長門や筑紫・豊前の著名な神社には、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇のほか、今回話題にする武内宿禰がやたら登場する。著名な数社を下に掲げるが、他に宮地嶽神社や住吉神社等も鎮座する。
長門国二之宮・忌宮(いのみや)神社
宇佐八幡宮
宇美八幡宮
香椎宮
先ず数方庭(すほてい)から触れたい。長門國二之宮に忌宮神社が在る。忌宮神社は、仲哀天皇・神功皇后が西国平定の折、豊浦宮を建て7年間滞在したと云われている。
そこでは毎年8月に数方庭祭が開催されている。
数方庭祭
忌宮神社のHPは以下の如く記している。『豊浦宮に新羅の塵輪(じんりん・塵倫とも記す)が熊蘇(くまそ)を煽動して攻め寄せ皇軍も奮戦したが、宮門は破られ武将が相次いで討ち死にしていくさまをご覧になった仲哀天皇は大いに憤らせ給い、御自ら弓矢を執って見事に塵輪を射倒された。これを見た賊どもは色を失って退散した。皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振って塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭の起こりと伝えられている。塵輪の首を切ってその場に埋め、上に石をおいたが塵輪の顔が鬼に似ていたところから、これを「鬼石」と呼んだ。』・・・以上である。
石見神楽・塵輪 手前が仲哀天皇役
石見神楽・塵輪 左が塵輪 右が仲哀天皇
此の塵輪については、我が島根県西部の石見神楽の主要な演目の一つである。登場人物は帯中津日子(たらしなかつひこ)後の14代・仲哀天皇、安倍高麻呂(たかまろ)、塵輪(じんりん)として白鬼・赤鬼が舞台に立つ。 帯中津日子が、異国より日本に攻め来る数万騎の軍勢を迎え撃つ。その中に塵輪という、身に翼があり、黒雲に乗って飛びまわり人々を害する悪鬼がいると聞き、天鹿児弓(あまのかごゆみ)、天羽々矢(あまのはばや)を持って高麻呂を従え討伐に向かい、激戦の末に退治する・・・との筋書きである。
新羅から軍勢が当時の倭国に押し寄せたとの故事を、忌宮神社の数方庭と石見神楽の『塵輪』で紹介したが、新羅の倭国に対する入寇は8世紀に新羅の海賊が押し掛けた形跡は存在するが、国としての新羅が熊襲を扇動して押し掛けた史実は見当たらず、架空話しの伝承である。
ここで仲哀天皇の熊襲退治について記す。仲哀天皇は筑紫の香椎宮に熊曾国を征伐する目的で遣って来た。時に仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰(古事記は建内宿禰、日本書紀は武内宿禰と表記、ここでは武内宿禰と記す)は談合する。そこで仲哀天皇は熊襲を討つと、神功皇后は、あんなところは『膂宍の空国(そししのむなくに)ぞ』と云ったと記されている。つまり、背中の骨のまわりの肉もないような荒れ果てた不毛の地であると、そのようなところを攻めてもしようがないと反対する。続けて日本書紀が記すのは、神々の神託として神功皇后は、『處女(おとめ)のまよひきの如くにして、津に向かへる国有り、眼炎(めかがや)く金・銀・彩色、多(さわ)に其の国に在り、是を栲衾新羅国(たくぶすましらきのくに)と謂う』とある。つまり、神功皇后が神の御託宣として宣ったのは、『西の方に財宝に満ちた国(新羅)をお前のものにしてあげよう』・・・と、ところが天皇はこの神託を疑って『嘘つき』と神を罵った。そこで神は激怒して『死ね』と宣告したと記す。武内宿禰は天皇に、神をなだめるよう琴を弾くことを勧めたが、琴の音は絶え亡くなっていた。
香椎宮
これは、皇后と武内宿禰に殺されたのである。それにしても、皇后と宿禰は何故新羅に行きたい事情があったのか。謎と云えば、宿禰である。武内宿禰は、12代・景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、16代・仁徳天皇の5代の天皇に仕え、その寿命は330年とも云われている。この事は当然ながら史実では無く、架空の噺であるが、それにしてもなぜに5代の天皇に仕えたのか、作り話としても謎である。ここで、中間のまとめとして、ここまでの謎を抽出しておく。
武内宿禰:出典・Wikipedia
1.神功皇后と武内宿禰は、何故新羅に行きたいのか
2.武内宿禰は330歳の長寿で、何故5代もの天皇に仕えたのか、だれでも分かるウソをなぜ記したのか
とりあえず、謎の抽出だけで先に進む。
『神』とつく名で呼ばれるのは、神武・崇神・応神の三天皇と神功皇后である。三人の天皇に共通するのは、新しい王朝の始祖と考えられることによる。そこで神功皇后も三天皇にならい始祖であると考えたい。応神天皇が仲哀天皇の息子でないとすれば誰の子か。
武内宿禰と考えるのが一般的だが、本当の父親の名は、史書から抹殺されているであろう。天皇家は万世一系であらねばならず、応神は仲哀の息子でなければならない。
『三王朝交替説』を唱えた水野祐氏は、仲哀と応神は、それぞれ別の王朝の王だと考えている。二人の王が争い、応神が勝ち仲哀王朝を滅ぼしたとする。
しかし万世一系を維持するには、仲哀の妻(神功皇后)を応神の母にしなければならない。応神(応神実在説が有望)を生んだ女性は存在するが、それは架空の女性であったとするのが水野氏の神功皇后論である。
神功皇后を『三韓(新羅)征伐』の英雄としたのは、皇后が神功王朝の始祖とされたことによると思われる。しかし天皇家は万世一系のたてまえ上、そのことは記紀に書けなかった。神功皇后の新羅攻めは史書に基づくものではなかったのである。
ここで、先に記した謎である。
1.の謎は、特に新羅ではなく、朝鮮半島の国々であれば、どこでも良かったが、新羅の国王や貴族は黄金で飾っていた事実が、当時の日本へ伝聞として伝わり、実物の一部が伝播していたことから、そのような国を征伐したとの宣伝効果をえるために、新羅征伐を狙ったものと考えられる。
2.の謎である。なぜウソと分かる寿命330年と記したのは、5代の天皇側近として、万世一系の天皇家を支え続けてきた証としたのであろう。
以下、藪から棒で恐縮である。邪馬台国は北部九州に存在したであろう。しかし、その女王国は南九州の狗奴国に滅ぼされ、狗奴国の手によって統一されたとする。そして同時期に大和では、もう一つの王権が誕生していた。これを水野氏は『原大和国家』と呼ぶ。
その『原大和国家』の王であった仲哀天皇が『熊曾じつは狗奴国』を征伐するために九州に遠征したが、逆に敗北し自らは討ち取られてしまった。その勝利者が応神天皇であり、その息子の仁徳天皇は九州から難波に遷都した。
そして征服者として、大和と九州の二つの力を動員して、巨大な天皇陵を造営したとするのである。ちなみに応神は九州で亡くなったが、後を継いだ仁徳は、父の墓を難波に造らせたとするのが、水野氏の『狗奴国東遷説』である。4世紀末から5世紀にかけ、難波の地に突然巨大な前方後円墳が出現した理由を無理なく説明できる。なぜこれほどまでに巨大古墳を築けたのか。それまで対立していた複数の国家が統一され、国力が倍増した結果である。
この水野氏の説は、時代観に問題がありそうである。3世紀の邪馬台国と狗奴国の戦いが、5世紀中頃の河内の巨大古墳群とどのようにつながるのか。
じつは、それほど大きな矛盾はなさそうである。卑弥呼を継いだ台与が狗奴国に敗れるのは3世紀中頃以降から後期にかけてのこと。その狗奴国が4世紀―5世紀にかけて熊襲(後の隼人)として益々勢力が伸長し、仲哀天皇の熊襲退治譚につながり、逆に仲哀天皇が熊襲に退治されたとすることに、時間的矛盾は存在しない。
免田式土器 出典・あさぎり町HP
・・・が、しかし、水野説が唱える王朝が巨大古墳や河内王朝の基礎を築いたとして、それらは考古学的に証明できるであろうか。森浩一氏は免田式土器(弥生期から古墳初期にかけて)が熊襲の文化圏によって生み出されたものであるとしておられる。この免田式土器や熊襲の何某かを証明できる出土遺物が、河内から発見されたとは聞いていない(河内から出土する外来系土器は、東海・吉備・近江・山陰系で熊襲のクの字もない)。狗奴国東遷説は考古学的に証明不能な論説の類であった。
また武内宿禰は存在せず、万世一系を証明する役割を担わされた、架空の人物であったが、応神天皇は神功皇后と武内宿禰の間にできた御子であったとする説には魅力を感じ、その説(見解)に同調したい。
<了>
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