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出雲と古代朝鮮(壱)・須佐之男命考其之壱

2021-01-28 08:16:05 | 古代出雲

いつの間にか検索回数100万回に達した。尻切れトンボの多い我ながらよく続いたものだ。

大上段に構えたタイトルかつ中味の薄い内容で恐縮である。記紀によれば、素戔嗚命は高天原追放後、御子神の五十猛命と共に新羅の蘇尸茂利(そしもり)に天降った。しかし『此の地は吾居らまく欲せじ』として、出雲の簸の川上にある鳥上の峯に到ったとある。鳥上の峯(鳥髪山・船通山)は出雲国風土記の仁多郡条に登場するが、仁多郡の各郷は鐵の産地であった。その仁多郡の伊賀多気(いがたけ)神社の祭神は五十猛命である。素戔嗚命の鳥上の峯の伝承は、渡来人を指導者とする製鐵集団のことで、その奉祀する社が伊賀多気神社であったと推測する歴史家が存在する。

(鳥髪山:地元では船通山と呼ぶ)

一方で水野祐氏は『古代の出雲(昭和47年刊)』の中で、「須佐哀命は、新羅系帰化人の斎き祀った神である」と断定しておられる。そしてこの一団の人々が斐伊川(これは神門川の誤りであろう)を遡って西出雲の奥地(須佐郷)に入ったのは、島根半島部や東出雲がすでに海人部族によって支配されていて、入り込む余地がなかったと記され、その一団はいわゆる「韓鍛冶(からかぬち)」であって、砂鉄を求めていたためであろうと推測しておられる。

(須佐神社本殿・祭神 須佐之男命)

須佐之男命は方や奥出雲(東出雲か西出雲かと問われれば鳥髪山も仁多郡も東出雲に入る)へ製鐵集団と共に渡来したとする見方。方や西出雲の須佐に渡来した見方が存在するが、須佐之男命は渡来の韓鍛冶集団の長と云うことになる。つまり、須佐之男命は新羅族か扶余族か別にして朝鮮半島渡来の人であったことになる。果たしてどうであろうか。

<続く>


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