世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

新春特集『遥かなり騎馬民族』(10)

2022-01-30 07:38:57 | 日本文化の源流

<続き>

〇継体天皇が分からない

26代・継体天皇(男大迹王・おほどおう)は越前から迎えられたと云う。

(継体天皇像・福井市足羽山 Wikipediaより)

『日本書紀』によれば、前の25代・武烈天皇が後嗣を残さず崩御したため、大伴金村・物部麁鹿火(あらかい・あらかひ)等の推戴をうけて即位したことになっているが、これは大いなる疑問である。当時の天皇は、皇后の他に妃が五、六人あり、多産であった。継体天皇自身も皇后である手白香皇女(たしらかのひめみこ)の他に8人の妃がおり、合計21人の皇子、皇女が存在していた。従って25代・武烈天皇の血筋が絶えたことはないのであろう。つまり『日本書紀』の創作である。それは、以下のことどもからも推測可能である。

つまり男大迹王が越前で大きな勢力を形成したであろうと思われる。あわせて本貫の地であろう朝鮮半島情勢に詳しく、その朝鮮半島と緊張関係にあったことから、諸豪族により擁立されたものであろう。男大迹王は450年頃に近江国高嶋郷三尾野で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛は、自分の故郷である越前国高向(たかむく)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。近江は渡来人の拠点の一つであり、史書に記載はないものの父の彦主人王は渡来人に繋がる可能性が捨てきれない。

この擁立された継体天皇の時代から、馬具が爆発的に増加している。それは九州から関東まで乗馬の風習が広がったことを意味している。

考古学的知見によれば、外国の使節と対面したときに被る朝鮮半島風の金銅製の冠は、日本海側の豪族が着冠した。

(福井県十善ノ森古墳出土金銅製冠 出典・福井県HP)

(福井県永平寺出土 金銅製冠 出典・文化財オンライン)

(上掲写真2葉の金銅製冠は藤ノ木古墳出土のそれよりも、70-80年前のものである。)

大和・藤ノ木古墳からも出土しているが、日本海側の出土に対し70-80年後のことである。藤ノ木古墳は、法隆寺の伝承では28代・崇峻天皇陵とされており、崇峻天皇は継体天皇の孫、つまり越前出自の系統の天皇である。金銅製冠を着冠するという使節との面会場面は、大和や河内よりも早く日本海側で出現するのは何故であろうか。この時期すでに大和に勝る勢力が越前に存在していたことを物語るのではあるまいか。

しかしながら継体天皇の大和入りは慎重であった。畿内に入るに際し、河内の樟葉(くすは)に入り、次に山城の筒城、三番目に山城の弟國(乙訓)に宮を置いた(最後は大和の磐余玉穂宮)。なぜ大和に入らず畿内各地を巡ったのか。

注目すべきは、三番目の弟國まで淀川水系の川沿いの地であること。騎馬民族・高句麗の古都・集安は鴨緑江、また新都平壌は大同江、百済の古都・漢城は漢江、次都・公州と最後の都。扶余は錦江、伽耶は洛東江という大河のほとりであり、それらと気脈を通じている。異民族や異なる王朝の侵略を受けた際の退路確保の目的があったものと思われる。継体天皇の大和入りに際して20年も要したのは、まとわりつかぬ武烈天皇の残存勢力を警戒したためと考えられる。

そのような苦労をしながら、天下の覇権を継体天皇は手に入れた。『日本書紀』は、継体天皇と始祖・神武天皇(神日本磐余彦・かむやまといわれひこ)とを重ねているふしがある。継体天皇が最後に都をおいたのは、神武天皇に繋がる磐余で、それは磐余玉穂宮であり、始祖・神武天皇と新王朝・継体天皇を重ねたもので、騎馬民族につながる継体天皇の格付けの創作と考えられる。つまり、江上波夫氏が述べる騎馬民族征服王朝説は形を変へ、騎馬民族の末裔で渡来騎馬民族の人々の支援を受けた越前の豪族・継体天皇の王朝創設譚であった

<続く>