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騎馬民族は遣って来たのか、来なかったのか(4)

2019-08-27 07:33:27 | 古代と中世

<続き>

ユーラシア・スキタイの文化・文物が新羅に影響を与えたであろうことについて司馬遼太郎氏は、その著作(注①)で次のように記されている。『韓国の古代文化が、出土した帯鉤の模様などで察しするに、中国には似ず、むしろ紀元前カスピ海北岸の草原でひらかれたスキタイ(イラン系?騎馬民族の最初のひとびと)の文化に共通しているように見える。いわゆるシルクロードという絹商いの隊商が通った道よりもずっと北の道が、ユーラシア大陸をむすぶ騎馬民族の道とも云える往来路だった。その往来路は当然、中国文明を内側に区切っている長城のそとにあり、そこに往来する文明は、中国の影響をあまりうけずに済む。その東方のゆきどまりの一つが、中国東北地方の遼寧省であることは、出土する文物によって察せられる。文物には、スキタイの香りがする。その遼寧文化がさらに南下して、朝鮮の古代文化に影響したのではないか。』

この見方は妥当であろう。古新羅の遺跡から出土する中国系文物は少ない。同じ時期、百済で盛んに中国製品を使っていた状況とは異なっている。百済地域では100点以上の中国製陶磁器が確認されているのに対し、古新羅の遺跡では皇南大塚から出土した褐色釉瓶の1点が挙げられる程度だという。このことは、新羅に流入したユーラシアの文物は、中国を介したものでないことは明らかである(注②)。北方あるいは西方騎馬民族が直接ないしは遼東を介して遣って来たと考えるのに、大きな違和感はない。

そこで、スキタイ、新羅と古墳時代の倭の文物を比較検討してみたい。尚、一部の文物の新羅と倭の比較は既に行ってきた。今回はそれ以外の文物にスポットをあててみたい。

先ず、古新羅の騎馬民である。写真は慶州国立博物館所蔵の騎馬人物土器で、北九市立いのちのたび博物館展示のレプリカである。

(尻尾の上のカップが水の注ぎ口で馬の口先の下を左に伸びている箇所が注ぎ口である)

これを注視すると、我が国の馬の埴輪で表現されている、馬具一式と騎馬人物の鎧・兜を見ることができ、武人埴輪の如きである。このような騎馬民族が列島に渡海して来たものと思われる。

前置が長くなったが、ユーラシア・スキタイと新羅、古墳時代の倭の文物を比較する。スキタイは黄金趣味だと述べた。その黄金の文物を比較することから始めたい。

下の写真は慶州鶏林路14号墳出土の5-6世紀の装飾宝剣で、同じような宝剣は、カザフスタンのボロウオエ湖付近から出土している。この慶州の宝剣はスキタイからもたらされたものと思われる。

(慶州国立博物館HPより転載:尚、スキタイの宝剣は適当で転載可能な画像なく省略)

黄金や金銅の文物として、先に王冠や冠について取り上げたので、ここでは省略する。日本の古墳で出土する威信剤としての耳環は新羅の影響を受けたものであろう。

 (慶州普門洞合葬墓出土 6世紀 韓国・国立中央博物館)

 (耳飾り 6世紀 金海国立博物館)

慶州と金海(伽耶国)の耳飾りは、垂飾りも含めてよく似ているが、耳環の装飾はなくなり、肌そのものの無装飾である。これが日本へ至ると、垂飾付の耳環は少なくなり、多くが金環だけとなる。

 (姫路市宮山古墳出土耳飾り 姫路市埋蔵文化財センターHPより転載)

 

(奈良県橿原市新沢千塚126号墳 東京国博展示・ウキペディアより) 

 (兵庫県立考古博物館展示)

 (みよし風土記の丘ミュージアム展示)

これら一連の耳飾り・金環をどのように捉えるのか? 新羅から当時の倭国で倭国仕様に変化したとして、大きな齟齬はないであろう。

ガラス容器について考えたい。正倉院御物は8世紀のことで、時代はやや下っていいるが、その円形切子杯はペルシャから、多分新羅経由で持ち込まれたものである。中国にはこの種のガラス容器は出土していないので、長城のはるか北のステップ・ルートで持ち込まれたものと思われる。

写真は5-6世紀の慶州・天馬塚古墳出土の型吹亀甲文紺色杯である。隣の皇南大塚出土のガラス容器を蛍光x線分析したところ、成分組成は中央アジア由来のガラスである可能性をしめしたという。正倉院御物同様にユーラシアの地から渡来したものであろう。

今回は黄金・金銅遺物をガラス容器について見てきた。次回はそれ以外の遺物を概観する。

<続く>

 


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