世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

東国の雄・上毛野(かみつけの)氏

2022-04-13 07:08:34 | 古代日本

前回は『半跏思惟像と合掌埴輪』とのテーマで記事を紹介した。ややこじつけながら、半跏思惟像と合掌埴輪は関連があるだろうとした。それは合掌埴輪が出土した上毛野は、ヤマト王権との繫がりが強かったであろうと想定したことによる。

今回は、それを補強する記事を掲載したいと考えている。4世紀初頭に浅間山(せんげんやま)古墳(高崎市)なる全長172mの前方後円墳が築造された。その後、群馬の領域の首長に共立されたと思われる、太田天神山古墳という210mの大きな古墳が築造され、それが400年の古墳時代を通じて東日本の最大古墳となる。

太田天神山古墳は、ヤマト王権を支えた地方豪族の墳墓であると考えられる。理由は出土した石棺が、畿内で大王や大豪族しか用いなかった長持型石棺であり、吉備の造山古墳の被葬者同様に地方の王であったと考えられる。

『日本書紀』「崇神天皇48年4月条」に、「豊城命を以て東を治めしむ。是上毛野君、下毛野君の始祖なり」とある。つまり毛野君の始祖が、第10代崇神天皇の長男・豊城入彦命だという。また「神功皇后49年3月条」には、上毛野命の祖の荒田別が、新羅との戦争に将軍として派遣された。その翌50年春2月、荒田別らが還ったと記されている。また上毛野君の竹葉瀬(たかはせ)の弟である田道(たじ)が、新羅戦から四邑の捕虜を連れ帰ったと、仁徳天皇53年夏5月条は記している。

上毛野と呼ばれるようになるのは、5世紀中頃と云われており、その当時の古墳が保渡田(ほとだ)古墳群の八幡塚古墳である。

更に『日本書紀』「天武天皇10年3月条」によると、上毛野君三千(みちぢ)が臣下の筆頭として、日本書紀の編纂事業に参画している。つまり雄略天皇の獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)等々の115文字に及ぶ稲荷山鉄剣の銘文が示す時代から、天武天皇の日本書紀編纂の時代に至るまで、ヤマト王権を支える最有力者一族が支配する地域で、観音山古墳出土の合掌埴輪は、仏像との繫がりを感じ取ることが可能であり、新羅との関係も浅からぬものがあり、新羅から渡来の埴輪師の手によるものと考えている。

(綿貫観音山古墳出土の合掌埴輪)

前回、多少強引な論旨展開したが、今回はその信憑性を補強するかと思える傍証を記載した。

<了>



最新の画像もっと見る

コメントを投稿