<先週火曜日の続き>
ー日本古代の道教ーとして週一のシリーズで先週から掲載している。その2回目は、『加茂岩倉・神庭荒神谷遺跡の謎解き』とのテーマで掲載する。
尚、先週の『卑弥呼の鬼道とは』(ココ参照)とのテーマで掲載したので参考に願いたい。
過日、松本司氏の『古代遺跡・謎解きの旅(小学館)』なる1999年刊行の少し古い書籍を読んだ。それは陰陽道(おんみょうどう)の陰陽五行説(風水)で、遺跡の謎解きをしょうとする書籍である。
そこに加茂岩倉と神庭荒神谷の謎解きに風水を活用した解説がなされている。主要点を抜粋し、その概要を下述する。
“加茂岩倉遺跡に入る谷の入口に『金の鶏伝承の大岩』なる看板がある。『岩の下には、金の鶏がいて大晦日の夜に鳴く、それを聞いた人には良いことがあるが、聞いたことを人に言ってはいけない』。『鶏が鳴く』とは『吾妻』にかかる枕詞。『鶏が鳴く吾妻』とは『太陽が昇ってくる東国』ということ。金の鶏とは、光の矢を羽のように左右に広げて、山の端に昇る太陽のことであろう。
(写真赤枠内に記載されている)
加茂岩倉の大岩の下にいる金の鶏は、大晦日の夜鳴くという。これは『聞く銅鐸』のことではないか。大晦日は、現代では12月31日の夜であるが、古代では冬至の可能性が高い。
銅鐸は日頃は大岩、つまり岩倉(磐座)に安置されているであろう。村人は冬至の前夜、銅鐸を取り出して、丘の頂に冠木門(かぶらきもん)状に立てた柱に銅鐸を吊り下げる。そして祈りを捧げ鳴らしたのではないか。やがて夜が明け、東の山の端から一直線に伸びた光の矢があたって、銅鐸は輝く。冠木門状の柱は神の入場門であり、太陽鳥の入る鳥居であろう。そして太陽鳥の退出門にあたるのが神庭荒神谷遺跡で、岩倉と神庭の両遺跡を結ぶラインは冬至の日の出方位になる。
(冠木門・広島縮景園)
加茂岩倉、神庭荒神谷は単に冬至の方位軸上にあるだけでなく、大黒山と高瀬山の龍脈が里に下りる直前の谷を挟んだ門のような形勢の地であることに意味がある。“・・・以上である。
これらの位置関係をグーグルアースに落とし込んでみた。御覧願いたい。たしかに両遺跡は冬至の日の出ライン上に位置している。
なるほど松本司氏が叙述されているように、荒神谷遺跡は大黒山と高瀬山の尾根が下って交点に存在していることがわかる。これを龍脈とすれば、交点には絶大な霊力が存在するであろう。その反対側の加茂岩倉遺跡も、大黒山と高瀬山の龍脈が降りる交点の谷と記述されているが、谷は谷でも必ずしも双方の山の尾根が下った地勢ではない。しかし、地勢を見ると荒神谷から見て大黒山と高瀬山は、ほぼ同じ距離であり、加茂岩倉もほぼ同じ距離にあることがわかる。これを陰陽道というか風水で地勢を読んだ結果なのか、たまたまの一致なのか。
松本氏は大黒山も高瀬山も神体山とする。確かに出雲国風土記では大黒山は宇夜都弁命(うやつべのみこと)が天降った山とされ、現在は頂上に兵主神社が鎮座しており、神体山との説にうなずけるが、高瀬山にその形跡はない。
松本氏は、冬至の日の出位置にあたる加茂岩倉の地点を朱雀、反対の神庭荒神谷を玄武、大黒山を青龍、高瀬山を白虎にあてておられる。冬至の日の出の方位は、真東の30°ほど南であり、方角としては東南東である。この方角を南の朱雀とするには、少し無理筋のように思えなくもない。
陰陽道では、陰陽が交差する時、陰陽が交差する場で霊力が生まれるとの思想が基本である。交差する時の代表例が、昼と夜が交差する黄昏時や夜明け、そして冬至と夏至である。交差する場の代表例は、道が十字に交差する辻、川の流れと道が十字に交差する橋と云われている。当該ブロガーは前述のように、やや無理筋と考えるが、松本氏によると神庭荒神谷と加茂岩倉は、その事例にあてはまるとする。してみれば、神庭荒神谷と加茂岩倉に青銅器が埋納された、弥生時代後期に風水的視点は存在していたことになる。
松本氏の指摘にあるように、神庭荒神谷と加茂岩倉の関係は、冬至の方位軸上にあるだけでなく、大黒山と高瀬山の尾根が下った谷筋の出口の地勢である。そこに霊力や運気が存在するのかどうかわからないが、そうであったとすれば、銅剣や銅鐸を埋納した出雲族は、冬至の太陽に照らされ、蘇りを期して埋納したのであろう。
以下、時代観ないまぜの話しである。『出雲国風土記』大原郡神原郷(かんばらのさと)条に次のように記載されている。「古老が伝えて言うには、天下造大神(あめのしたつくらししおおかみ:大国主命)が、神御財(かみのみたから)を積み置かれたところである。それで神財郷(かみたからのさと)というべきだが、今の人はただ誤って神原郷と言っているだけである。」と、このように記載されている。神原郷は、出雲国風土記によれば、郡家の真北九里の所にあると記す。そこには神原神社古墳が在り、景初三年銘の三角縁神獣鏡が出土している。
(神原神社古墳)
(景初三年銘三角縁神獣鏡)
出雲国風土記は神御財を積み置くと記す。三角縁神獣鏡は神御財に他ならないが、積み置くとあるからには複数の宝物があったであろうと思われる。出雲国風土記の時代、加茂岩倉遺跡の場所を屋代郷と呼んでいた。そこは郡家の真北十里百十六歩の所と、出雲国風土記は記す。神原郷は郡家の真北九里、片や加茂岩倉の屋代郷は郡家の真北十里百十六歩で、お隣さんである。『出雲国風土記』は嘘を記述しなかった。神原郷やその近隣は、お宝が眠る地であったと認識されていた証左であろうか。
松本氏の説を紹介してきた。『出雲国風土記』記載の神御財との関連を含め、これらの事柄(説)は、多方面からのブラシュアップが求められる。
<次週火曜日に続く>
表題の鏡が作られたのはヤマト王権によるフェイクだと考えています。纏向をヤマト(邪馬台国)と呼んだのと同じ理由ですから、呉が西晋に滅ぼされた280年以降だと考えています。大国主と台与の子ホムダワケ(オオタタネコ)がヤマトの祭祀王として呼ばれた時期です。倭国を滅ぼした狗奴国が西晋に追討されるのを恐れたためだと推理しています(^_-)-☆