昨年末の30日、思い付きで竹原へ行ってきた。予てより一度は行ってみたいと考えていたが、孫が泊りに来て時間もあったので、行ってみようと決まった。幕末ころの古い家並がつづいている。格子窓には花が活けてある。なるほど雰囲気は小京都か。
その格子窓の住居から100mほどであったろうか、竹鶴酒造が見えてきた。塩田業のかたわら享保18年(1733)に酒造業を始めたという。ニッカの竹鶴政孝の生家である。
その生家から300mも離れているであろうか、広場で2人(竹鶴政孝とリタ)の銅像を見ることができた。
竹鶴酒造の斜向かいが、松坂邸と呼ぶ豪商の住居で塩田経営、廻船業、醸造業と多角化経営であったとのことである。
儒学者と呼べばよいのであろうか、多彩多芸の頼山陽の父・春水は、当地の豪商の生まれで、その父が大阪遊学中に頼山陽は生まれた。下の「春風館」は塩田経営していた頼山陽の叔父・頼春風の住居で元明元年(1781)の建築。
その隣は、頼春風の養子である小園が建てた住居で「復古館」と呼ぶ、その三男が分家として独立したとのこと。その三男家は幕末から明治にかけて酒造業を営んだと云う。下の光本邸・今井政之陶芸の館は、「復古館」の離れであったという。
時は12月30日の年末で閉館しており、見学はできなかった。今井政之の陶磁が約30点展示されているという。代わりに当該ブロガーのコレクションを紹介しておく。
箱書きには象嵌彩柘榴文とあり、サイズは20cmほどの中皿である。収縮率の異なる胎土と彩土の象嵌を見事に焼き上げる技術は相当なものであろう。
その格子窓の住居から100mほどであったろうか、竹鶴酒造が見えてきた。塩田業のかたわら享保18年(1733)に酒造業を始めたという。ニッカの竹鶴政孝の生家である。
その生家から300mも離れているであろうか、広場で2人(竹鶴政孝とリタ)の銅像を見ることができた。
竹鶴酒造の斜向かいが、松坂邸と呼ぶ豪商の住居で塩田経営、廻船業、醸造業と多角化経営であったとのことである。
儒学者と呼べばよいのであろうか、多彩多芸の頼山陽の父・春水は、当地の豪商の生まれで、その父が大阪遊学中に頼山陽は生まれた。下の「春風館」は塩田経営していた頼山陽の叔父・頼春風の住居で元明元年(1781)の建築。
その隣は、頼春風の養子である小園が建てた住居で「復古館」と呼ぶ、その三男が分家として独立したとのこと。その三男家は幕末から明治にかけて酒造業を営んだと云う。下の光本邸・今井政之陶芸の館は、「復古館」の離れであったという。
時は12月30日の年末で閉館しており、見学はできなかった。今井政之の陶磁が約30点展示されているという。代わりに当該ブロガーのコレクションを紹介しておく。
箱書きには象嵌彩柘榴文とあり、サイズは20cmほどの中皿である。収縮率の異なる胎土と彩土の象嵌を見事に焼き上げる技術は相当なものであろう。
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