世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

騎馬民族は遣って来たのか、来なかったのか(3)

2019-08-26 08:12:23 | 古代と中世

<続き>

江上波夫氏は、前期古墳から後期古墳への変化が、「急転的、突発的」に発生したのは、騎馬民族が渡来した仕業だとする。これに対し多くの考古学者は、5世紀の100年間で徐々に変化したとしている。佐原真氏などは、朝鮮半島南部に騎馬民族が侵入した可能性があっても、北部九州に渡来したとする物的・考古学的証拠が挙げられず、馬が兵器として優位性を持っていたかどうか疑問であるとする。馬が力を発揮するためには牧草地と大草原が不可欠で、列島の森林や山から海への距離が短い日本では無理であろうとの反論である。

この反論も誇張があったり、無理な見解もありそうだ。馬を飼うのに大草原が必要なのか・・・と思われ、各地で出土する馬具付きの馬の埴輪をどのように考えれば良いのであろうか(尚、写真は2箇所の出土品を掲載した)。

      (松江市・平所遺跡 6世紀前半)

(広島県三次市・緑岩遺跡 6世紀)

江上波夫氏が述べる崇神天皇かどうかは別にして騎馬民族が遣って来なければ、騎馬に関する遺物が列島各地から出土するはずもなく、出土する現実をみれば騎馬民族は遣って来たと考えざるを得ない。

それがどのような形であっったであろうか。10代崇神天皇は、4世紀頃であったろうとの見方が大方の見解である。次の11代垂仁天皇の時に天日槍(あめのひぼこ)渡来したと日本書紀は記している。それは垂仁天皇3年3月条において、自ら新羅王子を名乗ったと云う。

 (古墳時代に至ると準構造船は随分大型となる。天日槍はこの準構造船に馬と一団の渡来人を載せて渡海したであろうとの想いが浮かぶ)

ここで天日槍とは和風名称である。それは「都怒我阿羅斯等:ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(日の御子の名)」の日本名で、両者は同一人物との説もある。天日槍は渡来するにあたり、次の7物を持参し但馬国に納めて神宝にしたと日本書紀は記している。

それは・・・

〇羽太の玉(はふとのたま)         1箇

〇足高の玉(あしたかのたま)        1箇

〇鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇

〇出石の小刀(いずしのかたな)       1口  

〇出石の鉾(いずしのほこ)         1枝

〇日鏡(ひのかがみ)            1面

〇熊の神籬(くまのひもろぎ)        1具

(ちょいと横道:赤石の玉とは赤い色をしていたであろう、天日槍伝承のパネルには彼の妻は、一人の女性の陰部に日の光があたり赤い玉となった。それが天日槍のもとで美しい女性となり妻になったという。つまり赤石の玉とは太陽を表していることになり、日輪の王に相応しい持ち物である。)

・・・と云う。これは天孫降臨の際に天照大神が瓊瓊杵尊(ににごのみこと)に授けたとされる三種の神器と同じような印象を受ける。三種の神器とは・・・

〇八咫鏡(やたのかがみ)

〇八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

〇天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

・・・である。先の7物と比較すると、鏡・玉・剣の3つは同じであるが、熊の神籬とは何ぞや。

熊は「甘」の意とも、「隠」の意味とも云われるが不祥。神籬は神が降臨する場所として特別に祀るための壇。天日槍が日本にもたらした神を祀る具で厨子のように神体が外に見えないように覆い囲むものという。

う~ん。7物も三種の神器も弥生の墳丘墓や古墳からセットで出土している。何やら5世紀の古墳時代に半島各地から列島各地に五月雨の如く、渡海してきたのであろうか。

朝鮮半島と日本列島の古墳の類似性や出土物について比較検討してきた。その朝鮮半島、特に新羅の文化・文物はユーラシアなかでもスキタイの匂いがする。渡海して来た天日槍は新羅王子だったという。次回はスキタイ、新羅、列島の文物を検証し空想を想い描きたいと考えている。

 

<続く>

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿