世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

東大阪市立郷土博物館(8・最終回)

2021-11-24 07:21:29 | 博物館・大阪府

<続き>

断続的に紹介してきたが今回で終了とする。最終回は古墳時代として紹介されていた遺物である。

馬が飼育され、首長や実力者は乗馬していたであろう。それらの人々は騎馬民族の末裔か? 下の顔面刺青の武者も騎乗していたであろうとの妄想も湧く。

以上で東大阪市立郷土博物館の展示物の紹介を終える。

<了>


晩秋の出雲路

2021-11-22 08:45:26 | 出雲国

過日、松江市宍道町の森林公園へ。公園にはオートキャンプ、ロッジ、グランキャビンが併設されている。予てよりグランキャビンを利用したいと考えており、その下見にでかけた。

場所は、小高い山の中腹で西に出雲平野、東に宍道湖が見渡せ、正面は出雲空港の滑走路が宍道湖に突き出している。見ると航空機の発着が斜め上方から見ることができる眺望地点であった。

グランキャビンの周辺は紅葉がそれなりであった。往路は『いずもロマン街道』なる山中の道を走ったので、復路は宍道湖に出て国道9号を西進。

すると田んぼに、オオハクチョウかコハクチョウか知らないが、白鳥が落ち穂をついばんでいる。いよいよ冬の到来を感じた一日であった。

<了>


古代日本のルーツ・長江文明の謎(その5)

2021-11-21 08:58:16 | 日本文化の源流

〇日本列島へ渡った「羽人」の痕跡

二二ギノミコトが笠沙に着いたとの安田教授の記述は、やや疑問に思うものの、以下の記述内容は同感である。

二二ギノミコトが笠沙に着いたという神話(ココ参照)からも伺い知ることができるが、その根本には高い航海技術があった。長江文明を担った人たちは、高度な航海の技術を持っていた。その証拠は日本列島で見つかっている。

鳥取県米子市淀江町の角田遺跡は弥生時代中期の遺跡であり、この遺跡から羽飾りをつけた人と船が描かれた土器が出土している。羽飾りをつけた人は羽人(うじん)と呼ばれていて、羽人は出雲大社のような巨大な木造建築に向かって船を漕いでいる。

(角田遺跡出土土器文様)

この羽人こそ、日本と長江文明をつなぐ存在である。羽人は、雲南省の滇王国の青銅器にも彫像されている。すでに述べたように、滇王国は長江文明の末裔である。長江の羽人は、東シナ海をわたって日本へやって来ていたのである。そのことを、淀江町の角田遺跡から発掘された土器は物語っている。

この羽人については、もう一つ話がある。羽人は中国の越の人であった。越と云うのは中国の長江下流域を指すが、その地名が日本に残っている。越前、越中、越後という北陸・新潟地方の「越」がそうである。長江下流の越人が日本列島に渡ろうとして対馬海流に乗ったとき、漂着しやすい場所は九州南部とともに、出雲・北陸・能登方面だった。そして日本にやって来た越人たちは、故郷の越の名を地名に残したのである。

(荒尾南遺跡出土線刻絵画土器 出典・岐阜県HP)

また、岐阜県荒尾南遺跡から発掘された土器は、弥生時代後期のものである。この土器には船が描かれているが、じつに大きなものである。オールが何本もあり、100人近い人たちが乗り込めると思われる。そんな巨大な船を作り出し、運航させる技術が、長江文明にあったことを物語っている。彼らは、そんな巨大な船で日本にやって来ていたのではあるまいか。”・・・以上である。

三国志の時代を遡る後漢の時代に、日本からの遣使は存在した。『後漢書・東夷伝』によれば、”建武中元二年(西暦57年)倭の奴国、貢を奉じ朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜ふに印綬を以てす(これが志賀島出土の『漢奴委國王』)。安帝永初元年(西暦107年)、倭の国王師升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。”・・・とある。

生口とは奴隷のこと。その160人であるが、どのように160人も渡海したのか? 当然ながら遣使とともに随行者もいたはず。総勢200人は下らないであろう。当時の大型船といえば準構造船でせいぜい40人程度の定員かと思われる。総勢200人ならば、準構造船で5-6隻となる。この5-6隻が一糸乱れず同一地点に着岸できるとは思えない。それこそ100名前後が乗船できる大型船が存在したであろうが、考古学的には証明できていない。古代史の不思議の一つである。

<不定期連載にて続く>

 


東大阪市立郷土博物館(6)

2021-11-18 08:08:54 | 博物館・大阪府

<続き>

今回は古墳時代から時代を遡り、約2万年前の旧石器時代から縄文時代の出土遺物を紹介する。

2万年前は、大陸や朝鮮半島との間は指呼の間であり、丸木舟程度でも往来可能であったかと思われる。旧石器時代の人々が縄文人の祖先であり、縄文人が今日の日本人の根幹であろうと考えている。

姶良火山とは、現在の鹿児島県である。2万2000年前の噴火で、遠く大阪平野まで火山灰が届いた。火山灰というより現物は火山礫に近い。このようなものが大阪平野に降り注ぐとは、想像がつかないが大噴火で、気温も大きく低下したことが考えられる。それでも旧石器時代人は生き延びた。

縄文時代に入ると文化とも呼ぶべき、生活の進化が始まる。土器の使用もその一つである。使途は、飲料水や食料の保管のみならず、それまで動物肉は火で炙ることしか方法がなかったが、煮炊きに用いられるようになり、食事のバリエーションが増加した。また死者を土器の棺に納める風習も始まった。

<続く>