夢の翼with皇大26期生のブログ

私と関わる全ての人たちが繋がりあえるように、大学時代の思い出から現在の環境までをまとめて1つのブログにしちゃいました。

個に応じた教育?

2010-02-24 11:48:12 | 教育・躾全般
 先日、とある講演会で、「最近個人を優先しても文句を言われないことが多くなった」という話題を聞きました。みんなと共同でやっていることや、協調して取り組まなければならないことを、「自分は忙しいから」とか「家庭の事情が大変だから」という理由で簡単に断ってしまったり自分だけ抜けてしまったりする人が増えたということでした。集団の事情より個人の事情が最優先される時代になったという意味です。研修会でもそうですが、「私は忙しいから行けません」という人が増えれば、それは成り立たなくなってしまいます。近所づきあいの「自治会」だってそう。「我が家は共働きだから」と言い出せば、理屈上、ほとんどの人が当てはまり、みんな会合に参加しなくても良くなってしまう。でも果たしてそれでよいのか?それが正当化されていけば、世の中の仕組みの中で破綻していくものがたくさんあるのではないでしょうか?
 学校教育だって同じです。「個に応じた指導」という言葉が言われて久しい、というより、私が教職に就いたときの初任者研修会での話題がこれでしたから、かれこれ20年経過するわけですね。そんな教育を受けながら育った子どもたちは、今みんな親になり、小学生の子供を持つ世帯を構成しているわけですが、授業参観などに出かけると、どんな学校にも、どんな学級にも、少なからず「落ち着きのない子」「周りにちょっかいをかける子」は必ず数人います。「集中力に欠ける子」や「空気の読めない子」などは最近はADHDやアスペルガー症候群として「発達障害」として認知されるようになってきました。確かにそういった子も多い。でも、中には明らかに「協調性に欠ける」「自分勝手」「わがまま」な子どもも多く存在している様子です。それらの子どもは明らかに「発達障害」とは違うので分かります。そしてそういった子どもを参観しながら親はどう思っているのだろう?と、いつも周囲の保護者層を観察してきますが、ほとんどの場合「この親にしてこの子あり」という様子が分かります。集団で発表しようというときに「やりたくねぇ!」では何とも先へ進みません。そこに至るまでに何らかの原因があったのでしょうが、「個」を捨てて「集団」のために生きることも大切な勉強です。「一人はみんなのために・みんなは一人のために」真逆の言葉のようでいて「集団」での「協調性」の大切さを説いた大事な言葉です。集団の中で自分を活かすことが出来るようにするためには、まずはその集団の中に自分が溶け込まなければなりません。人とコミュニケーションを図ることが苦手な人はたくさんいます。でも自分のことだけを主張し続けて周りとの協調を怠ってしまえば、コミュニケーションを図ることはますます難しくなってしまいます。相手だってだんだん自分から遠ざかってしまうでしょう。それではますます孤立を深めて、ついには誰とも会話すら出来ない状況になってしまうかも知れません。子どもたちをそうさせてしまわないためにも、本来の意味の「個に応じた教育」が大切です。自分の意見をただ主張するだけの「わがまま」ではなく、周囲の状況も踏まえた上での「協調性のある意見」が言えるように育てていかなければいけないなと、最近の授業参観で実感した私です。
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言語・難聴教育の専門性?

2010-02-10 01:22:55 | 言語・難聴
 我々の「通級指導教育」、特に「言語・難聴」教育の分野は専門性の高さが必要です。その専門性は人から聞いて学ぶものというより、自分で探求して学び取るもの、といった方がぴったりのニュアンスでしょう。担当者にはそれが必要です。その道に詳しい人を知って紹介して「道をつなげる」ことも専門性の一つではありますが、全てを他の人に頼るというのでは単なる「コーディネーター」に過ぎません。
 私は「言語」の通級指導教室しか担当したことがありませんので、「難聴」のことについては詳しくありません。本来「同類」のような仕事なのですが、微妙に違いがあるように思います。それでも難聴の子どもを受け入れるたびに「難聴教室」の専門性に必要な部分を紐解いて、自分のものにしようと努力してきました。実際に担当者になればまだまだ専門性と呼べるほど詳しいものではないでしょう。でも、本来「こうあるべき」だろうという姿は知っているつもりです。一緒に集まって勉強会をしている人たちの中に聾学校の先生方がいらっしゃるわけですが、そういった方々のお話を伺うだけでも大変参考になります。
 しかし、この専門性に少しばかり危機的状況が訪れているように感じたのは先日です。今までも何年か前まで通級担当者を「学校運営のための駒」にしか思わない管理職からよく言われ続けたことですが、「学校教育なんだからSTや医師のように専門性が高くなくても教師として子どもとじっくりと関わってあげればいい」という考え方が広まりつつあるのです。この考え方は「言語・難聴」教育の根本を全く否定するものではないかと危惧しています。今から数年前まで、私よりも経験年数の長い通級担当者は、みんなが「言語・難聴」のスペシャリストばかりでした。私も分からないことがあればすぐに「先輩」に教えを請い、自分にとっての難問を解決してきたものです。専門性の高さが商売道具のような人たちばかりだったのです。あれから一人、また一人と定年退職・栄転を迎え、その専門性や言語・難聴指導の歴史を受け継いできた指導者が減ってきてしまいました。子どもたちの障害の様子も様変わりして、昔のようには進まなくなっている現状では、一部仕方がないのかもしれませんが、それでもまだ本来の専門性を手放し「教師として関わる」だけでは、通級指導教室で学ぶ意味などないのではないでしょうか?わざわざ時間を入れ替えたり、はたまた授業後の大切な時間を削ってまで通ってくる子どもたちです。担当者に「癒される」ことだけを目的に通級しているわけではないのです。「言語症状の改善」が「自立活動」という時間の中で行われることが前提の言語・難聴指導ですから、その指導に必要な専門性だけは身につけておかなければならないと思うのです。そのためにはSTや医師とまでは行かなくとも、それに類する知識を持つことは大切なことです。最近クローズアップされてきている「発達障害」の通級指導教室とは根本的に違うということを、担当者や管理職は理解する必要があると思います。その上で「発達障害」に関する専門性も高められれば言うこと無いですが、それこそ、「二兎を追う者は一兎をも得ず」の諺通り、一つの教育に邁進して、専門性を高めていきたいと思います。「餅は餅屋」と言われるように頑張ります。
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