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北タイ陶磁の源流考・#5<インドシナの治乱攻防と窯業・#1>

2017-01-08 08:45:26 | 北タイ陶磁
<続き>

1.6世紀頃のインドシナ諸国

以下、ウキペディアを参考に6世紀頃から中世までのインドシナ地域の治乱攻防と、窯業の発生について概観してみたい。
 (ウキペディアより)

「北属期・前李朝」・・・キン(ベト)族
北ベトナムの北属期とは漢から唐までの隷属期を云うが、6世紀は隋に属していた。約3世紀後の9世紀の呉朝ないしは、丁(ディン)朝の頃にドゥオンサー窯が操業を始めたとされる。

「CHAMPA・林邑国」・・・チャム族
西暦192年、漢の最南端、日南郡象林県(北中部、現フエ付近)で功曹という官吏であった区連という者が叛乱を起こし、林邑国(チャンパ王国)を建てた。日南郡を滅ぼした林邑国は、中国南朝に朝貢を繰り返し当初は中国文化の影響を受けていたが、間もなくベトナム南部からカンボジアに掛けて存在した交易国家扶南の影響を受け、ヒンズー文明を受容した。

「扶南国」
1-7世紀にかけて、メコン下流域に栄えたヒンズー教、仏教(但し5世紀以降)を奉じた古代国家。
扶南を建国した民族は、クメール系かオーストロネシア系か、はっきりしていないが、当時属国としていた真臘は、クメール族の国であった。

「真臘」・・・クメール族
扶南の属国であったが628年、イシャーナヴァルマン1世が扶南を占領した。クメール族国家。
6世紀より3世紀後のインドラバルマン1世(877-889年)頃、施釉陶(小瓶や盒子)と施釉瓦がロリュオス遺跡で出現したとされている。

「ドヴァーラバティー王国」・・・モン族
6-11世紀頃まで存在したと云われているモン族国家。ナコンパトムを中心とした、チャオプラヤー川沿いのモン族国家の連合体。
メコン川支流のチー川、ムーン川流域にもモン族による環濠集落や製塩、製鉄遺跡がみられるので、タイの東北部(イサーン)にまで勢力が及んでいたと思われる。
上座部仏教が信仰され、ドヴァーラバティー時代の建物の煉瓦は、ミャンマーのピュー王国(3世紀?-10世紀)時代の煉瓦と規格が似ているという。
モンはビルマ語で「タライン(Talaing)」と呼ばれるが、これはビルマ人がモン人を、インドのコロマンデル海岸のタランガ(Talanga)から渡来した民族と考えたことに由来する。それはともかく操船技術にたけたモン族は、古くから印度、スリランカと密接な交易関係をもっていた

「ピュー王国」・・・ピュー族
版図を示す地図には「SRI KSETRA」、つまりシュリークシェートラと記されている。それはピュー王国(漢字表記・驃)を構成する最古の城郭都市と云われている。
ピュー族は、1-2世紀頃に南インドから下ビルマに、移住したであろうと考えられている。ピューは「隋書」に「朱江」と記され、真臘(クメール)と交流があったと、伝えられている。
「新唐書」は驃について、その東に真臘、北は南詔と隣接していたこと、王城の周囲が160里あり、煉瓦造りの濠で囲まれ、12の城門があること、百を超える寺院があり、屋根が輝く甍で葺かれている等と記している。
さらに中国側史書によれば、王国の城壁が焼物で装飾されている・・・とのことである。従って8-9世紀には施釉陶が存在していた可能性がある

「シュリービジャヤ王国」・・・マレー系
6世紀に遅れる7世紀に、マラッカ海峡を支配して、東西交易で重要な位置をしめた交易国家。
本拠はスマトラ島であるが、マレー半島でドヴァーラバティー王国と接しており、相互に影響を与えあった。従ってモン族の領域にシュリービジャヤ文化の影響を見ることができる。
(ウキペディアより)

6世紀頃のインドシナ諸国をみてきた。中世タイ族が南下・西南下する以前はクメール、モン族等々が先住民で、彼らの世界を築いていたことになる。モン族はマレー半島の東岸と西岸を制し、東西交易をになって繫栄していた。それに接するシュリービジャヤ王国もまた、東西交易にて繫栄していた。6世紀頃の版図を示すウィキペディアの図を用いて説明してきたが、奇しくも9世紀頃には3箇所で、ほぼ同時に施釉陶の生産が開始されたかと思われる。それは北ベトナムのドゥオンサー窯とクメールの施釉陶、ミャンマー・ピュー王国の施釉陶である。先進の技術は伝染病のように伝播するのであろうか?




                                 <続く>


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