以下、大著である『日本民俗文化体系3』掲載の一文である。”カレン族(カレン族は多くの支族があるが、カレン・〇〇族とは記載されていない)は、雨期のはじまるころ種播きのために焼畑をおこなうにあたり、集落と焼畑予定地に通じる道端に、木の小枝と草の茎で、人の背丈よりやや低く、間口と奥行きが40cmほどでハシゴのつく高床式の切妻造りの祭壇(祠であろうが原文通り祭壇としておく)を作り、ニワトリを捧げその血を祭壇の林に塗り、その羽根を抜いて祭壇の床に敷き、つぎには犠牲になったニワトリの体の約半分を祭壇脇の棒柱にのせて神(稲魂・クワンであろう)に供え、のこりの骨付き肉は参加者がみんなで食べる。この様子は、焼畑農耕とニワトリが強く結びついていることがわかる。”・・・と記されている。
今日、北タイの焼畑は煙害(Heiz)の原因として禁じられており、存在しないと思われるが、当該ブロガーが1995年にドイ・メーサロンを訪れた時は見ることができた。
カレン族のそれと似たような予祝儀礼が、我が国の弥生時代にも存在していたであろうと推測している。
佐藤洋一郎氏は『稲のきた道』で以下のように記されている。”日本に最初に渡来したのは、焼畑栽培と熱帯ジャポニカの系統のセットで、それは柳田国男の「海上の道」を伝わって来たのであろうと想像される。それは中國から温帯ジャポニカと水田稲作が渡来するまでの間、西日本の照葉樹林帯に焼畑の陸稲として栽培されていたのであろう。”・・・とある。水稲が先か陸稲が先かとの議論があるとは考えるが、高度な耕作技術を伴わない焼畑・陸稲が先だと考えている。
先に記したカレン族の予祝儀礼は焼畑の陸稲であった。大和の唐子鍵周辺で始まった稲作は水稲であろうと考えるが、カレン族と似たような予祝儀礼が存在したであろうことを想像させる弥生期の土製品が出土している。何故か鶏頭部の土製品(鶏全体ではなく頭部のみ)である。
(唐古鍵遺跡出土鶏頭部土製品 於・唐古鍵ミュージアム)
これが、カレン族と同一のシチュエーションで用いられたとは思われないが、苗代や水田の取水口などに投じる稲作儀礼に用いられたであろうと想像する。
折口信夫氏は、以下のように述べておられる。『播磨国風土記』讃容(佐用)郡条に”イモタマツヒメが鹿をとり伏せて、腹を割き、その血に稲籾を撒いたところ、一夜の間に苗が生えたので、これをとって田植えをした。鹿の血は、土地の精霊の血の意味をもち、土地を母体にして生育する稲を元気つける霊力をもっていると考えられる。”
鹿や家禽の血を苗代田に撒くという習俗儀礼は、弥生時代までさかのぼると春成秀爾氏は指摘している。
やや長文であったが、カレン族と弥生期の倭人に似たような、稲作予祝儀礼が存在したであろうことを記してきた。中国深南部や東南アジア北部の少数民族と倭族は”皆兄弟”であったであろう。
<了>