世界の街角

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新春特集『遥かなる騎馬民族』連載開始にあたり

2022-01-09 08:00:57 | 日本文化の源流

江上波夫氏は騎馬民族が渡海し、倭地に王朝をたてたと以下のように述べておられる。東北アジア等の騎馬遊牧民族の国々、扶余、高句麗、百済の系統を引く王侯貴族が『任那(伽耶、加羅)』に遣って来た。この任那の都に辰王朝があり、そこから4世紀末ないし5世紀前半ごろに崇神天皇が騎馬民族軍団を率いて北部九州に遣って来た。そこで扶余、韓、倭連合の『日本国』をつくる。これが北部九州の筑紫の人々の勢力を加えて、応神天皇の時に東へ進み大阪平野へ進出して、ここで日本列島の統一をめざして国名を『倭国』とした。そして応神以降の倭の五王で征服を成し遂げ、雄略天皇の前後に大和朝廷が始まったとしている。

この江上説は、反論が多く考古学的に立証できないとされている。江上波夫氏は4世紀末ないし5世紀前半とされているが、崇神天皇は少し早く、4世紀頃であろうとされている。

しかしながら、江上波夫氏が述べる崇神天皇かどうかは別にして騎馬民族が遣って来なければ、騎馬に関する遺物が列島各地から出土するはずもなく、それらをみれば騎馬民族は遣って来たと考えざるを得ない。

それがどのような形であったであろうか。10代崇神天皇は、4世紀頃であろうとの見方が大方の見解である。次の11代垂仁天皇の時に天日槍(あめのひぼこ)が渡来したと日本書紀は記している。それは垂仁天皇3年3月条において、自ら新羅王子を名乗ったと云う。この天日槍集団を嚆矢として、波状的か散発的かは別にして、数次に及ぶ騎馬民族やその末裔が渡海してきたであろう。

それらの事どもをシリーズとして連載する予定である。尚、参考文献として

  • 江上波夫著『騎馬民族征服王朝』説
  • 『騎馬民族の道はるか』NHK出版
  • 当該ブロガー記載『騎馬民族は遣って来たのか、来なかったのか』シリーズ

・・・を用いている。

(スキタイ:戦士像・黄金の櫛 出典・『エルミタージュ美術館』岩波書店 1985)

甲冑を身に纏った騎馬戦士像が刻まれている。騎馬は「馬銜(はみ)」をつけてはいるが、この時代に鐙(あぶみ)は無かったようだ。騎馬民族の源流をたどれば、スキタイに行きつくであろう。

渡海してきた騎馬民族は、高句麗の影響が大きいことから、朝鮮半島基部がその本貫と思われる。

(高句麗の古都・集安博物館の騎馬人物像:出典・集安博物館HP)

騎馬人物の胴体は、身体動作がしやすい挂甲(けいこう)である。この挂甲も歩兵が身に着ける単甲と共に伝播したが、適当な写真がなかったので埴輪の挂甲人物像を掲げておく。

(出典・文化遺産オンライン)

将軍山古墳(埼玉県)から蛇行状鉄器が出土した。当初は使途不明であったが、騎馬軍団の旗指物を立てかけるものであることが、高句麗通溝12号墳の壁画からあきらかとなった。

(酒巻14号墳出土埴輪 出典・文化遺産オンライン)

それは、同じ埼玉県の酒巻14号墳出土の埴輪にも表現されていた。

(蛇行状鉄器 金海国立博物館にて)

伽耶でも蛇行状鉄器を見ることから、高句麗から南下し伽耶を経由し日本列島に至ったのである。

(出典・大成洞古墳展示館)

馬冑・馬甲や蒙古鉢形冑も高句麗から伽耶へと南下し、やがて日本へ渡海した。

(馬冑・和歌山大谷古墳出土 県HPより 合わせて馬甲の断片(小札)も出土しており、大成洞古墳展示館のように1セットであったことになる)

(奈良五条猫塚古墳出土蒙古鉢形冑・奈良国立博物館HPより)

6世紀になると、日本では武具で固めた騎馬人物や歩兵が一般的となる。それほどの影響をもたらしたのである。

(額田部臣軍団ジオラマ・県立古代出雲歴史博物館にて)

上述のようなことどもを、次回以降シリーズ連載の予定である。

<了>