<続き>
〇前方後円墳の築墳思想
積石塚の源流はシベリアとか蒙古であるが、シベリアでは墓槨が下の方にある。中国でも墓槨は地下である。上のほうにあるのは、雲坪里の積石塚や伽耶の墳墓と日本の古墳である。
弥生墳丘墓(墓槨は上部)が発展して前方後円墳が誕生したとするのが、一つの有力な説であるが、森浩一氏はこの説をとらない。弥生墳丘墓は土を盛った墓であり、呉越の土墩墓と共通性はあるが、葺石をもつ前方後円墳の築墳思想とは相いれないとする。
積石塚古墳のなかに前方後円形を確認(高松・石船塚古墳)し、しかも日本の前方後円墳の多くが、前の時代の墓制になかった葺石をもっていることから、高句麗の前方後円形積石塚の影響を考えざるを得ないであろうと森浩一氏は指摘する。
(最古級の部類に入る箸墓古墳)
<続く>
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