をつくのである。親の前では悪態をつかない小学生は多い。そんなことをすれば家に帰って過激にしかられるからだ。子どもなりに「親に悲しい思いをさせたくない」という思いの子もいる。でもなぜか、学校では周りの同級生たちと一緒にいることで「気が大きく」なるのです。だから、目の前の大人である担任の先生に悪態をつく。もちろんそこで本気になって叱ってくれる先生ならば、その悪態もそこで終わる可能性もある。長く続くのは、まるで同時多発的にあちこちで同じようなことが起こり、先生の限界を超えるからである。40人もいれば当然目の行き届かない瞬間も出てくる。その隙を狙ったかのようにあちこちで反乱が起きれば先生も一人では防ぎきれない。そんなとき家庭が子どもの異変にいち早く気づくことができれば、雪崩を防ぐこともできるのに。
 高学年になれば親と会話しない子供が増えてくる。親もわが子が成長して手がかからなくなってくるから、信頼して任せっきりになっている場合が多い。しかし、所詮子どもは子ども。大人のような考え方ができるわけではない。善悪の判断もあやふやで、悪に対して反対する勇気もない。(大人でもこれがない場合は多いと思う)義務教育を終えるまでは、親として子どもに構い過ぎるほど声をかけてやっても失敗することはない。過保護な親は多いのに、保護すべき部分が間違っている。人間としての躾、他者と協調することの大切さを、人間社会を構成する最小単位の「家族」が教えずして誰が教えるのか?必要最低限の躾・道徳については少なくとも家庭で教えるべきことであり、親が背中を見せながら子どもに教えることである。親ができなければ子どもにもできない。
 卒業式でたくさんの親子を見て、自分本位な親子の姿に、少し悲しさを覚えた一日でした。めでたき春の日に…。
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